というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。
本書は、悩める「宗教2世」に対して書かれた本なので、私のようにすでに脱会した者には、必要ない部分が多いです。
そのような部分を省いて、正木伸城氏の内面に迫る部分を選んで、引用してみました。
(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん
謝辞
宗教2世の相談窓口
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
□親子関係編
□恋愛、友人関係編
□進学、就職、転職編
□信仰活動編
■信仰活動離脱後編
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
信仰活動離脱後編
(つづきです)
Q:過去の自分を思いだしては、自分がゆるせなくなります。
A:ぼくは、利他を実践することで過去を恨む気もちを整理しました。
宗教2世のなかには、取り返しのつかない過去を背負わされたと感じている人もいると思います。それは、おそらく事実でもあるのでしょう。
そのような苦悩を抱えている人に、「取り返しのつかない過去なんてない」といっても、気休めにもなりません。
苦境に陥ったとき、みなさんは自分の過去を呪ったりしませんか?
ぼくは、職場で大失敗に直面したときに、過去を呪いました。
創価学会本部に就職せず、はじめからふつうに仕事をしていたら、こんな苦労を負うことはなかったのではないか。なぜ本部職員になってしまったのか。なぜまわりの説得を振りきって、NASDAに行かなかったのか――。
この思考は、そこから、ときをさかのぼって、
「なぜ創価大学に進学してしまったのか」
「なぜ創価学園を受験してしまったのか」
「なぜ創価学会の家に生まれてしまったのか」
というところにまで至ります。
過去は、後悔ばかり。
恨みたい衝動があるのなら、無理にそれにあらがう必要はありません。そのうえで、ぼくは、恨みを手放しました。
この「恨みからの解放」の具体的な方法については、第1章でふれています。「復讐目標の再設定」という話です(44ページ参照)。
この方法は、たしかに過去の自分と和解するのに有効でしょう。
ですが、ぼくはそれだけでは足りず、苦境のたびに過去を呪うということがつづきました。そこでまず、恨みという感情そのものを見つめることにしました。
恨みは、人の心を、体を、こわばらせます。固くします。その固さは、ときに精神をもろくします。ゴム製の板であれば割れないものが、固い板になるとたたけば割れてしまうように、です。ぼくの場合はそうでした。
心は「固い」より「しなやか」なほうが強い。
ぼくには、そんなしなやかな精神が必要でした。
「利他」の行いでしなやかな心を育て、呪いを解く
そんなしなやかさを自分にもたらしてくれる営みがあります。
なんだと思いますか?
「人のために行動すること」です。大げさにいえば「利他の行い」ということになるでしょうか。他人を利する、他者を幸福にする実践です。
利他といっても、大それたことをする必要はありません。
たとえば、日常生活ではあまりいうことがないような「あなたを大事に思っている」という言葉を、大事な人に投げかけるだけでもいい。愛していると伝えることでもいい。手紙をしたためて、相手を笑顔にするのでもいい。
それにくわえて、社会で「弱くさせられている人」が塞ぎこんでいたら、ともに手を取り合って、ともに顔をあげるような行動を起こすようにしました。
「弱くさせられている人」とは、いわゆる社会的弱者のことですが、ぼくはそういう人たちを「弱い人」とはよばず、「弱くさせられている人」と表現しています。社会構造が、彼・彼女らを弱者に追いこんでいる部分があるからです。
ここでイマジネーションを喚起するために、精神科医・神谷美恵子の『生きがいについて』(みすず書房)から言葉を引用してみましょう。
あなたのそばにも、こういう人がいるはずです。
「平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。」
耳を澄ましてください。
目をこらしてください。
あなたの助けを必要としている人は、じつは身近にいます。
ぼくは、微力ながらそういった取り組みに心血をそそいできました。
たとえば精神疾患を抱えている人、体に障害のある人、極貧の家庭、老々介護で立ち行かなくなっている家庭、ドラッグ中毒者など。そんな、弱くさせられている人とともに行動し、一緒に立ち上がろうとしてきました。
