素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

鷲田清一著『くじけそうな時の臨床哲学クリニック』を読む

2011年11月10日 | 日記
名古屋への道中には、助さん角さんよろしく2冊の本がお供した。先日の“文楽のプログラム”と“くじけそうな時の臨床哲学クリニック”(勝手に略して“くじ哲”と呼ぶ)である。

“プログラム”は中身が充実していて、前回の「鬼一法眼三略巻」の復習にちょうどよい。たまたま日曜日の23時過ぎにNHKラジオ第一をつけると「新・日曜名作座」(西田敏行・竹下景子)が始まった。今までの話の筋は分からないが、西行が鞍馬山で義経に武術を教え、鬼若丸(武蔵坊弁慶)と出会う場面であった。文楽とは設定が違うが、要は源平の頃の出来事を昔も今も勝手にイメージをふくらませて物語をつくっているのだと思った。ラジオの原作は三田誠広さんの『阿修羅の西行』。新聞でのインタビューで、三田さんはこう話している。

●西行が馬に乗って幼い源頼朝を救出するとか、源義経に武術を3年間教えるとか、武蔵坊弁慶に会う場面なども出てきますね。

◆西行自身がその場に立ち会って目撃者になるように設定したので、少年時代の義経や弁慶とも接触があるわけです。やや無理な設定ですが、なるべく自然に描くようにしました。西行が和歌の達人であると同時に武術の達人でもあることは史実なので、不自然なことではないだろうと思って剣術も教える話にしたんです。
 それからこの時代は次から次にヒーローが変わってしまうので、読者に面白さを体感していただきたいと考え、登場人物に個性をつけました。頼朝というと既存のイメージでは老獪ですが、馬にもろくに乗れないような軟弱な人物に設定しました


 5日の文楽があったから6日のラジオに耳がとまったというような偶然のつながりに不思議を覚える。13日、20日の放送も聞いてみようかという気持ちになる。

 鷲田さんの“くじ哲”は心の予防薬である。幸いにして今の私は“くじけそうな時”とは遠いところにいるが、かつて“くじけそうな時”もあったし、将来再びそのような時を迎えるかもしれない。

 その渦中に入ると哲学的な思考はできなくなるのが常である。私は、3学期の中学3年生の学年だよりで“人間万事塞翁が馬”の話をかならず紹介する。人生において禍福は簡単に決められない、「禍福はあざなえる縄の如し」ということであるが、いつも紹介するタイミングには非常に気を遣う。中学3年生の場合は受験という進路決定が大きな乗り越えるべき壁としてある。壁を乗り越えて喜んでいる気持ちに水を差してはいけないし、壁に突き当たって沈んでいる時には単なるなぐさめだけになってしまう。かといって、早すぎてもまだピンとこない。人生の岐路を決める時が近づいて、ちょっと不安にもなってきた頃がちょうど良いタイミングだと思っている。

 結果や現象が出る前に、生き方、考え方の考察をしておく“たより”を、私は“予防薬”と呼んで大切にしていた。それと同じようなものを“くじ哲”には感じた。

 「生きがいが見つからない時に」「いい恋愛ができない時に」「ほんとうの友だちが欲しい時に」「容姿が気になる時に」「“家族”が重たい時に」という標題で、これが正解ですという押し付けがましいものではなく、こうすれば良いですよという安直なハウツーでもない話が綴られている。心にストンと落ちる話も多く、ニンマリしながら読ませてもらった。特に、強く残っているものを言葉だけ羅列しておく。

 ●幸福(ハッピー)と幸運(ラッキー)の違い
 ●自己実現を目標にすると幸福になれない
 ●幸福は口で感じられる
 ●希望の修正こそが人生
 ●「アンバランス」は最高の魅力
 ●「メール」と手紙の違い
 ●「ケータイ」はイマジネーションを破壊する。もどかしさという感覚の喪失。
 ●親子の溝
 ●みんなが悩む介護問題
 
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診察室のワルツ“自分を大切にする”

