創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えます。
というわけで、こんな本を読んでみました。
佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」
興味深い内容でしたので、引用したいと思います。
読者が読みやすく理解しやすいように、あたかも佐藤氏がこのブログを書いているかのように、私のブログのスタイルをまねて、この本の内容を再構成してみました。
必要に応じて、改行したり、文章を削除したりしますが、内容の変更はしません。
なるべく私(獅子風蓮)の意見は挟まないようにしますが、どうしても付け加えたいことがある場合は、コメント欄に書くことにします。
ご理解の上、お読みください。
日米開戦の真実
――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
□はじめに
□第一部 米国東亜侵略史(大川周明)
□第二部「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優)
■第三部 英国東亜侵略史(大川周明)
■第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優)
□あとがき
英国東亜侵略史(大川周明)
第六日 我らはなぜ大東亜戦を戦うのか
東洋の中心――支那と印度
中央亜細亜のパミール高原は、古より世界の屋根と呼ばれております。この高原から斜めに西南に走る山脈はスライマン山脈と呼ばれ、印度とアフガニスタンの国境を走って印度洋に尽きております。また、この高原から北に走るものは天山山脈と呼ばれ、ズンガリア盆地において一旦杜絶した後、再びアルタイ山脈となって東北に延び、さらにヤブロノイ山脈・スタノボイ山脈となっていっそう東北に向かい、遂に亜細亜大陸の東北端イースト・ケープとなってベーリング海峡に突出しております。すなわち南はインダス河口から北はベーリング海峡に至るまで、亜細亜大陸は西南より東北に走る蜿蜒(えんえん)万里の山脈によってまさしく両断されているのであります。この山脈は世界の屋根の長い長い棟であります。そしてこの屋根によって旧世界は東洋と西洋との二つに分かれております。 すなわちこの屋根の棟の東南斜面が東洋であり、南西斜面がとりもなおさず西洋であります。ペルシア・小亜細亜・アラビアの諸国は、亜細亜のうちに含まれてはおりますが、これを地理学の上から見ても、また世界歴史の上から見ても、明らかに西洋に属するものであり、真実の意味の東洋は、疑いもなくパミール高原以東の地であります。
この東洋の世界はヒマラヤ山脈に起こり、崑崙山脈となり、東へ東へと進んで支那海に至って尽きる東西万里の山脈によって、さらに南北に両分されております。南方、すなわちヒマラヤ山脈の南斜面は印度であり、ヒマラヤの北、天山アルタイ両山脈の東が取りも直さず支那であります。そして印度と総称されるヒマラヤ山脈の南斜面は、さらに東西両分に分かれ、西なるはヒンドスタン・インド人の国、すなわち狭い意味の印度であり、東部はビルマ・タイ・安南等を含むいわゆる印度支那で、その名のごとく地理的にも歴史的にも、東洋の偉大なる二つの部分、印度及び支那の中間に位する国土であります。
印度と支那とは、東洋の二つの偉大なる中心であります。
両者の面積はほとんど相同じく、人口はまた各々数億を数え、ヒマラヤ山脈によって南北相隔てられ、一方には蒙古人種、他方にはアーリア人種が住み、一方は温帯、他方は熱帯、相距ることも遠く、相異なること大でありますが、東洋は実にこの二つのものの結合によって一つの全体をなしているのであります。そして我が日本はこれらの東洋の二つの中心から、実に幾多の貴きものを学び、善きものを習い、これを自身の精神のうちに統一し、これを生活の上に実現しつつ今日に及んだのであります。
日本の勝利を印度独立の機縁に
