まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

【中森明菜】さびしすぎてこわれそうなの/J-POP論・POP詩の宇宙

2017-08-28 18:55:05 | J-POP論/POP詩の宇宙

*写真は1980年代を《強く生きる》ことをテーマに駆け抜けた中森明菜さん。実は、重度のうつ病に苦しんでいた。
夏送る中森明菜の難破船   まほろば  

 

中森明菜、1981年デビュー。それに先立つ1970年代は大きな転換期だった。何も終ることなく、何か始まることもなく・・始まっていった80年代に彗星のごとく登場した。まだ20歳代に区切りを付けられずにいた私には、ちょっとした衝撃だった。何なのかわからないけれど、とにかく始めてゆこうとするエネルギーをくれたからだ。それが何だったかは、35年もの時間が過ぎた現在、あまりにも明らかだ。果たして彼女はあまりにも当たり前の《ワ・タ・シ》であり続けているのだろうか。それとも・・・。 

 

スローモーション 振り向くと遠く人影 渚を駆けて来る

 

 

少女A 特別じゃない どこにもいるわ ワ・タ・シ

 

 

1/2の神話 半分だけよ 大人の真似

 

 

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西東三鬼『酷烈なる精神』批判②/坪内稔典を読む(3)

2017-08-28 00:09:14 | エッセー・評論

ところで、これほどまでに私たちの近代的知(対象的認識)とそれに基づく〈定型表現〉を蹂躙してしまう〈国家意志〉とは、どのように現出して来るのだろうか。続けて、坪内はいう。

三鬼の言い方にならうなら、ぼくたちは、個々に、その生活において、いやおうなく〈国家意志〉の内側にいる。ぼくたちは国家によって首根を押さえつけられている。階級社会においては、国家が一部の階級の利益を、社会の共同利益として仮構し、その仮構のために、国家がひとつの権力として現れる。・・・単に、酷烈なる精神を唱えても、階級社会への眼が曇っていては、一切はきれい事にしか終らない。戦後の三鬼が立っていたのは、こういうきれい事に大きく加担した場所だったのである。文化はーというより、法・道徳・宗教・言語規範などの意識は、ぼくたちの生活のなかで、いつも〈国家意志〉に刺し貫かれいる。自然(季)や伝統に、また俳句形式に身をゆだねることは、ぼくたちが、その生活において、無意識のうちに〈国家意志〉にからめとられ、それに慣らされていることである。一見して平和で、安定してみえる時代こそ、ぼくたちがその感性の基盤を、〈国家意志〉に侵蝕される危機は強くなる。ぼくたちが自らの言葉を獲得するためには、ぼくたちの俳句の根拠を、〈国家意志〉とのあらがいに晒す以外にはない。

・・・《続く》

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