石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。
まずは、定番というべきこの本から。
増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)
目次)
□はじめに
■第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに
第1章 幼年・少年・青年期
□1)おいたち... 日蓮宗を空気として
□2)山梨県立第一中学校...アメリカン・デモクラシーへの誘い
■3)早稲田大学...プラグマティズムの感動
□4)東京毎日新聞社... 人生の転回点
□5)東洋経済新報社...再スタート
早稲田大学...プラグマティズムの感動
日露戦争が勃発して7ヵ月を経た1904年(明治37)9月、湛山は予科を修了して大学部文学科(今日の文学部)哲学科へ進級した。当時の校長(のち総長)は鳩山和夫(弁護士を務めたのち衆議院議長となった人物で鳩山一郎元首相の父)であった。文学科では高田早苗(学監のち学長)、煙山専太郎、安部磯雄、内ヶ崎作三郎、坪内逍遥、金子馬治、島村滝太郎(抱月)、波多野精一、姉崎正治、巌谷季雄(小波)、田中喜一(王堂)などの講師陣(当時早稲田では教員をすべて講師と称し、教授・助教授の名称はまだなかった)から教えを受けた。とりわけ田中王堂(1867―1932)は、湛山の哲学思想上の恩師となった。王堂はシカゴ大学でデューイ(John Dewey)教授に師事してプラグマティズム(実利主義ないし作用主義ともいう)を学び、帰国後、このプラグマティズム哲学を日本に初めて紹介すると同時に、自然主義文学が勃興した明治末および大正の時代思潮に対して厳しい批評を加え、個人主義・自由主義に立脚した雄渾な評論を発表した人物である。
湛山は2年次に王堂の倫理学史、3年次には倫理学とゼミナールを受講したが、当初は他の学生同様、王堂の講義を難解とした。それは王堂の表現が難しかったという理由ばかりでなく、湛山らが従来「無批判に受入れた形而上学的哲学と鋭く異なっていたから」であった。周知のとおり、プラグマティズムはイギリスの経験論哲学を母体とし、19世紀末アメリカの社会的土壌の中で発達した現代哲学の一流派である。したがって、日本国内で当時隆盛を極めていたドイツ観念論哲学と比較するならば、人間の機能を果たすよう努めたことに画期的意義があった。つまり、思想や知識を生活や実践と切り離して、それだけで考察したり、思想や知識を実践や技術よりも尊重する在り方を退けるのである。学生たちは1年ほどするとそのことに気付き、王堂を高く評価するに至った。とりわけ湛山は、「もし今日の私の物の考え方に、なにがしかの特徴があるとすれば、主としてそれは王堂哲学の賜物である」と公言するほど、王堂から絶大な影響を受けた(前掲『湛山回想』75頁)。
前記のとおり、中学時代の湛山は、人間の「生」を最高価値として体系化された仏教倫理・哲学と、アメリカ的デモクラシー思想やキリスト教倫理、つまり他人とか権威によって強制されない自主自律の精神や人間の平等・博愛の精神とを融合したわけであるが、早稲田大学時代にはさらにそれが王堂の倫理学・プラグマティズム哲学に接合した。そして「初めて人生を見る目を開かれた」湛山は、一切の行為の規準を自主に求める個人主義、この個人主義を社会発展を阻害しない限り是認しようとする自由主義、そして各個人のさまざまな欲望を社会発展の推進力と機能的にとらえて積極的に肯定しようとする実利主義を自己のイデオロギーとして確立したのである。彼がカントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論哲学に関心を示さず、新興のアメリカ哲学に傾倒して自由主義と実践主義を精練したことは、その後のリベラルな言論人湛山の誕生を決定づけた。