2011年11月09日 | 日記
 休暇を利用して志摩の実家に遊びに行っていた娘が帰ってきた。父親からの年賀状300枚を預かって来た。今年の絵は“備中国分寺五重塔”である。11月中に印刷をして送らねばならない。住所録作成、お尻についた火がボウボウと燃えてきた。

 昨日、今日とグ~ンと気温が下がってきた。やはり4℃~5℃も一気に下がると体感的には「サムッ!」と感じる。まわりには体調をくずしている人が結構いる。今日の毎日新聞の朝刊に、医療コミュニケーション研究家の岡本左和子さんが『診療室のワルツ』という連載コラム欄で“自分を大切にする”という題の一文を寄せている。気に入ったので、そのまま紹介します。

 病気は、ある日突然やってきます。かかりつけ医を持ち、定期的に健康診断を受け、食事や生活習慣に気をつけていても、残念ながら完全に予防することはできません。病気になるというのはショックが大きいですし、先行きが不透明になるため不安が増します。

 病気と診断されるまで、ささやかな生活を楽しく安定して送っていると信じていたのに、突然病気と一緒に生きていかなくてはならない、手術が必要などと言われたなら、不安になって当然です。おかしな言い方かもしれませんが、その時は大手を振って不安になってください。しかし、それは診断された病とどのように暮らしていくか、どのように治療していくか、についてだけにしましょう。

 確かに、入院や長期治療となれば、生活を変えることや家族や友人にお願いすることも増え、あれこれ段取りが必要になるでしょう。治療に向けて準備するうちに気持ちがなえて、「こんな大切な時期に病気になるなんて」と悔しくなり、不安に加えて「周りに面倒をかけて申し訳ない」「病気になって情けない」という自己否定的な気持ちが錯綜します。

 それでも、「あなた」が今まで真面目に一生懸命生きてきたことや有能な社会人であること、家庭を築いてきたこと、大切な親であり子どもであることは変わりません。それらは病気になったこととはまったく関係がないのです。「情けない」ではなく、「悪いところが見つかり、対処法が分かってよかった」「人生の課題が増えた」と思うのはどうでしょう。

 1日に一つ楽しい事を意図的にすることも、自分を大切にするために効果があります。花を育てる、映画を見る、友達と話す、メールばかりではなく手紙を出すのもよいでしょう。1日に一つ病気のことや病を持つ自分、闘病生活以外のことで、小さな楽しみを見つけ、それを書きとめてみてください。数週間後に読み返してみると「結構楽しいこともある」という気持ちがわいてきます。

 病気でなかったとしてもやりたいと思うことを楽しんでみる。それは、「自分」を大切にし見失わない一歩につながります。そしてそれが医師と治療に前向きに取り組む姿勢を支えていきます。


 肝に銘じておこうと思った。
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住所録作成中

2011年11月08日 | 日記
 時代と少しづつ遅れながら歩いている私である。20年ほど前に使い始めたワープロをいまだ使い続けていた。住所録がワープロのフロッピーに入れてあるので年賀状の宛名印刷はワープロに頼らざるをえない。1枚ずつ入れなければいけないので面倒であるし、故障でもしたらお手上げである。インクのほうはまだ在庫があるみたいで買いだめはしてあるが、なくなるのは時間の問題である。早くパソコンへの切り替えをと思いつつ、ついつい先延ばしにしてきた。

 しかし、ついに恐れていた事態が起こった。今年は喪中はがきとなるので少し早目に住所録の訂正をしておこうとワープロの電源を入れフロッピーから呼び出してもまったく反応しないのである。ついに来るべき時が来たとあきらめて、パソコンに住所録を入れ直す作業に入った。時間はあるのだが、かえってそうなると集中できない。テスト1週間前に早く家に帰っても、部屋の片付けをしたり、本を読みたくなったりと肝心の勉強に手がつかない生徒と同じ。

 もともとパソコンの基本の知識に欠けているので、新しい作業は試行錯誤となる。うっかりした操作でせっかく入れた50名ほどのデーターを消してしまったりと遅々として進まない。