西洋人が渡来するまで、日本人にとって世界とは実に支那と印度、すなわち唐と天竺(てんじく)とを中心とする東洋を意味し、この両国に我が日本を加えて三国と称えてきたのであります。三国一の花嫁とは世界第一の花嫁のこと、三国一の富士山とは支那にも印度にもない世界一の立派な山のことであったのであります。三国妖婦伝という物語では、九尾の狐が、支那・印度日本三国の宮廷を瞞しまわっております。それゆえに支那と印度とは、我々にとっては、少なくとも我々の祖先にとっては、決して他国ではなかったのであります。日本はこれらの国から数々のものを学んだので、それだけに他国でないのみならず、実に大切な国、有難い国であったのであります。ところが今や釈尊が生まれ、孔孟が生まれたその大切な国が、イギリスの属国となり、その半植民地と成り果てているのであります。
我らが印度から学んだ最も貴いものは宗教であります。すなわち印度思想・印度文明の精華と申すべき仏教の信仰であります。我々の祖先がいかに誠実にこの教えを学び、この教えの生まれた印度に憧憬していたかを示すため、幾多の例を挙げることが出来ますが、最も私の心を打った一つだけを申し上げます。それは鎌倉初期の高徳、京都栂尾(とがのお)の明恵上人のことであります。
この上人は印度に渡って仏蹟を巡礼したいという抑え難い願いから、その巡礼の筋道を事細かに調べ上げ、支那の都の長安から印度の王舎城までは八千三百三十里、日に八里ずつ歩けば千日、日に五里ずつ歩けば、正月元日に長安を出発して、五年目の六月十日の午刻に王舎城に辿り着く、天竺は仏の生国なり、恋慕の思い抑え難きにより、遊意をなしてこれを計る、あはれあはれ参らばやと書いております。不幸病のために印度巡礼の願いは遂げられなかったが、印度から渡ってきた竹を見るに、日本の竹と異なるところがない。そうであれば釈尊当時の竹林園の竹もまたかような竹であろうと、一むらの竹を学問所の前に植えつけ、これを竹林竹と名づけて、あけくれ眺めていたのであります。まことに激しい思慕のこころと申さねばなりません。もしこの明恵上人が、今日蘇って印度の現状を見、印度がイギリスの鉄鎖に縛られ、その民が牛馬のように虐げられているのを見たならば、血涙を流して悲しみ、火のように激しく憤ることであろうと存じます。
我々は印度の仏教から、信仰だけを学んだのではありません。仏教は同時に五明すなわち五つの学問を我々に教えております。
第一は因明で、論理の研究、第二は内明で、教典の研究、第三は声明で、言語音律の研究、第四は医方明で、医術の研究、第五は工巧明で、工藝美術の研究であります。
しかも教典の研究のうちには、仏典以外の儒教の経典をも含み、寺は寺子屋と呼ばれて国民教育の機関となり、その教科書には儒教の経典が用いられていたのでありますから、仏教は日本にとって一個の宗教であったのみならず、同時に文化の総合体であったのであります。すなわち、印度文化全体が釈尊または仏教を通じて我が国に伝えられ、その仏教の真理は、いろいろなる理論によってに非ず、 生活体験によって日本人の魂に浸み込んだのであります。従って仏教徒たると否とを問わず、我々日本人は甚だ多くを釈尊の印度に負うているのであります。それゆえ、真実の日本人である限り、多かれ少なかれ明恵上人が抱くであろうところの悲しみと憤りとを感ぜねばならぬはずであります。
それでありますから、我々日本人が英国の印度統治に対して加える弾劾は、一昨日紹介したアメリカのブライアンが加えたような、単なる人道主義による道徳的非難たるに止まらず、同時に我が心と我が身とに加えられたる辱しめを感じての義憤であります。現代印度革命思想の生みの親、アラビンダ・ゴーシュは「圧制者あり、我が母の胸に坐す。我が母をこの圧制者より救うまで我は断じて息まず」と誓っておりますが、我々はこの悲壮なる覚悟を、我々自身の覚悟のごとく身に沁みて感ずるものであります。私はこの度の対米英戦争における日本の勝利が、必ず印度独立の機縁となり、導火線となって、古釈尊より受けたる教えに対する最も善き贈り物として、自由を印度に与え得るに至らんことを切望するものであります。
日本人と支那人は兄弟である
日本と印度との間のこうした関係は、支那との場合においても同然であります。我々は支那文明の精華と申すべき孔孟の教えを支那から学んだのであります。我々は、すべての生活の基礎を倫理に置かねばならぬこと、すなわち人格の上に置かねばならぬという高貴なる精神を、極めて明晰なる理論をもって儒教から学んだのであります。のみならず、江戸時代三百年の間、学問と申せば支那の学問でありましたので、政治・道徳・文学、あらゆる方面において善かれ悪かれ支那文化は国民生活の隅々に浸透し、印度がそうであるように、支那もまた我が身我が心の一部となったのであります。
