獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『日米開戦の真実』を読む(その12)

2024-11-08 01:57:27 | 佐藤優

創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えます。

というわけで、こんな本を読んでみました。

佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」


興味深い内容でしたので、引用したいと思います。

読者が読みやすく理解しやすいように、あたかも佐藤氏がこのブログを書いているかのように、私のブログのスタイルをまねて、この本の内容を再構成してみました。
必要に応じて、改行したり、文章を削除したりしますが、内容の変更はしません。

なるべく私(獅子風蓮)の意見は挟まないようにしますが、どうしても付け加えたいことがある場合は、コメント欄に書くことにします。

ご理解の上、お読みください。

日米開戦の真実
――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く

□はじめに
□第一部 米国東亜侵略史(大川周明)
□第二部「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優)
■第三部 英国東亜侵略史(大川周明)
■第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優)
□あとがき


英国東亜侵略史(大川周明)

第一日「偉大にして好戦なる国民」

常に実際の利益のために戦う
地中海が商業交通の中心であり、欧羅巴の商権がイタリーの町々とハンザ同盟の手に握られていた頃のイギリスは、欧羅巴の片隅に位する弱小なる国家にすぎなかったのであります。それにもかかわらず、アメリカ大陸の発見及び印度航路の発見が、大西洋をもって第二の地中海たらしめるに及んで、運命はイギリスに向かって微笑し始めたのであります。イギリスはこの重大なる歴史の転回期において、一面には群島内部における国家的統一を成就し、他面にはこれまでのフランス侵略政策を棄てて、その国是を海洋並びに海外に対する発展に向け始めたのであります。そしてこれと共にイギリスの地理的特徴が、俄然としてその意義を発揮し来り、世界制覇のための最も有利なる条件となったのであります。
まずイギリスは海によって囲まれた島国でありますがゆえに、外国との直接の軋轢を免れ、欧羅巴大陸諸国のように、重大なる犠牲を国境戦争に払う必要がなかったので、そうして節約された国力を、存分に海上の活躍に用いることが出来ました。そしてその位置は、一面において欧羅巴という選ばれたる大陸に面しており、エルベ河よりセーヌ河に到る大陸の大きい河々は、すべてイギリスに向かって注いでおります。そして他面においても同じく選ばれたる海、大西洋に面し、その著しく発達した海岸線は、この国のために無数の港湾を提供しております。こうしてヴァスコ・ダ・ガマ及びコロンブ以前においては、わずかに欧羅巴の片隅の一歩哨に過ぎなかったこの国が、今や欧羅巴大陸の運命を海洋の上に展開する自然の開拓者となったのであります。
このようなイギリスの地理的特徴が、まず列国に先んじて世界的舞台に活動する機会をイギリスに与えたのでありますが、経験主義・個人主義・功利主義をもってその本質とするイギリスの国民性も、またこの発展に好筒(こうこ)の条件となったのであります。ルーテルの宗教改革は、ローマ教会の束縛から個人を解放したものでありますが、イギリスの徹底した個人主義的国民性は、この宗教改革が生んだ個人解放の成就のための最も都合よき下地となっております。この国民性のためにイギリスは、その他の欧羅巴諸国がなお未だ教会と僧侶との束縛に対して悪戦苦闘している間に、国民としていち早く中世期的権威を破壊し、諸国に先んじて自由にその力を世間的活動に用いたのであります。のみならずあくまでも事実と経験とを重んじる国民性でありますから、エマソンが申しているとおり、常に想像のために戦わずして実際の利益のために戦い、その精力を実際的活動に向かって集注させたのであります。その上イギリスの気候風土が、イギリス人の体力を健全強壮ならしめ、堅忍不抜の意志を鍛錬し、善戦健闘の精神を養成しております。
また彼らにとって甚だ好都合であったことは、ピューリタンの教義が、彼らの世間的勤勉や金儲けに対して、宗教的・道徳的基礎を与えてくれたことであります。単にイギリスとは言わず、すべて北方に国を建てる民は、険悪なる風土と戦って自己の生存を維持し発展させねばなりません。そのためには栄養に富む食物、温暖なる着物、堅牢なる家屋が必要であります。従って営々孜々として利を営むことが、一個の美徳と考えられるようになるのであります。ピューリタンもその通りで、この宗教はその名のように、一面にはイギリス人に克己制欲の生活を要求すると同時に、他面には勤勉と営利の精神を鼓吹したのであります。それゆえにイギリス人は、道徳的義務を遂行する心持ちで金儲けに身を委ねることが出来ました。キリストは、神と黄金とに兼ね仕えることが出来ないと申しましたが、イギリス人は安んじて神と黄金とに兼ね仕えることが出来たのであります。

