獅子風蓮のつぶやきブログ

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増田弘『石橋湛山』を読む。(その5)

2024-03-11 01:57:22 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
■第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第1章 幼年・少年・青年期
□1)おいたち... 日蓮宗を空気として
□2)山梨県立第一中学校...アメリカン・デモクラシーへの誘い
□3)早稲田大学...プラグマティズムの感動
■4)東京毎日新聞社... 人生の転回点
□5)東洋経済新報社...再スタート


4)東京毎日新聞社... 人生の転回点

以後湛山は職を求める必要に迫られた。そうした折、大隈重信を総裁とする大日本文明協会から翻訳の仕事が舞い込んだ。浮田和民からの指示であったが、その後変更となり、湛山の発案で『世界の宗教』という編纂書を刊行することになった。これは仏教、キリスト教を含む世界のあらゆる宗教を一冊の本にまとめて紹介するという壮大な計画であり、杉森が指摘する湛山の「人を凌ぐ意気」軒昂ぶりを現わしている。ただし実際には湛山は序論の「宗教の本質」の部分を執筆したにすぎず、しかもそれすら小山東助との共同執筆であった。実はこの年の12月、島村抱月の紹介で湛山は東京毎日新聞社への入社が決定し、もはや著述どころではなくなったのである(同書は1910年に刊行された)。
『東京毎日新聞』は1870年(明治3)に『横浜毎日新聞』として創刊され、1906年(同39)からこの名称となった(現『毎日新聞』とは異なる)。従来政界の重鎮島田三郎が同社のオーナーであったが、この頃、大隈に経営が委ねられ、大隈はこの新聞を東京における『ロンド・タイムズ』に匹敵する水準の高い新聞にしようとの意図から、田中穂積早稲田大学教授(のち総長)を副社長兼主筆に抜擢し、事実上の主宰者とした(市川孝正「人と思想・田中穂積」)。抱月はこの田中とかねてから深交があり、いわば就職浪人中の湛山を推薦してくれたわけである。湛山自身、大学を卒業するまで文筆界で働くことなど夢想だにしなかった。しかし抱月の手引きによって、湛山は言論界の入口に立ったのである。それは彼の人生の重大な転回点であった。もし抱月の推しがなければ、ジャーナリスト湛山は日本に生まれなかったかもしれない。
「私は自分の過去を回想すればするほど、偶然が人生を支配する力の大なることを考えざるを得ない」とは湛山の実感であったろう。いうまでもなく湛山が抱月を感謝すべき大恩人のひとりとして仰ぎ、以降も両者の交流は続いた。湛山は抱月が主宰した『早稲田文学』に投稿したり、抱月が女優松井須磨子とともに坪内逍遥の文芸協会に反旗を翻し、芸術座を組織した際も相談に参与した。なお1918年(大正7)に抱月が病没し、次いで須磨子が後追い自殺して世間の注目を集めた折、湛山は妻梅子に、「もし須磨子が現われるなら、私といえどもいつ島村氏にならぬとは限らぬと「戒めた」と述べている(前掲『湛山回想』95頁)。

さて入社後、湛山は社会部に配属された。そして、初めて命じられた仕事とは、大隈重信に正月のお飾りについてインタビューすることであった。大隈といえば名立たる大政治家であり、また早稲田大学の創立者でもある。それゆえ早稲田出身者であれば、通常、面会自体に恐縮すると同時に身に余る光栄と感ずるところであろう。ところが湛山は一向にそのような風なく、一応仕事を熟(こな)しながらも、天下の政治家にこの種の低次元の質問をさせる社の方針に不快感を覚えた。これまで社会の喧騒に揉まれていない湛山は、あくまで純粋に正面から高次元の社会問題へとアプローチできることを望んだのである。

まもなく湛山は文部省係に配置替えとなった。ここでは1909年(明治42)前半に起こった高商(東京高等商業学校、一橋大学の前身)騒動を扱った。高商はかねてより商大への昇格を期待していたが、文部省の方針で実現不可能となり、しかも同校長も文部省に同調したため、教授が辞職し学生は総退学を決議するといった最悪の事態となった。湛山は他社の若い記者と相談した結果、当時財界の長老で東京商業会議所会頭の中野武営に調停の労を取らせることとし、中野を説得、ようやく彼の尽力で騒動も収拾された。この間一新聞記者という立場を離れ、事件解決に向けて奔走する湛山の姿は、後述する早稲田大学騒動で一方の主役を演ずる彼自身を連想させる。
しかしこの新聞は長くは続かなかった。同年春以来、大隈が率いる進歩党(のちの民政党)内部において犬養毅と他の幹部との間で紛争が生じ、ついに分裂したため、大隈の影響下にあった社内も二派に割れ、互いに自派に有利な新聞記事を書くなど啀(いが)み合った。加えて売行き不振も手伝い、経営困難に陥った。同年夏、田中が退社声明を出すと、幹部社員もこれに殉じた。末輩の湛山は引き止められたが、やはり8月に退社した。田中を介した入社であり、しかも徴兵検査で甲種合格し入営が迫っていたからである。こうして新聞記者生活はわずか7、8ヶ月で終わった。しかしこの間に編集方針や組版作業といったジャーナリズムの基本を習得したことは、のちの東洋経済新報社入社に結びつく重要な経験となった。

退社から4ヵ月を経た12月、湛山は友人の関与三郎と大杉潤作二人に付き添われて、麻布の歩兵第三連隊に入営した。入営者は、普通、身内や町内の人々の賑やかな行列に送られてくるのが慣例であったが、湛山の場合はきわめて簡素であった。もちろん湛山は軍隊内で新兵が非人間的な虐待を受けるであろうことを覚悟していた。ところが逆に湛山は入隊早々から非常に好遇された。班長の軍曹から丁寧に挨拶され、新兵係の少尉からは中隊将校室に呼ばれて餅菓子をご馳走になるといった具合であった。数ヵ月後、真相が判明した。湛山は連隊上層部から社会主義者と疑われ、監視のための特別な好遇措置であったのである。大逆事件、つまり幸徳秋水ら社会主義者や無政府主義者が明治天皇暗殺計画の疑いで逮捕される事件が発生したのは1910年(同43)5月であり、まさに湛山が社会主義者に擬せられていた頃である。まもなく湛山への疑惑が氷解したことはいうまでもない。

それでも湛山は新兵として苦労を重ねた。入営時に15貫(約60キロ)近くあった体重はたちまち12貫(約48キロ)台に減り、在営中ついに回復しなかった。また湛山は軍隊に在籍した1年間に戦争への嫌悪の情を深くした。実弾演習にも恐怖感を覚えた。その後に至り、湛山は反戦論を高く掲げることになるが、それは彼本来の思想ならびに理論ばかりでなく、この軍隊生活でのさまざまな体験に依拠していた。
同年11月、湛山は軍曹に昇進し除隊となった。そして翌年9月には見習士官として3ヶ月召集を受け、終末試験を好成績でパスし、のち少尉の任官辞令を得ることとなる。

 


解説
湛山は軍隊に在籍した1年間に戦争への嫌悪の情を深くした。実弾演習にも恐怖感を覚えた。その後に至り、湛山は反戦論を高く掲げることになるが、それは彼本来の思想ならびに理論ばかりでなく、この軍隊生活でのさまざまな体験に依拠していた。

湛山の平和主義は、頭で作り出したものではなく、自身の体験に基づいたものでもあったのですね。


獅子風蓮



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