 しかし、11月も第2週に入ると、お尻に火がついてきたという感じで空いた時間を見つけてはせっせと入力している。本来、絶対にしなければいけない仕事はないのだから覚悟を決めて丸1日頑張れば済む話なのだが、心の隅に“まだもうちょっと時間はある”という思いもありはかどらない。

 

 
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今日は“大阪城天守閣復興”80周年の日

2011年11月07日 | 日記
「11月7日は大阪城天守閣は無料で入れるみたいやから行かへんか?」と妻から誘われた。『無料・半額・理由あり~』に対する反応は早い。菊の展示もやっているから「まあ、いいか」と一緒に出かけた。

 改修工事を終えたばかりの極楽橋からの大阪城が一番好きである。
 大阪マラソンの時は、ここに仮設トイレがずらりと並んでいて、空いたトイレを見逃さないために城など見る余裕がなかったことを思い出し苦笑。

 城の正面には菊の寄せ植えが飾られている。今年は少し地味なように感じた。定番のアングルでカシャリ。

 天守閣へのエレベーターは長蛇の列。階段で行くことにした。8階までの階段上りはそこそこいい運動になる。平日とは思えないほど人が多く、ゆっくり景色を楽しむどころではなかった。

 天守閣を出ると、社会見学の小学生が入口の所で整列していた。係の人と打ち合わせをしている先生の声に聞き覚えがあったので振り返って見てみると案の定K先生であった。若い時から少年サッカーチームをつくり熱心に指導されていた方である。途中から地域のクラブチームの指導者となり定期的に練習試合などをやらせてもらっていた。

 入場までに少し待ち時間があるみたいなので声をかけさせてもらった。4年ほど前に練習試合をしてからお会いしていなかったが、何となく雰囲気が違っていたので、そのことを告げると「もうサッカーはやめましたんや。今は菊とマラソンです。」という答え。心境の変化について聞くような場でもなかったので、お互いにがんばりましょやということで別れた。

 また、“出会い”の不思議さを思った。帰りは菊の展示会場を通って行ったが、マラソンをしている彼の姿はイメージできるが、菊をいじっている姿はイメージできなかった。展示されている菊を見ながら、彼もこんなのをつくっているんやな。と感じ入ってしまった。妻も同勤したことがありよく知っているので同じようなことを考えていたみたいで、ポツリと「人間って変わるもんやね」とつぶやいた。「ああ」と返す。「あと何年ぐらいで退職かな」「2、3年?」それぞれに何かを考えながら黙って歩いた。

  

 昼前に家を出て、帰ったのが16時すぎである。昨日の同窓会では年度末に退職を迎える連中が多くいた。先に退職した私の生活ぶりについては情報収集と称して興味があるみたいで「何してる?」と尋ねられた。劇的な変化のない、といって退屈でもない“ゆるい生活”ぶりを伝えることはなかなかむずかしかった。

 目標を決めて最短距離で行くことを考えず、寄り道しながら、きょろきょろ見ながら急がずに行くということが許されるのが退職後の生活ではないかと思う。やっていることの意味を考え過ぎないことかな。
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大学の同窓会で名古屋へ・ついでに思い出の場所にも

2011年11月06日 | 日記
名古屋への行き方はいろいろあるが、先日の“3人寄れば文殊の知恵”でのように特急、新幹線を使わず在来線を乗り継ぐことにした。
星田発8:16快速同志社前行8:36京田辺着新田辺発8:56急行京都行9:19京都着

京都発9:30新快速長浜行10:24米原着米原発10:33新快速豊橋行

名古屋11:43着 
名古屋駅周辺はすっかり様変わりしていた。方向がわからなくなったが尋ねるのも癪。30年以上前の記憶を頼りに開始の12時ジャストに名鉄ニューグランドホテルに到着。教科ごとにテーブルが用意されていてなつかしい面々が坐っていた。会いたい人の40%に会うことができ、あれやこれやと話しているとアッという間にお開きの時間になった。♪学生歌“山脈(やまなみ)遠く”♪を最後に全員で歌った。学生歌を歌うなんて思ってもいなかったが、応援団で誰よりもたくさん歌ってきた身、38年ぶりでも問題なかった。