欧羅巴の最強国を次々と撃破
このようにしてイギリスは、国を挙げて営利に没頭し、その経済的勢力を海外に扶植していったのであります。そしてその勢力圏の驚くべき拡大に伴い、民族としての自尊心と自信も次第に昂まり、限りなき膨張的本能と、これに相応する発展的性質を養い上げて、ついに古代ローマ帝国以来、未だかつて見ない支配民族となったのであります。
今日のイギリス人は、口を開けばイギリスの世界的覇権が平和の間に確立されたかのように主張しますが、それは偽りであります。世界制覇の志を抱いたのは、決してイギリスのみのことでなく、他の欧羅巴諸国も同然でありましたから、イギリスはこれと死活の戦を戦い通してその目的を遂げたのであります。ただここで注意すべきことは、世界制覇のための戦が、海洋の上または海外において戦われたよりも、むしろ多く欧羅巴大陸において行われたこと、及びイギリスのために戦ったのが、英国自身の軍隊よりは、むしろ戦費をイギリスに仰いだ同盟国の軍隊であったということであります。それからイギリスが常にその敵として戦ったのは、海上並びに海外における最も強く最も恐るべき競争国であり、力弱い競争者に対しては原則として親善なる態度をとり、攻撃の全力を最も強大なる敵国の上に加えてきたのであります。しかも一旦これを撃破してもはや危険ならざる程度に打ちのめした後は、努めてこれと親善なる関係を回復し、来るべき機会にさらに新しき競争国と戦う場合に、かえってこれを自国の同盟者たらしめるようにしたのであります。
近代英国が第一に選んだ相手はスペインでありましたが、1588年、これは我が国では羽柴秀吉が太政大臣となって豊臣という苗字を名乗り始めた年であります――この年にイギリスは英国海峡における3日の奮戦によって、見事敵の無敵艦隊を粉砕し、徹底してスペイン制海権を覆し、百年にわたるイベリア国民の優越を没落せしめて、ここにイギリス海上発展の第一の基礎を築いたのであります。
次にイギリスは第二の敵手としてオランダを選びました。その戦いは、オリヴァー・クロムウェルの雄渾なる精神と鉄石の意志からほとばしった1651年の航海条例によって、最も無遠慮にオランダに対して挑まれ、1652年から1674年の間に行われた三度の戦争によって、これまで「海洋の幸福なる所有者」と謳われたオランダは、その優越なる制海権を苦もなくイギリスに奪われてしまったのであります。
オランダを雌伏させたイギリスは、第三の敵手としてフランスを選びました。イギリスは、1688年から1815年に至る126年のうち、実に64年間は戦争をもって終始しております。地球上のいずれの国民も、これほど頻々と戦争に参加したものはありません。この間の数々の戦争は、その本質においてはことごとく欧羅巴大陸並びに植民地におけるイギリスとフランスの争覇戦であります。そしてこの百年を超えた長き英仏争覇戦は、ナポレオンの最後の敗戦によって、遂にイギリスの勝利をもって終わりを告げたのであります。

