石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき
終 章
(つづきです)
昭和42年10月、吉田茂死去。
湛山は手足のマヒだの肺炎だので、聖路加病院への入退院を繰り返す。
湛山の看病に疲れた梅子が同じ聖路加病院に入院し、46年(1971)8月9日死去した。
その6日後、アメリカにドルショックが起こり、大統領ニクソンは金とドルとの交換を停止した。
45年(1970)東洋経済新報社から出版されていた『石橋湛山全集』全15巻が完結したのが47年(1972)9月。
この年の自民党党大会は、「三角大福」と呼ばれた三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の4人が、「ポスト佐藤栄作」を巡ってしのぎを削った。そして決選投票で福田を破った田中が総裁に就任した。
湛山は、病床で「決選投票」に思いを馳せた。
その田中角栄が訪中して、日中共同声明に調印したのが47年9月29日のことであった。これをもって日中国交が樹立された。すでにアメリカはキッシンジャー外交で中国との関係を改善。岸、佐藤内閣の対中国をめぐる情報不足が指摘されていた。
田中は中国に出発する前日の25日、下落合の自宅で病床にあった湛山を訪ねた。
「石橋先生、中国に行って参ります。先生の努力がやっと実現する時が参りました」
田中は紅潮した顔で言って、湛山の手を握った。
「先生のこの手の代わりに、自分のこの手で、国交樹立の署名をします。しかし、これは私の仕事ではなくて、本来は先生がなすべき仕事なんです」
「田中君、今日は僕の米寿の誕生日なんだよ。嬉しいねえ。最高の誕生日プレゼントじゃあないか。よろしくお願いしますよ」
湛山は、日中国交正常化の実現を告げるテレビニュースを見ながら、満面に笑みを浮かべ、何度も頷いた。
「石田君、やっと播いた種が実を結んだよ」
湛山は、見舞いに訪れた石田博英に向かって、嬉しそうに微笑んだ。
昭和48年(1973)4月25日、湛山は下落合の自宅で大往生を遂げた。
88年の生涯であった。
「和彦、やっと、やっと会えるなあ」
湛山は、薄れていく意識の下で、長い間自分とともにいながら見ることのなかった次男に、そう呼びかけた。
和彦が26歳のままの笑顔で湛山に笑いかけていた。
【解説】
田中は中国に出発する前日の25日、下落合の自宅で病床にあった湛山を訪ねた。
「石橋先生、中国に行って参ります。先生の努力がやっと実現する時が参りました」
田中は紅潮した顔で言って、湛山の手を握った。
「先生のこの手の代わりに、自分のこの手で、国交樹立の署名をします。しかし、これは私の仕事ではなくて、本来は先生がなすべき仕事なんです」
「田中君、今日は僕の米寿の誕生日なんだよ。嬉しいねえ。最高の誕生日プレゼントじゃあないか。よろしくお願いしますよ」
湛山は、日中国交正常化の実現を告げるテレビニュースを見ながら、満面に笑みを浮かべ、何度も頷いた。
湛山は、田中角栄による国交樹立を見届けて、しばらくして大往生を遂げました。
悔いのない一生だったと思います。
獅子風蓮