というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
■六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
六杯目の火酒
2
「あっ、こんなとこに、虫が……」
__どこ? ああ、なんだ、ただのゴキブリの子供じゃない。テーブルを散歩してるだけだけど、 気持悪いなら……手で払っちゃえば。
「いやだよ、恐いよ」
__恐い?
「虫って、恐いよ」
__ゴキブリみたいのは嫌いなの?
「どんな虫でも恐い」
__ハチとか、蛾とか?
「ううん。ハエでも蚊でも恐い」
__ほんと?
「蚊がいたら、叩いて殺すなんてできないから、逃げる」
__逃げる? あなたが?
「うん、あたしが蚊から逃げる」
__ハハハッ。それ、冗談?
「ほんとだよ。トンボでも蝉でも、蝶々だって恐い」
__蝶々が、恐いって?
「うん、持てと言われても、気持悪くて持てないし、だいいち、恐いよ」
__へえ……ほんとに。
「鳥も恐い。鳩なんか、恐くて傍に寄れないよ。このあいだも、テレビの撮影で、鳩に餌をあげているとこをやらされたんだけど、ほんとに恐かった」
__鳥も恐いのか……。小鳥も?
「どんな小さくても、鳥は恐いよ」
__ふーん、奇妙な感じがするね。動物は、みんな恐いのかな。犬も?
「うん。馬も恐くて傍に寄れない」
__どうしてだろう。ほんとに不思議だね。いや、案外、不思議でもなんでもないのかもしれないね。あなたには……どこか……いつも何かに怯えているようなところがあるもんな。何か持って生まれた怯えがあるんだな、あなたの中には。そんな気がする。
「……」
__人に対してだって、微妙に怯えている部分があるもんね、あなたには。
「うん、そうかもしれない」
__デビューした頃のあなたは、さっきから何度もあなたが言っているように、無心で、しかもオドオドしていたんだろうな。それは本当はそんなに一致するはずのもんじゃないけど、それを共存させるものが、あなたの内部にはあったわけだ。
「そうなんだろうね。でも、ここ何年と無心じゃなくなって、いろいろ考えるようになっちゃった」
__いつから?
「やっぱり、手術してから。すべて、そこに行っちゃうんだよね」
__無心じゃなくなって、オドオドもしなくなった?
「いや、それはオドオドしてますよ。いまだって いつだって」
__テレビであなたを見ていると、眼が落ちついていないように見えるんだ。あなたの眼って、いつもキョロキョロと小さく動いているんだよね、小さな動物が怯えているように。
「そう、自分でもどうして動いちゃうのかわからないけど、眼が細かく動くんだよ。いま、やってみてよと言われてもできないけど、無意識になっていると動いちゃうんだ」
__ほんとに、テレビであなたの眼を見ると、外界のすべてのものに怯えてるんじゃないか、なんて考えたくなっちゃうな。
「それほどでもないけど……」
__あなたは、もしかしたら、お母さん以外に、馴れた人間がいないんじゃないんだろうか。あなたという小動物が馴れた人間は、ひとりもいないんじゃないのかなあ。ひとりの人間にも、一匹の動物にも馴れなかった……。
「どうだろう」
__あなたの干支は……。
「うさぎ」
__まったく、そんな感じだよ。あなたという、うさぎが馴れたのは、お母さんだけじゃないのかな……。
「ひとつ、いる」
__ひとつ?
「一度だけ、猫を飼ったことがあるの。リリという名前をつけて、あたしが飼ってたんだ」
__それは、いつ頃?
「神居にいた頃だから、小学校の5、6年生のときだと思う。捨て猫だったのかな、眼が開かない赤ちゃんからあたしが育てたんだ」
__そうか。あなたの馴れた、唯一の例外は、赤ん坊の猫か……。
「とても可愛かったんだ。三毛猫でね、夜になって寝ていると、枕元でゴロゴロいってるの。眼を覚まして、布団を少しつまんで開けてやると、入ってきて一緒に寝るの。でも、布団を上げてやらないと絶対にもぐりこんできたりしないんだ」