その上支那は印度と異なり、一衣帯水の間柄でありますから、多くの支那人が日本に来て、彼らの血が日本人の血に混じっております。中国の大大名であった大内氏も、薩摩の島津家も、遠くその祖先をただせば、朝鮮を経て日本に渡って来た支那人だと言われ、一徹短気で名高い赤穂義士の武林唯七は孟子の子孫だとも申されております。純然たる日本文学と考えられている紫式部の源氏物語でさえ、その思想も、その文学としての結構も明らかに漢学漢文から脱化したものであります。大宝令は御承知のように支那の法律制度を模範としたものであります。
我らの先祖は日本の歴史を学ぶと同じ程度の親しみをもって支那の歴史を学び、日本の英雄豪傑を崇拝すると同じ程度の熱心をもって支那の英雄豪傑を崇拝したのであります。諸葛孔明の出師表は、どれほど日本人に忠義の心を鼓吹したか知れず、岳飛の誠忠がどれほど士気を鼓舞したか測り知れぬほどであります。日本人中の最も偉大なる日本人西郷隆盛が、いかに伯夷叔斉の高潔なる心事に傾倒していたかは、彼自身の文章によって知ることが出来ます。
とりわけ支那文学が甚だしく日本人に喜ばれ、漢詩を作ることは、教養ある人士に欠くべからざる条件の一つとさえなったので、支那の詩歌文学に現れてくる山や川は、自分の故郷の地名のように日本人の耳に響いたのであります。黄河も楊子江も、赤壁も寒山寺も、あるいは西湖も洞庭湖もみな我々の耳に久しく聞き馴れておりますので、例えば「揚子江頭楊柳の春、楊花は愁殺す江を渡るの人」という詩を吟ずれば、我々は支那の詩人が、長江に寄せた綿々の哀愁を、自ら楊子江畔に立って感ずるごとく感じます。また「洞庭西に望めば楚江分る、水尽きて南天雲を見ず」と歌えば、洞庭湖は決して他国の湖とは思えないのであります。日本人と支那人とは、「我々」という一人称を用うべき兄弟であります。
この支那が、国民の身と心を蝕み尽くす阿片吸飲のあさましい風習を止めるために、阿片輸入を禁止するのは当然至極のことでありましたが、それが承知罷りならぬといって武力を用いたのが、実にイギリスであります。イギリスは一切の道徳を無視し、毒薬を買い込んで金儲けをしようという一群の商人の貪欲なる希望を満足させるために、その軍隊を用いたのでありますから、英国軍隊を貫く精神は、ホーキンス、ドレーク等の昔ながらの海賊精神であります。今も昔も変わりなきこの精神をもってイギリスは支那に臨み、必要あれば武力をもって、そうでない時は買収と外交的術策と威嚇をもって、遂に支那をその半植民地とし、支那民族を最も都合よき搾取の対象としたのであります。イギリスの対支政策は形こそ変われ、大砲の筒先を向けて、恐るべき阿片を突きつけ、飲まねば打つぞと言ったその精神の種々の現れであります。
湧き上がる日本民族の赤誠
日本が支那の領土保全を不動の国是としてきたのは、その奥深き根底を、日本人の真心に有しております。支那の文明は黄河と揚子江の流域に起こり、その文明は我が日本の生命と生活とのうちに、今なお撥刺として生きているのであります。それゆえに何はともあれ、黄河、楊子江の流域が他国の手に奪われるに忍びない、あくまでもこれを漢民族の手に保存させておきたいというのが、自ずと湧き上がる日本民族の赤誠であります。
支那は、この赤誠より送れる日本の政策のために、イギリスの、またはロシアの奴隷となり果てずに済んだとは申せ、年久しく欧米の資本主義並びに帝国主義角逐の舞台となってきたので、年一年と自国の貴重なる文化を犠牲にする危険に曝されてまいったのであります。かつては東亜の国々をあれほど豊かにした支那文化は、巧みに支那の統一を破る術を心得ている欧羅巴帝国主義的諸国、とりわけイギリスの侵入と共に、内的にも外的にも弱められて、ついに偉大なる過去の、単なる影と成り下がらんとしております。