第四の敵手、ドイツ
このような次第でありますから、19世紀の英国史は、もはや前世紀の歴史とは面目を異にし、欧羅巴列強との争覇戦は終わりを告げ、海上においては世界無敵の覇者となり、植民的発展においては非常なる成功を収めたので、その後ロシアが中央亜細亜からアフガニスタンに迫って印度を脅かすまでは、世界政策においてほとんど無人の野を闊歩する有り様であったのであります。
すなわちこの間にイギリスは、まず印度全部を事実上の領土としております。1826年から1886年に至る間にビルマを併合しております。印度航路を確実に守るために、1839年には紅海の入口のアデンを、1857年には同じくペリム島を占領しております。1842年には阿片戦争によって香港を支那から奪い、東亜侵略の根城を作っております。地中海では1878年、キプロス島をトルコから奪い、太平洋上では豪州全部及びニュージーランドを英国国旗の下に置きました。阿弗利加では次第に領土を南部及び西部に広めました。
そして1875年には、実に咄嗟の間にわずかに4000万円をもってエジプトからスエズ運河の株券を買収しております。この運河はフランス人レセップスの不屈不撓の努力によって出来たもので、イギリスは実に悪辣極まる方法をもってその仕事を妨害したのでありますが、一旦竣工するとその実権を自国の手に収めたのであります。そして1882年には、エジプトに起こったアラビ・パシャの民族運動による国内不安を口実としてアレキサンドリア港を砲撃し、これを端緒に積極的にエジプト侵略をはじめ、容易にその目的を遂げました。そして最後に南阿弗利加のブール人の両共和国を征服し、ここにイギリス世界帝国の最後の建設を終えたのであります。
それゆえに19世紀の英国史は、もはや覇権獲得の歴史ではなく、その強化、その確保、その維持の歴史であります。従って1914年の世界大戦に至るまで、イギリスはひとたびも決定的戦争を行う必要がなかったのであります。しかしながらイギリスの伝統的政策そのものは、19世紀においても何らの変更を見るはずはありません。従前と同じく、いやしくも新興国家が俄然頭角を現さんとする場合は、イギリスは直ちに容赦なき一撃をこれに加え、または強硬にこれを脅迫して、その野心を放棄させなければ止まなかったのであります。クリミア戦争及び日露戦争後のロシア、あるいはファショダ事件以後のフランス、みなこの政策の俎板の上にのせられたのであります。そして近代ドイツの勃興が、欧羅巴の勢力均衡を覆し、やがてはイギリス世界幕府の顛覆者たらんとする惧れあるに及んで、イギリスは第四の敵手としてドイツを選び、まずいわゆる包囲政策によってこれを孤立に陥れ、次いで英独争覇戦としての第一次世界大戦となったのでありますが、この戦争においても、イギリスは一旦は勝利を得たのであります。
ドイツに打ち勝ったイギリスは、国際連盟によって戦後の世界を釘付けにし、これによって自己の欲する世界秩序を維持しようと努めました。とりわけボールドウィン内閣の外相イーデンは、国際連盟を強化していわゆる「集団保障」の体制を築き上げるために最も熱心に努力したので、この政策はイーデン外交と呼ばれております。ところが満州事変によって、日本がまず連盟から脱退しました。次いでエチオピア問題が起こった時に、イギリスは国際連盟規約を利用して経済的圧迫をイタリーに加え、大いなる期待をもって集団保障の効力を実地に試してみたのでありますが、御承知のように惨憺たる失敗に終わったのであります。
当時ボールドウィン内閣の蔵相であったチェンバレンはこの実情を見て、1936年のある会合において「国際連盟至上主義は、エチオピア問題の経験によってもはや維持されなくなった。重大なる国際間の問題を連盟に託することは、考え直さねばならぬ」という意見を発表しております。それでボールドウィンの後を受けて自分が内閣の首班になりますと、連盟至上主義のイーデン外相を犠牲にし、集団保障制の代わりにいわゆる協和政策を樹立することによって、イギリスの安定を図ろうとしたのであります。