__あなたは、猫と寝てたんだ。
「あたしにしか、なつかなかったの」
__どうして?
「家の人がね、面白がって、逆さに吊るしたり、ぶん投げたりして、いじめたわけ。それがあんまり過ぎたもんだから、怯えちゃって、あたしの手からしか餌を食べなくなったんだ」
__怯えちゃったのか。
「みんながあんまりいじめるもんだから、昼間は縁の下に入って出てこなくなっちゃったの。あたしが学校から帰ってきて、ランドセルを置いて、縁の下に向かって名前を呼ぶと、おそるおそる出てきて、あたしの顔を見ると、ミャアミャア鳴いて、足にすりよってくるんだ」
__可愛かった?
「うん。でも……可哀そうだった」
__そんなに怯えてたんじゃ、ほんとに可哀そうだったね。
「少し大きくなりかけたとこで、死んじゃったんだ」
__なぜ?
「ある日、帰ってきたら、縁の下にいないんだ。近くを一生懸命さがしたけど、とうとう見つからなくて……しばらくして、隣の家の縁の下で死んでいるのが見つかったの。どこかで、悪いものでも食べたらしいんだ」
__あなたも……その猫みたいに、怯えていたわけだ。あなたは……いったい、何に怯えていたんだろうか?
「……」
__何に、ということではないのかな。
「……」
__別に、怯えていたわけじゃないのか……。
「……」
__子供の頃、恐いものは何だった? あなたにとって、恐怖の的みたいなものだったのは。
「……」
__恐ろしいものは、何もなかった?
「それはあったよ」
__何?
「うん……」
__言葉で表現しにくいもの?
「そうじゃないんだ。 ただ……」
__ただ?
「うん……」
__あっ、そうか。しゃべりにくいことなんだね。人にはあまりしゃべりたくないことなのか。そうか……。オーケー、それでは、話題を変えよう。
「いや、いいんだよ。変えなくたっていいよ。いいんだ。恐いもの、確かにあったよ、小さい頃。いまだって、恐いけど、別々に住んでいるから忘れることができるというだけのこと。恐かったんだ、とても恐かった。あたしは、お父さんが、ほんとに恐かった……」
__お父さんが? 実の父親でしょ?
「うん」
__実の父親なら……恐いといったって、タカが知れてるんじゃない?
「そんなんじゃないんだよ。そんなどころの恐さじゃないんだよ。カッとすると、何をするかわからない人なんだ。怯えてた。子供たちはみんな怯えてた。お母さんも、みんな怯えてた。しょっちゅう、しょっちゅう、殴られっぱなしだった……」
__どうして、そんな……妻や子に……」
「理由はないんだよ。殴ったり蹴とばしたりするのは、向こうの気分しだいなんだ。気分が悪いと、有無を言わさず殴るわけ。こっちは小さいじゃない、何もできないで殴られているの」
__理由なく殴られる、なんていうことがあるのかい、ほんとうに。
「ほんとに理由がないんだよ。だって、たとえば、旭町の家は二階だったでしょ、お使いに行ってこいと言われて、階段を降りていくわけ。でも、その階段、暗くて狭いから、踏みはずして、二、三段すべり落ちたり、転がり落ちたりすることがあるんだよね。そうすると、二階からとんでくるわけ、お父さんが。とんできて、殴るの」
__殴る? 心配してとんでくるわけじゃないの?
「痛くて動けないでいるところを、殴るんだよ。なんで落ちるんだ、って。こっちだって悪気があって落ちるわけじゃないんだし……でも、そんなことおかまいなしなんだ。 部屋からわざわざ出てきて、ぶん殴るの、あたしたちを」
__ほんと……。
「理由がわからないの。なんで殴られているのか。でも、とにかく、頭を両手で抱えて、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、って謝まるんだ。それでも許してくれないわけ。お姉ちゃんなんか、あまりいつも殴られて、殴られ癖がついちゃって、鼻血が止まらなくて、洗面器に一杯たまったことがある」