のみならず、イギリスの巧妙なる搾取と相並んで、今やボルシェヴィズムの暗い力が新たに支那の舞台に現れ、衰えたる支那をその勢力の下に置きはじめたので、支那の文化は破壊崩潰に対して、ますます無抵抗に曝されるに至ったのであります。日本は自国の文化と、支那において脅かされつつある東洋文化を救うために、あらゆる努力を続けて戦い来れるにかかわらず、支那は起って我らと共に東洋を護り、アジアを滅ぼす勢力と戦わんとはせず、かえって刃を我らに向け来たのであります。そして、東洋の敵たる英米と手を握り、今なお東洋を救いつつある日本と戦い続けんとするのであります。もとより南京政府はすでに樹立され、江精衛氏以下の諸君は、興亜の戦において我らと異体同心になっておりますが、支那国民の多数はその心の底においてなお蒋政権を指導者と仰ぎ、日本の真意を覚らんともせず、かえって日本に反抗しつつあることは、悲痛無限に存じます。 さりながら明治維新を顧みましても、各藩に勤皇佐幕の対立抗争あり、勤皇諸藩の間に反目嫉視あり、最後に薩長相結んで幕府を倒すに至るまで、いかに多くの高貴なる鮮血が流されたかを思えば、これまた止むなき次第であります。
三国を一個の秩序たらしめるための戦い
日本の掲げる東亜新秩序とは、決して単なるスローガンではありません。それは東亜のすべての民族にとって、この上なく真剣なる生活の問題と、切実なる課題とを表現したものであります。この問題または課題は、実に東洋最高の文化財に関するものであります。それゆえに我らの大東亜戦は、単に資源獲得のための戦でなく、経済的利益のための戦でなく、実に東洋の最高なる精神的価値及び文化的価値のための戦であります。
この東洋文化財は、すでに申し上げた通り、わが日本民族の魂に、また我が日本国家の中に統一されて、その最高の価値と意義とを発揮しているのであります。我々日本人の魂は、直ちにこれ三国魂であります。日本精神とは、やまとごころによって支那精神と印度精神とを総合した東洋魂であります。従って東亜新秩序の真箇の基礎たるべき魂は、すでに厳然として存在し、かつ活躍しつつあるのであります。足かけ5年、我々はこの魂を基礎とする秩序を、まず支那において実現するために、この実現を妨げるものと善戦健闘してきました。
そうして今や世界史の進転は、東洋の敵たる英米と日本との明らさまなる戦争となり、従ってこの新秩序の範囲を印度にまで拡大し得る形勢となったことは、我々の欣喜に堪えざるところであります。大東亜すなわち日本・支那・印度の三国は、すでに日本の心において一体となっております。我らの心理に潜むこの三国を、具体化し客観化して一個の秩序たらしめるための戦が、すなわち大東亜戦であります。
支那民族はやがてその非を覚るであろう。印度民族はやがて解放されるであろう。正しき支那と蘇れる印度とが、日本と相結んで東洋の新秩序を実現するまで、いかに大なる困難があろうとも、我らは戦いぬかねばなりません。いと貴きものは、いと高き価を払わずば決して得られないのであります。想えば1941という数は、日本にとって因縁不可思議の数であります。元寇の難は皇紀1941年であり、英米の挑戦は西紀1941年であります。私は日本の覚悟と努力とによって、英米の運命また蒙古のそれのごとくなるべきことを信じて、この不束(ふつつか)なる講演を終わることと致します。
【佐藤氏による解説】
広く共有されていた日米開戦の「不可避性」
大東亜共栄圏の論理を解説しながら、60年余の時を経て盛んに議論されている東アジア共同体をどのように捉えるべきかについて考えていきたい。
日本の知識人で、対米英戦争の必然性を論じたのは大川周明だけではない。例えば、当時論壇に強い影響をもっていた京都学派の高山岩男は日米戦争の意義を次のように説明している。
(中略)
帝国主義時代、欧米はアジア諸国の植民地化を目論んだ。日本は欧米の文明と技術を受容したが、日本固有の文化や論理を失わなかった。そして日露戦争に勝利することによって、欧米に対抗することが可能なアジアにおける唯一の国家、高山の言葉では「指導国家」となったのである。現在の用語に翻訳するならば、ヨーロッパへの内在化とはグローバリゼーションにアジアが包摂されることで、日本はそれに対抗する砦の役割を世界史において担うことになった。この指導国家としての使命を全うするためには、日本が他の帝国主義列強に匹敵する国力をつける必要がある。そのためには一時的に日本が中国を植民地にし、国家としての基礎体力を強化する必要があるが、それは他の欧米諸国のように中国の植民地化を最終目標とするものではない。中国を植民地から解放するために、日本が取らざるを得ない過程なのである。しかし、中国は日本が抱えているこの苦悩をわかろうとしない。
