獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その12)コミュニティを維持してきた祭り

2025-02-12 01:26:49 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

freak12 - 訪れる神楽

2018年3月29日 投稿者
友岡雅弥


普通、「神楽」というのは、神社に配属され、「神様に奉納する」ものと思われていますが、違うものもあります。

一つは、「太神楽」。

お正月といえば、新春特番には必ずといってもいいほど出演していた、太神楽の人気者、海老一染之助・染太郎さん。2017年12月6日に、染之助さんが亡くなったことが、ニュースになっていましたが、お兄さんの染太郎さんは、2002年に亡くなっています。

昨年は、上方の太神楽芸人、ラッキー幸治さんも喜寿で亡くなっています(文楽劇場にでてはりました。名門「豊来家」を再興し、芸歴70周年一門会で、芸術祭優秀賞をとりはった)。喜寿で、70歳ですから、ほんとに「角兵衛獅子」みたいな子どものころから軽業をしていたのでしょうね。

「太神楽」と「神楽」はついていますが、笙などの厳かな伴奏つきのものではなく、曲芸、軽業の「大道芸」です。

これがなぜ、「太神楽」と呼ばれたかというと、もともとは「代神楽」。つまり、遠方の神社に行けない人のために、「代わり」に来てくれるというわけです(宮本常一 『旅の手帖』p.12)。

なんか、これだけ聞くと、イージーな気がするのですが、鉄道も車も無かった、それどころか日曜日や祝日もなかった時代、何週間も掛けて、遠方に行くのは、ほんとうに一大事業でした。特に、貧しい人たちにとっては。

そしてもう一つ、「マレビト」信仰というのがあります。折口信夫が日本人の宗教観の基本に、「マレビト」信仰があると提唱し、民俗学的にも重要な概念です。

「マレビト」とは、「稀な人」という意味ですが、折口は「客人」を「マレビト」と読ませました。

共同体の外から来訪する「異者」で、これを「神」として歓待することが、その村の平安と繁栄を約束してくれる、というのが、「マレビト」信仰です。

だから、「太神楽」にも、「マレビト」信仰的要素があるわけです。

三重県桑名市に「太夫」という地名のところがあり、そこが「伊勢太神楽」の本拠地です。
もともとは、伊勢の御師(おんし、おし=参詣者の世話をする人)から、伊勢神宮の神札をもらい、そして、それをもって日本各地の村々を巡っていたのですが、明治時代に、その風習は廃止されます(神道の国教化、同時に多くの神社もつぶされる)。
それで、「太神楽」は、単なる「大道芸人」として扱われ、「遊芸稼人」の鑑札(許可証)によって認可された「芸人」になっていくわけです。

でも、すばらしい曲芸の技に、村々では人々が目を見はり、手を叩いたことでしょう。

さて、「訪れる神楽」というと、忘れてはいけないものがあります。

岩手の黒森神楽と、鵜鳥神楽です。

冒頭に述べたように、基本、神楽は神社につくものです。神に奉納するわけですから。

しかし、岩手には、(もちろん、例えば最初とか最後は神社に寄るものの)、広い地域を廻っていく神楽があります。(最近、この廻っていく神楽を描くドキュメンタリー映画ができました。
https://www.mawarikagura.com)。

岩手県宮古市の黒森神楽と、岩手県普代村の鵜鳥神楽です。

黒森神楽は、隔年で、1ヶ月ほどかけて、 宮古市から北の市町村を廻る(北廻り)年と、南方の町村を廻る(南廻り) があります。2006年(平成18年)3月15日に、国の重要無形民俗文化財に指定されています。逆に、鵜鳥神楽は、隔年、北回りは久慈まで、南回りは釜石まで廻っていきます。2015年(平成27年)3月2日に、同じく国の重要無形民俗文化財に指定されています。

さて、地図で黒森、鵜鳥神楽が廻っていくところを見れば、おどろきますよ。
――それは、三陸鉄道、国道45号線。もろに津波被害地にあたるところなんです。三百年以上も、そこを廻っているのです。

今は、明治の大合併、また平成の大合併によって、村々町々の数が激減していますが、昔はもっと単位が小さかった。
だから、例えば、今回の津波の被害、陸前高田市では、死者が住民の7.8%、女川は8.8%、大槌は8.6%とか(2012年9月6日付け、警察庁発表)となっていますが、

明治三陸大津波、昭和三陸大津波のころの、小さな単位の村では、例えば、田老・乙部 (今は、ともに宮古市)は、2000人近い死者が出たのに助かったのは37人、(山口弥一郎『津浪と村』 p.106)鵜住居(今は釜石市)は、残ったのが二戸のみ(同p.72)でした。

いわば、全村壊滅した村々が点在したわけです。

でも、その村が面する海は、世界三大漁場の一つ、三陸の海、豊饒の海です。そのつど、手間とり仕事の人たちが、流入してきて、そのつど「よそもんばかりの村」になったのです。

言葉も違う、生活習慣が違う人たちが、どのようにして「コミュニティ」を形成するのか。単に、近くに住んでいてもコミュニティはできません。三陸の村々が、コミュニティを形成するために必要なのは、「労働」と「祭り」という「協働作業」だったのです。

「協働」、「ともに何かを行うというコミュナルな実践」を通じて、コミュニティが形成されたのです。

今回の震災で、東京からきたコンサルティング企業の社員が「なぜ、ここの人たちは祭りにこだわるのか」と驚いたという話を、ほとんどの場所で聴きました。

単に、趣味で祭り好きだからではないのです。それによって、コミュニティを維持してきた、そして、津波や飢饉で壊れては、またコミュニティを復活してきた地域のDNAがあるのです。

コンサルティング会社には、「地域リテラシー」(その地域の物語を読み取るちから)がなかっただけなのです。

廻り神楽は、そのように壊滅した村々を訪れては、門打ち(門付け)をして、祝福を与えます(万歳や春駒のような伝統芸能と同じです)。

とともに、迎える側の役割も、廻り神楽では大事です。「神楽衆」が廻ってくる檀那場(祭りや芸能が営まれる場所)としての「神楽宿」の仕度を通じて、村人たちのコミュナルな実践が育まれるのです。

「絆」とかいう、すぐに忘れ去られたり、立場が少し変わってしまえば争いあうような、一時的、情緒的なものではなく、コミュナルな実践で出来たつながりは永続性を持つのです。

 


解説
今回の震災で、東京からきたコンサルティング企業の社員が「なぜ、ここの人たちは祭りにこだわるのか」と驚いたという話を、ほとんどの場所で聴きました。
単に、趣味で祭り好きだからではないのです。それによって、コミュニティを維持してきた、そして、津波や飢饉で壊れては、またコミュニティを復活してきた地域のDNAがあるのです。

破門前の創価学会は、こういう祭りも邪宗の行事として拒絶していました。
今では違うのでしょうか。
少なくとも、友岡さんは地域のコミュニティを維持してきた、こういうお祭りを尊重しているようです。
私も、信仰の対象とはしませんが、こういう祭礼の歴史は尊重します。

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。


獅子風蓮