執拗無比の戦闘的精神
協和政策とは、欧羅巴の四大国、すなわち英・仏・独・伊の和解によって、欧羅巴の平和を維持せんとしたものであります。この目的のためにチェンバレンは、あれほど反目していたムッソリーニに親しく手紙を送り、過去は一切水に流して、地中海における二大国として協調したいという希望を述べ、またロンドンデリー侯爵、ロシャン侯爵などをドイツに派遣して、ヒトラーやゲーリングと懇談させております。それでイギリスは、ヒトラーがオーストリアを併合した時でも、また、チェコ問題の時でも、ドイツに向かって武力を用いることを避け、世界に固唾を呑ませたミュンヘン会議も、結局イギリスの譲歩によって協定が出来たのみならず、協定調印と同時にヒトラーとチェンバレンの両人が署名して、次のように共同声明をしております。すなわち「英独両国が再び相互に相戦う意志のないことは、先に両国間に成立したる海軍協約、及び今ここに調印を終えたミュンヘン議定書で明白である。我々両人は、英国民もドイツ国民も、両者間の問題はすべて相談によって解決すべく、これが両国民共通の意志であることを声明する」というのであります。
ところがチェンバレンの協和政策は、ヒトラーが一晩の間にチェコの残部を併呑し去るという離れ業を敢えてしたので、脆くも失敗に帰しました。この時以来チェンバレンは、英独両国は断じて両立出来ぬという信念を堅め、ここに対独決戦の覚悟を決めたのであります。そのために唱えられたのがいわゆる平和戦線(ピースフロント)であります。
平和戦線というのは、武力的に極めて強力なる一個の結合を作り、この強大なる武力結成の前に、侵略国家をしてその野心の実現を断念させようとする仕組みであります。このようにして、イギリスはまず自国軍備の強化に全力を注ぎ、イギリスを中心としてドイツよりも遥かに強力なる武力群を結成してドイツに臨み、可能ならば戦わずしてこれを屈し、やむなくば今度こそ一戦を交える覚悟で進んで来たのであります。
一昨年のこと、北洋漁業がイギリスとの間に、鮭缶詰三千万ケースの売買契約が出来たというので、農林省ではこれも貿易振興政策の結果だと吹聴していたことを記憶しておりますが、これは取りも直さず、英独戦争を覚悟しての食糧貯蔵に外ならなかったのであります。事情はこのようであるがゆえに、両国の戦争は避けられない運命であったと申さねばなりません。
今日の英人は好んで平和を口にし、自ら平和の愛好者と称えております。しかしながら、少なくとも過去の英人は、ミルトンが「汝ら偉大にして好戦なる国民よ!」と呼んだように、天国において奴隷たるよりは、地獄において主人ならんと豪語してきた好戦敢為の民であり、かつその世界制覇は、執拗無比の戦闘的精神によって成就され、現に必死の力をふるってこれを守ろうとしているのであります。それでもイギリスが、ドイツと共に日本を敵とするに至ったことは、その運命の尽きる日が到来したことであります。イギリスの運命尽きることは、世界が解放されること、とくに亜細亜が解放されることであります。以上、私はイギリス世界制覇の経路を述べ終わり、明朝よりその東亜侵略の跡を辿ろうと存じます。

 


佐藤氏による解説

「地政学」と「普遍主義」

大川周明は当時第一級の知識人である。
『米英東亜侵略史』は国民向けに噛み砕かれた内容になっているが、言うまでもなく、大川は開戦当時の政治的・思想的状況を十分に押さえた上で議論を展開している。本章では、少し踏み込んで、当時の思想状況について解説しながら、大川の立ち位置を明らかにしたい。なぜこのような面倒な作業をするかといえば、思想史的整理を行うことで、歴史は繰り返すことがよく見えてくるからだ。哲学的な議論が出てくるので、わかりにくいと思われる読者は本章を読み飛ばしていただいても構わないし、あるいは最後に本章に戻ってきた方が大川の内在的論理についての理解が深まるかもしれない。

1991年12月のソ連崩壊で、東西冷戦は終結した。
「冷戦後」の時代は2001年9月11日の米国同時多発テロ事件まで続いた。9・11後の世界は「冷戦後」と区別される「ポスト冷戦後」の時代である。この時代を乱暴に整理すると、唯一の超大国にして政治、経済、軍事の全ての面で、いかなる国家に対しても影響を及ぼすことのできるアメリカ帝国、ユダヤ・キリスト教の一神教原理、ギリシア古典哲学、ローマ法の伝統という中世ヨーロッパを形成した「コルプス・クリスチアヌム(キリスト教世界)」を世俗的な形で復活させた欧州連合(EU)という帝国、単一のカリフ帝国の形成を夢想するアル・カーイダに代表される潜在的イスラーム帝国、さらに自己の基準を周辺世界に押しつける帝国に発展しうる中華帝国といった、従来の国民国家の「ゲームのルール」に収まらない新しい帝国が出現しつつあることだ。アメリカ人、ドイツ人、サウディ・アラビア人、中国人で国民国家に帰属するとともに帝国にも帰属しているという二重国籍を実質的にもっている人間が増えつつある。複数の帝国が並存する状況では地政学(ゲオポリティックス)が大きな意味をもつ。ただし、外交戦略を構築する際、帝国の中でも最強国だけは地政学を採用しない。この理由については後で説明する。