(中略)
高山は、日本の当面の敵は蒋介石が率いる中国国民政府のように見えるが、真相はそうではない、蒋介石の背後で中国に対する植民地支配の永続化を目指すイギリス、アメリカが画策を続けているのだ。日中戦争を永続化させることで日本の国力を疲弊させることを考えているのである、と理解していた。
ここでの大きな問題は、「他の諸国から収奪されているあなたの国を将来解放したいのだが、今は私に基礎体力が欠けるので、当面、基礎体力をつけるために、期間限定であなたから収奪する。それがあなたのためになるのだ」という論理は、収奪される側からは、まず受け入れられないにもかかわらず、当時の日本人に見えなかったことである。他国を植民地にし、そこから収奪しているという認識があれば、やりすぎることはない。やりすぎで、相手をあまり疲弊させると収奪できなくなってしまうからだ。それに対して、われわれの目的は収奪ではなく、あなたの国を植民地支配から解放することだという基本認識で、期間限定の基礎体力強化のために、「協力していただく」という枠組みを作ると、相手に対して与える痛みを自覚できなくなってしまう。
日米戦争は、それぞれの小世界が自らの場所を確立するために不可避であると当時の日本の知識人は考えた。著名なマルクス主義哲学者で左派陣営の代表的論客だった廣松渉(東京大学名誉教授、1994年死去)が当時の知識人の心象風景について、以下のようにまとめているが、ポイントを衝いていると思う。
日米開戦という現実を前にして、しかも、従前インテリたちが恐れていた敗北の危惧を吹き払うかのような緒戦の“大勝利”に狂喜する雰囲気のなかで永年にわたる対支行動や国内統制の強圧について、インテリたちがそれまでいだいてきた「やりきれなさ」や「不満感」を解消し――、戦争と国体を合理化しつつあらたなる決意を促すものとして、それは迎えられた。日本が対米戦争に勝利し、「万邦に各々その所を得しめる」ことによって、日本民族のこの歴史的使命を達成することによって、万事が目出度く終ろうというわけである。そこに確立される新しい世界史的秩序においては、精神的・文化的にも、旧来の近代ヨーロッパ的な原理に代って、「新しい歴史的・社会的・文化的な原理が確立されるであろうし、また、確立されねばならぬ」云々。(廣松渉「〈近代の超克〉論」『廣松渉著作集 第14巻』所収、岩波書店、1997年、133頁)
「万邦に各々その所を得しめる」とは、日本が全世界を制覇するというのではなく、日本とアメリカがそれぞれきちんと棲み分けるということだ。この点について、大川の基本認識も同じである。
日本は、もしアメリカが東亜における新秩序を認めさえすれば、東亜におけるアメリカの権益をできるだけ尊重し、かつアメリカのいわゆる門戸開放主義も、この新秩序と両立し得る範囲内においては十分にこれを許容する意図をもっていたのであります。ところがアメリカは、東亜新秩序建設を目的とする我が国の軍事行動をもって、あくまでも九ヵ国条約・不戦条約に違反する侵略行為とし、頑としてその見解を改めざるのみならず、東亜新秩序はやがて世界新秩序を意味するがゆえに、このような秩序――アングロ・サクソン世界制覇を覆すに至るべき秩序の実現を、その根底において拒否するのであります。
しかもこれらは決して現大統領の新しき政策にあらず、実にアメリカ伝統の政策であります。すなわちシュワードによって首唱され、マハンによって理論的根拠を与えられ、大ルーズヴェルトによって実行に移された米国東亜侵略の必然の進行であります。この伝統政策あるがゆえに、日米両国の衝突は遂に避くべからざるものであり、今や来るべき日が遂に来たのであります。
(米国東亜侵略史 第六日 敵、東より来たれば東条)
アメリカという小世界が、自己の置かれた限界を超えて、東アジアの覇権を求めようとしたから日本と衝突せざるを得なくなったのである。アメリカが東アジアには独自秩序があり、その内在的論理を認めるならば、日米戦争に至ることはなかったのであるが、アメリカには世界史が複数存在することが理解できなかったのである。アメリカがマハン流の普遍主義的な世界制覇を目論んだところに全ての問題の原因があるのだ。
60数年前まで、日米戦争の不可避性は日本国民に広く共有されていたのである。この点についても廣松は事情を客観的に紹介している。