__そいつは凄まじい……。
「殴るだけじゃなくて……よく水をぶっかけるんだ。冬でもなんでも、子供たちに、水をぶっかけるの。バケツかなんかの水を、バッとかけるんだ」
__旭川の、冬に?
「うん。逆らうと、どんどん荒れるから、泣きべそかきながら、部屋の畳の水を拭いたりして、しずまるのをただ待つんだ」
__……。
「物は投げるしね。金魚鉢だって、引っ繰り返しちゃうんだから。いまでも、畳の上で金魚がアップアップしてたの、覚えてるなあ」
__金魚が畳の上にいた、か。
「靴でも下駄でも投げちゃう。それを、あとで、あたしたちが拾い集めるわけ」
__一階には大家さんが住んでいたというけど、大家さんも大変だったろうね。
「大家さんは、ほんとに親切なおばさんで、あたしたちが苛められるでしょ、そうすると、可哀そうだ可哀そうだって、泣いててくれたんだって。殴られたりするたびに、泣いててくれたんだって。あとで、お母さんに聞いたんだけど、ね」
__お母さんは、どうしてるの?
「子供たちをかばうでしょ。そうすると、今度は、お母さんを苛めるんだ。眼が見えないお母さんを蹴とばしたりするの」
__どうして、どうしてそんなことをするの、お父さんは。
「理屈なんかないんだ」
__理解できないわけか、あなたには。
「あの人を理解するなんて、そんなことできないよ。できたら、こっちがおかしくなるよ」
__なぜそんなふうな人になっちゃったの?
「さあ……」
__自分の境遇に不満があって、生活に苛立っていたのかなあ……。
「病気だったんじゃない」
__病気?
「そういう病気だったんだよ、きっと」
__そうか……そうとでも思わなければ、子供にとっては理解できないことだったのかもしれないね。
「あたしは病気だと思ってた。兵隊に行って、いつも殴られてたって聞いていたから、だから……殴られすぎて病気になったと思ってた」
__血を分けた親子なのにね……。
「親子だったから、恐怖なんだよね。他人だったら、別れられるじゃない。でも血がつながっているから、怯えながらでも、一緒にいなくちゃならないじゃない」
__そうだね。
「ああ、いやだ。もう、いやだ、と思ってね。逃げたいなあ、なんでお母さんは逃げ出さないんだろうって、いつも思ってたよ。こんなに恐くてさ、いつまた恐い目にあうかわからないのに、どうしてだろう……」
__お母さんが逃げようと言ったら、一緒に逃げようと思ってた?
「すぐ逃げたね。もう、すぐ。お母さんが我慢してたから、だからいたんだと思う。あたしから見ても、歯がゆかった。あれで、お父さんにも、結構いいとこがあるのかな、なんて思ったりして……悩んじゃったよ」
__そうか。
「でも、お父さんはお父さんで、笑ってたときもあったんだよね。ほんと、お父さんが機嫌がいいと、ホッとしたよ」
__そうだろうな。
「あたしの友達がくると、ニコニコして、いいんだよね。いいお父さんね、なんて言われると、複雑な気がして、笑いも強ばっちゃってね」
__そうか……。
「お母さん、一回だけ、あたしが生まれて間もなかった頃、あたしを抱いて逃げたことがあるんだって。どうしても我慢ができなくてね。でも、札幌から連れ戻されてしまったらしいの。これも、ずっとあとから聞いたんだけど」
__お母さん、大変だったんだね、とても。
「うん、苦労したと思うよ、ほんとに。お父さんて、何もしない人なんだよね。眼の前にあって、お母さんが遠くにいても、おい澄子、箸!っていう人なんだよ。お母さんが眼が不自由だっていうのに。信じられないような人なんだ」
__……。
「包丁を持って、お兄ちゃんを追いかけまわしたこともあるし……ほんとに殺されるんじゃないかと思った。だから、お母さん、信じられないらしいんだ。この世に、やさしい中年の人がいるなんていうことが……」