当然、見返りはもとめません。これは第2章で論じた「ギブ・アンド・テイク」の「ギブ」にあたる行為といえるでしょうか。
利他に専念していくと、心がやわらかくなり、教団への恨みが薄れます。
少なくとも、ぼくの場合は、そうでした。
「わたしの人生、なんだったんだ」と思ったら
こういった取り組みは、人と人の間に「つながり」を生み出します。
そこでつながった人には、不思議と弱音も吐けます。
以前、創価学会本部から転職をしようと考え、試行錯誤していたときに、ぼくが「メンタル相談室」を開いていた、という話を紹介しました。
あるとき、そこに来てくれていた相談者に、ぼくのほうが弱音を吐き、気がつけば、相談に乗る側だったはずなのに、相手に相談に乗ってもらっていた、ということもありました。
じつは、あれがまさに、ぼくにとって「弱音を吐ける場」だったのです。
弱くさせられている人と行動をともにしていると、弱さをさらけだせる関係が生まれます。その信頼関係があると、安心が湧き、心がおだやかになる。呪いや恨みを忘れられるのです。
支える人/支えられる人、救う人/救われる人、迷惑をかける人/迷惑をかけられる人、といった二項対立を超えて、「お互いさまだよね」の精神でつながれる関係は、強い。
もしもあなたが苦衷を抱きしめて涙をからしてきた宗教2世であるなら、あなたは弱くさせられている人たちと視線を合わせ、寄り添えるだけの心の奥行きをたずさえているはずです。
宗教2世として、あなた自身が「(自分は)弱くさせられてきた」と感じているのなら、その経験を、ほかの弱くさせられている人に目をむけることに活かしてみるのもいいかもしれません。
他者を利するという利他の思想は、ある意味でどの宗教であっても共有できる普遍的な考えだとぼくは思っています。
仮にそれが建前であったり、美辞麗句として教団内で言葉が躍っているだけであったとしても、利他に反対する宗教団体は、そうそうないでしょう。
ぼくは創価学会のなかで、利他の精神を追求しました。
そしていま、べつのかたちで利他を追求しています。
それを自覚したときに、ぼくは気づきました。
「あ、俺は『利他』という一点で過去の自分とつながっている。連続している」
そう考えたときに、ぼくは、かならずしも過去を否定する必要はないのではないかと思いました。
過去の利他にまったく価値がなかったかといえば、そうではない。
至らないところは多々あったけれど、ぼくはぼくなりに利他を実践してきた。
過去のその経験といまの実践は、通底している。
それなら、過去の経験はむしろいまに活かすべきだ、と。
過去を恨みつづけてきたところから、「いまに通じる価値」をその過去に見いだせた瞬間、ぼくは過去の自分をゆるすことができるようになりました。
それまで、心のどこかで、やっぱり「ぼくの人生、なんだったんだ」と思っていました。その気持ちと、ようやく折り合いをつけることができたのです。
(中略)
まとめ
教団や親などから教わってきたことが、信仰活動から離脱したあとでも、あなたに影響を与えつづける――。
その影響から抜けだすことは、ときに容易ではありません。
ぼく自身、少なからぬ宗教2世が抱く気持ちとおなじように、「俺の人生、なんだったんだろう」と、自分の過去を呪ったこともあります。
この呪いの感情から解き放たれるには、時間が必要です。
また、信仰実践を手放した「いまの自分」をあと押しする知的な理屈をつくり、否定したいと思っている「みずからの過去」にあえて意味を見いだしていくということが、それに役立つケースもあります。ぼくの場合は、そうでした。
カギの一つは、信仰をしているときも、信仰から離れたあとも、知的に考えることをやめないということです。ぜひ実践してみてください。
【解説】
ぼくは創価学会のなかで、利他の精神を追求しました。
そしていま、べつのかたちで利他を追求しています。
それを自覚したときに、ぼくは気づきました。
「あ、俺は『利他』という一点で過去の自分とつながっている。連続している」
そう考えたときに、ぼくは、かならずしも過去を否定する必要はないのではないかと思いました。
ここを読むと、正木伸城さんはあえて信仰を棄てる必要はなかったように思いますね。
創価学会組織から離れても、私のように日蓮仏法の信仰を保つことはできるわけですし。
別に、日蓮正宗にいかなくても、創価学会の非活のままでも信仰を保つことはできたのでは。
獅子風蓮