“平和ボケ”の昨今では、つい20数年前の1950年代まで、米ソ戦争(第三次世界大戦)は不可避だというのが世人一般の確信的な既成観念であったことすら忘れられがちであるが、昭和の初年には日米戦争の将来的不可避性ということが絶対確実な既定の事実として人々に意識されていた。当時の常識では戦争というものは謂わば自然法則的な必然であって、特定の一国が世界支配を達成するまでは、永久に繰返されるものと思い込まれていた。この前提的な確信からすれば、そして、日本の敗退を認めたがらない心情があった以上は、恒久世界平和を確立し、全世界の安寧と秩序を確保するためには日本が戦争に勝ち抜き、最終戦に勝ち残ることが絶対の要件として意識される。ごく一部のマルクス主義的左翼等を除いて、“知識人”と“大衆”たることを問わず、それが“日本国民”の共通の了解事項であったと言えよう。
謂うところの“世界最終戦争”は第二次大戦の開始後は日本とドイツとの決戦として予料されるに至ったとはいえ昭和の初期には日米決戦(太平洋戦争)になるものと予期されていた。(前出『廣松渉著作集 第十四巻』、119―120頁)
1920年代には、日米決戦を想定した大衆向けの小説が多くの読者に受け入れられていた。戦争は、いわば2006年の第1回大会で日本が優勝したWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)のトーナメント戦のようなものと誰もが考えていたのである。東方世界の代表選手が日本であることには誰も疑いの余地をもたなかった。西方社会の代表選手は、当初、アメリカかイギリスと考えられていたが、ナチス・ドイツが第二次世界大戦に踏み切った後はドイツと考えられるようになった。日本がドイツと同盟を結んだのも、来るべき日独決戦に向けての過渡的措置であるという捻れた認識があった。このような認識に立っていたから、日本はドイツと本格的な軍事協力を考えなかったのである。
戦争の不可避性については、共産主義者も同じ認識をもっていた。レーニンは「戦争を内乱に転化せよ」と主張したが、戦争による国民の不満を梃子にして社会主義革命を引き起こすことを共産主義者は考えた。そして、世界社会主義革命が成功した暁には、二度と戦争は起きない。この論理構成は、世界最終戦争後に平和な時代がやってくるという石原莞爾と大きく変わらないのである。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは、20世紀は暦と一致しておらず、1914年の第一次世界大戦とともに始まり、1991年のソ連崩壊で終結した「短い20世紀」であると指摘したが、これは鋭い洞察と思う。ホブズボームは第一次世界大戦と第二次世界大戦を一つの戦争、すなわち「20世紀の31年戦争」と考え、戦間期の平和な時代は休戦期間に過ぎなかったという。実は大川もこのような認識をもっている。
平和戦線というのは、武力的に極めて強力なる一個の結合を作り、この強大なる武力結成の前に、侵略国家をしてその野心の実現を断念させようとする仕組みであります。このようにして、イギリスはまず自国軍備の強化に全力を注ぎ、イギリスを中心としてドイツよりも遥かに強力な武力群を結成してドイツに臨み、可能ならば戦わずしてこれを屈し、やむなくば今度こそ一戦を交える覚悟で進んで来たのであります。
一昨年のこと、北洋漁業がイギリスとの間に、鮭缶詰三千万ケースの売買契約が出来たというので、農林省ではこれも貿易振興政策の結果だと吹聴していたことを記憶しておりますが、これは取りも直さず英独戦争を覚悟しての食糧貯蔵に外ならなかったのであります。
(英国東亜侵略史 第一日「偉大にして好戦なる国民」)
仮想敵国を同盟国によって包囲し、戦争ができないような状態に追い込むことが平和外交(平和戦線)の極意と大川は考える。そして日本政府が、鮭缶が大量にイギリスに売れてよかったと脳天気に喜んでいる姿を横目に、イギリスが食糧備蓄を始めたということは本格的な対独戦争準備に入ったことと分析するのである。
(以下省略)
* * *
その後、佐藤優氏による興味ある議論が展開されますが、割愛させていただきました。
関心のある方は、ぜひ本書をご覧ください。
構成・獅子風蓮