__あなたは?
「あたしはそれほどでもないけど。でも、このあいだ、吉行先生と会ったんだよね」
__淳之介さん?
「そう。あるところで紹介されて……とても、やさしくて、深い感じの人で、素敵だったんだけど、齢を聞いて驚いたの」
__齢と比べて、若いから?
「それもあるんだけど……お父さんと同じ齢だったの。まったく同じ齢」
__ほんと?
「うん、ほんと。ああ、と思ったんだ、あたし。同じ齢の人なのに、こんなに違うんだなあ、と思って……物悲しくなった」
__お父さんは、吉行さんと同じ齢なのか。
「きっと、お父さんがいなかったら、あたし、こんなに頑張らなかったと思う」
__やっぱり、頑張る部分があったんだね?
「うん、やっぱり、あった。この世の中に対して、ね。あのお父さんがいなかったら……」
__歌手になっていなかった?
「もしかしたら、ね」
__そうか。
「そうなんだ」
__そうか……だから、お母さんとお父さんは離婚したのか。
「あたしが離婚させたの。あたしがお母さんをお父さんと別れさせてあげたの。あげたかったの。さっき、週刊誌のタイトルで、あったじゃない。一家崩壊とかなんとか。あたしが歌手になったから一家がバラバラになったって。そうじゃないんだよ。あたしが歌手になったから、やっと別れられたんだよ、お母さんが。お金が少しできたから、それで別れてもらえたんだよ、やっと」
__お金を渡して? お父さんに? なんか、普通とは逆だな。
「あたしを、お金のなる木と思っているから、お金を渡さなければ、とっても別れてくれなかったの。あたしは、お母さんを見ていかなければいけないでしょ。だから、あたしはお母さんと一緒に暮すと言うと、あたしを、お母さんに盗られるって……そういう調子だから。現金を何百万か渡して、持っているアパートの家賃を一生送りつづけるからっていう証文を書いて、別れてもらったの」
__そうか……そのときなんだね、お父さんがテレビに出て、いろんなことをぶちまけたり、雑誌にしゃべったりしたのは。
「あたしのことはどんなふうに言ってもやっぱり、どんなことがあっても、お父さんはお父さんなんだからいいけどお母さんの悪口を言われるのがつらいんだよね。あることないこと、ほとんどは嘘ばかりしゃべるわけ。マスコミは面白がって、それを取り上げるし……」
__ひどいことしゃべってたな。もしも、その週刊誌が本当のことを書いていれば、のことだけど。あなたの離婚の原因をあなたの肉体的な部分に求めたり、お母さんを罵ったり、沢ノ井さんに別れさせられたと怨んだり、ムチャクチャなこと言ってたね。
「そうなんだ」
__でも、よかったじゃないか。とにかく、そんなお父さんと別れられたんだから。
「でも、やっぱり、あたしのお父さんなんだよね。お母さんは他人になっても、やっぱりあたしは子供だからね。一緒に住むのはいやだけど、面倒は見ていかなくちゃいけないと思ってるんだ」
__それは、そうかもしれないけど……。
「別れて、いまは花巻に住んでいるんだけど、電話や手紙が来るんだよね。家の井戸を掘るから10万送れとか、バイクを買うから5万とか、子供が学校に入るから10万とか」
__子供?
「女の人と暮してるんだよ。その人の子供が学校に入るからって」
__あなたに金の無心をするのか。で、どうするの?
「送るよ、しょうがないから」
__そんな!
「だって、送らなければ何をするかわからない人なんだよ。お金になれば、テレビだって雑誌だって、どんなことだってしゃべっちゃうんだから。2、3日前も手紙がきたの。いろいろ書いてあったけど……2ヵ月くらい前、お父さんが病気で入院しているというんで、仕事のついでに見舞いに寄ったの」
__どこか悪いの?
「ううん、どこも悪くないの。どの医者に見てもらっても、こんな丈夫な内臓はないって言われるらしいんだけど、悪い悪いといって入院するわけ。いつでも4つか5つの薬を持って歩いて……それが趣味なんだよね」