なお湛山の学生生活の一断面として、次のような記録が残されている。1907年(同40)に湛山は波多野精一研究会で「ストア学派の人生観とエピクロス学派の人生観との比較研究」と題して報告し、「石橋君は従容壇上に上り、咳一咳して新学派の興起せる当時の社会状態より説き起し、該学派の主張が必然的に生ずべき理由を述べ、以下システマチックに項目を分類して、 其の哲学、心理学、倫理論等を詳説し、終りにストア派はコスモポリタニズムにして、エピクロス派はインディヴィジュアリズムなれども、両者共にフェータリズム(宿命論)において一致すと断ぜり。次いで質問に移り、終って波多野講師の詳細なる批判ありき」とある(前掲『湛山回想』60~1頁)。当時の湛山の学問的関心が奈辺にあったかを知り得て興味深い。また大学時代の湛山を知る友人杉森孝次郎(のち早稲田大学教授)は、「表裏、内外なき元気な人、人を凌ぐ意気の人だった。……湛山は非常に特質的だ。おのおのの能力に於いて非常に凡庸、……そのおのおのの能力の全体の支配力に於いて殊に非凡だ。故に彼れは凡庸の王だ」と述懐している(杉森孝次郎「石橋湛山と人物評論の原則」)。湛山の人柄を巧みに表現している。
同年7月、22歳の湛山は文学科を首席で卒業。かつて中学の落第生が大学では晴れて最優等生となった。これを「運命のいたずら」と自嘲気味に記しているが、遅咲きの湛山にようやく春が訪れたのである。彼は特待生に選ばれ、今日の大学院に該当する宗教研究科へ進み、月額20円を支給された。この制度は将来の大学教師を養成するためのものであり、湛山とて、前述のとおり、教育者を目指す点で趣旨が一致していた。ところが湛山にはそのような道が開かれなかった。詳細は不明であるが、一説では大学の実力者で早稲田三尊のひとりに数えられた坪内逍遥から湛山は評価されなかったからであるといわれる。湛山も、「私は坪内先生のところには、全く出入しなかった。……あの芝居がかった講義ぶり(それが有名だったのだが)が、なまいきの しだいだが、私には興味がなかった」と述べている(前掲『湛山回想』68頁)。あるいは坪内からすれば、湛山が奇異な哲学に傾倒する偏屈な学生と映ったかもしれない。
かくして1908年(同41)7月、湛山は早稲田大学を去った。
【解説】
中学時代の湛山は、人間の「生」を最高価値として体系化された仏教倫理・哲学と、アメリカ的デモクラシー思想やキリスト教倫理、つまり他人とか権威によって強制されない自主自律の精神や人間の平等・博愛の精神とを融合したわけであるが、早稲田大学時代にはさらにそれが王堂の倫理学・プラグマティズム哲学に接合した。そして「初めて人生を見る目を開かれた」湛山は、一切の行為の規準を自主に求める個人主義、この個人主義を社会発展を阻害しない限り是認しようとする自由主義、そして各個人のさまざまな欲望を社会発展の推進力と機能的にとらえて積極的に肯定しようとする実利主義を自己のイデオロギーとして確立したのである。彼がカントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論哲学に関心を示さず、新興のアメリカ哲学に傾倒して自由主義と実践主義を精練したことは、その後のリベラルな言論人湛山の誕生を決定づけた。
石橋湛山の場合、クラーク博士の流れをくむデモクラシー思想・キリスト教倫理や王堂の倫理学・プラグマティズム哲学と出会ったことで、国家主義的な日蓮主義に陥ることを避けられたのですね。
日蓮の教えに原理的に従おうとするとどうしても、宗教的には独善的に、政治思想的には国家主義に向かう傾向があるようです。
牧口・戸田時代の創価学会も、宗教的には原理的で、政治的には「国家諌暁によって国難を克服する」という意味で、国家主義的でした。
創価学会および日蓮正宗が現在の停滞を克服するために、たんに日蓮仏法を原理主義的に守るのではなく、日蓮を思想的に再構築する必要があると思います。
そのために、石橋湛山の思想をきっちり学んでいきたいと思います。
獅子風蓮