20世紀前半、アメリカの帝国主義政策は「オレンジ計画」に結実した。
「オレンジ計画」は地政学に基づいて作られた作戦計画だ。それから、戦前・戦中の日本が追求した大東亜共栄圏の背景にも地政学が影を落としている。地政学とは、民族や国家の形成と発展にとって地理的要因が決定的な重要性をもつという考え方である。19世紀末に列強の帝国主義的対立が強まる中で地政学が流行 した。ドイツのラッツェル、イギリスのマッキンダー、アメリカのマハンが政治と地理の関係で外交戦略を組み立てる過程で原型が作られたが、地政学という名前を最初につけたのはスウェーデンの政治学者チェレーンである。
大川周明はマハンの太平洋戦略をアメリカの帝国主義政策の原型ととらえているが、それを地政学とは性格付けていない。そもそも大川は地政学の概念を用いて、世界史を説明しようとしない。
これは大川が歴史を動かす要因として意思の力をより重視していることと関係していると筆者は考える。地政学だと、人々が生まれてきた土地によって、歴史的可能性が著しく限定される地理的決定論に陥ってしまう可能性がある。観念論者である大川にしてみれば、このような物質的限界を打ち破る意思の力を信頼するが故に地政学に与しなかったのだと思う。
地政学は、地理的拘束性を重視する立場に立つため、多元論を採ることになる。それは地政学的特徴に裏付けられた小世界が複数存在することを意味する。そのときそれぞれの小世界は、自らの論理をもつ。これらの小世界が棲み分け、競合し、人類は発展していくのであるが、どれか一つの小世界が世界全部を制覇することにはならない。世界を一つにまとめていこうとする普遍主義の思想と地政学は基本的に相容れないのである。普遍主義というとわかりにくいが、現在、アメリカが進めているグローバリゼーションは、アメリカの基準で世界を統一しようとしている点で普遍主義だ。
世界史とは、それぞれの小世界が自分の眼で見た歴史を描くことである。従って、世界史は単一ではなく、小世界の数だけ存在する。例えば、「元寇」は、日本人や朝鮮人が描く世界史の一部であるが、チェコ人にとっては世界史ではない。チェコ人やドイツ人にとって、1620年にチェコのプロテスタント軍がドイツのカトリック軍に敗れた「ビーラ・ホラ(白山)の戦い」は、世界史の一部であるが、日本人にとっての世界史の一部ではない。
近代になり、交通手段の発達が地理的距離を縮め、また、現下インターネットの普及によって、安価なコミュニケーションツールが地球規模に拡大しても、(世界史を規定する)土俗性と結びついた文化は変化しないのである。

大川はイギリスの帝国主義政策は、イギリスの基準によって世界を支配しようとする普遍主義と見ている。ちなみに大川の帝国主義に対する評価は一義的ではない。地域の文化と伝統を尊重する帝国が複数並存するという形の帝国主義に大川は異議を唱えない、まさに大東亜共栄圏を提唱する日本の帝国主義はそのような形態だったのである。これに対して、単一の基準で世界を制覇しようとする普遍主義的帝国主義は、人類の死につながるとして大川は原理的に排斥するのである。大川はイギリスをこのような危険な帝国主義の典型国と考える。筆者の理解では、ここで大川が展開している議論は現下国際情勢を理解する上でも役に立つ。
(中略)
当時のイギリスを現下のアメリカと読みかえてみてもいいのである。ここでは普遍主義を採用した帝国がどのような行動様式をとるかが重要なのだ。最も強い帝国は普遍主義(具体的には19世紀イギリスの自由主義や現在のアメリカの新自由主義)を採用することが自己の利益の極大化に貢献するのである。大川は、イギリスはその本質において陰険で狡猾な国であると手厳しく批判すると同時にそのイギリスが歩んできた歴史を詳細に分析し、帝国主義の内在的論理を明らかにしている。大川はその独特の世界戦争観を、帝国主義と戦争の不可分性からスタートさせ、「世界戦はその表面に現れたる相としては英独の世界争覇戦であった」(大川周明『復興亜細亜の諸問題』中公文庫、1993年、27頁)と考える。イギリスは世界戦争に勝利するために、道義性を投げ捨てて、なりふり構わず何でもしてきた国家と捉えるが、筆者もこの考えに同意する。

 

構成・獅子風蓮