__それでも見舞いに行ったの?
「もしかしたら、ほんとに悪いといけないと思って。そのとき、うっかりしてお金を持っていくのを忘れて、財布に5万しか入れていかなかったんだ。それを渡そうと思ったんだけど……前にね、お父さんと会って、おこづかいに使ってと渡したら、あとで週刊誌に10万しかくれなかったってしゃべられて、悲しい思いをしたから、今度は渡さなかったんだ。あとで何を言われるかわからないから。家に帰ってから送ろうと思って。そうしたら、今度の手紙には、こう書いてあるの。病院の人が、あの藤圭子が見舞いにきたんだから、こづかいの100万も置いていっただろうと言うから、一銭も置いていかなかったと答えた……」
__つらいなあ、 それは……。
「うん、ちょっとね」
__だとすると、今度のあなたの引退については荒れてるだろうなあ……。
「そうでもないんだ。お父さんは気楽なもんでね、1、2年やめて、それから自分ひとりで仕事をやれば、もっと儲かるから、それもいいだろう、って」
__なるほど、なるほどね。そうか……。
「お母さんはね、一生でいまがいちばん幸せっていうんだ。お父さんに気兼ねしたり、怯えたりしないですむし、あたしとお手伝いさんの3人で、ほんとに幸せだって。こんなに幸せなときはなかった、って」
__あなたも、幸せ?
「うん。お母さんが喜んでくれるのが、いちばん嬉しいんだ、あたし」
__苦労しただろうからね。
「そうなんだ。お母さん、あたしが生まれるときくらいまでは、うっすらと眼が見えていたんだって。ぼんやりと、ね。だから、あたしにオッパイを飲ませるために胸に抱いていた、その赤ん坊のあたしの横顔と、そのときのねんねこの柄だけは、よく覚えているんだって。そのときの純ちゃんは、ほんとに可愛かったよって、いつも言うんだ……」
__赤ん坊のときのあなたの横顔と、ねんねこの柄、か……。もう、それから、あなたの顔は見えなくなったんだね。
「うん、そうらしい。でも、うちのお母さん、勘がよくてね。眼は見えなくても、耳とかでわかるのね。人と話してても、ふつうの眼の見える人と同じような感じで話すことができるし、たとえばよその人が家に来て、壁にかけている写真を見ていたりすると、その人の声の出てくる角度とかそういうのでわかるらしくて、ああその写真は……なんて言ったりするんで、みんなビックリするらしいよ。中には、お母さんの眼が見えないなんて嘘でしょ、誰にも言わないからぼくにだけ教えて、なんていう人がいたりして」
__なるほどね。
「お母さんはね、あたしの歌が大好きなの。昔、あたしの歌を聞くと、背筋のあたりがゾクッとしたんだって。手術してからは、あまりゾクッとしないようなんだけど……。でも、お母さんのいちばんの楽しみは、あたしの歌を聞くことらしいんだ。いまでも、ね。あたしのいちばんのファンはお母さんなの。だから、お母さん、舞台やなんかによく聞きにくるんだ。朝、行ってきます、って仕事に出るでしょ。行ってらっしゃい、って送り出されて、会場に行くと、お手伝いさんと一緒に、チョコンと座席に坐っていたりして。でも、あれはどうしてだろう、お母さんの姿が見えると、ジーンとして、歌いながら胸が熱くなっちゃうんだよ」
__そうか……。
「会場にね、体の不自由な人が客席にいるのが見えたりすると、やっぱり熱くなるの。同情なんて、相手に失礼だから、そんなの見せないようにするけど。この5月、日劇で10周年のショーをやったとき、眼の不自由な人が誰かに手を引かれて、花束を渡しにきてくれたんだ。舞台から手を差し出してもらったんだけど、もうその次が歌えなくなって、ほんとに困った。同情されるのはいやだろうから、懸命に歌おうとしたけど、胸がつまって駄目だった」
【解説】
「理由はないんだよ。殴ったり蹴とばしたりするのは、向こうの気分しだいなんだ。気分が悪いと、有無を言わさず殴るわけ。こっちは小さいじゃない、何もできないで殴られているの」
たくみな沢木さんの話術で、藤圭子さんは、父親からひどい虐待を受けていたことを、少しずつ話し出します。
獅子風蓮