 みんなと別れた後、もう1つの目的、浪人時代をふくめ5年間お世話になった“成田屋旅館”のあったあたりを歩いてみることにした。親元を離れ18歳から23歳までを過ごした思い出のつまった地である。
再びすっかり変わった名古屋駅周辺を昔の記憶をたよりに歩く。太閤通さえみつければ後は何とかなる。
交差点を左(東)に行けばテレビ塔、名古屋城のある栄方面に行く広小路通、右(西)に曲がると秀吉の生まれ育った中村村のあった中村公園に続く太閤通である。

 私のいた頃は市電が走っていたが、今は地下鉄になっている。その分太閤通は広くなったが、駅裏と呼ばれたこのあたりは駅前の開発の波は押し寄せていない。何となく昔の雰囲気が残っている。
太閤通を30分弱歩くと大門に着く。市電に乗っていた時はここで下車していた。名前の通り名古屋では名の通った中村遊郭の入口にあたる。私のいた頃はまだその空気が残っていて何ともいえない猥雑さがあった。下宿は左へ行くのだが、その前に右手に行ってみた。すっかり街はさびれてしまったという感じで、かつての面影はほとんどない。メインストリートをそれるとところどころに古い家屋が残っていて遊郭であったということをしのばせる。
銭湯の入口だが、看板に“廓温泉・草津温泉”の文字がある。ぐるっとひとまわりして太閤通に出ると正面に“海苔”の看板が見えた。
ここは、母方の祖母の叔父が創業した店で、今は代替わりをしたが、私がいた時は健在で“磯小町”という商標で焼海苔、味付海苔をつくっていたが、その苦労話を聞いた。学生の私にはとっても食べることのできない料理屋に連れて行ってもらったのでありがたかった。中元、歳暮の時期には店のほうでアルバイトもさせてもらった。“成田屋旅館”も祖母の叔父に母が相談に行って紹介された。色々な意味でお世話にもなったし、人生勉強もさせてもらった。

 海苔屋の裏にまわって5分ほど歩くと私の暮らしていた“大倉旅館”がある。私が大阪に移ってから数年後に引越しをされたと風の便りで聞いていたので、もうないだろうなと思っていたが、意外や意外、そのままの状態で建っていた。標札を見ると近くにある天理教関係の施設として使っているみたいである。当時でもかなり古かったと思うが、まだ現役とはと驚いた。
庭のあった所は駐車場になっているが家の外観はそのままである。裏にまわると私の部屋が見える。2階の右端である。エアコンの室外機があるが、私の時はうちわが涼をとる道具。トタンの照り返しの暑さは半端ではなかった。“今流している汗はきっと無駄にはならない!”なんて青臭い台詞を吐いていた。

 3畳一間であった。4年生の時♪神田川♪が大ヒットした。♪さんじょう ひとまの ちいさな げしゅく♪という下りでは、ここの生活とももうじき終わりだという思いもあっておセンチな気分になっていた。

 思い出の地ウォークの締めくくりは山本屋本店の“みそ煮込みうどん”。 友人に「きしめんもいいが、みそ煮込みうどんもいいでよぉ」と連れて行ってもらって初めて食べた時の驚き。湯がくのを失敗したできそこないで取り替えてほしいと言いそうになった。とにかく固い。うどんは“伊勢うどん”の柔らかい食感しか知らなかった私にとってはとんでもない代物だった。鍋のふたに麺をとって食べる流儀をおそわり食べたが、いつもそうなのか腑に落ちず何回か一人で通っているうちに病みつきになってしまった。

 30数年ぶりに食べたが同じであった。

 帰りは近鉄特急にした。近鉄名古屋駅に向かう途中に巨大な人形と中日ドラゴンズの応援歌。名古屋ややなぁと実感した。クライマックスシリーズも煮込みうどんのように煮えきらない、中日らしい勝ち方でヤクルトを破り、日本シリーズをソフトバンクと戦う。とっても興味のある組み合わせとなった。

  近鉄特急に乗るのも本当に久しぶりであった。16:25発鶴橋18:38着。JRを乗り継いで星田着19:39。



 



 




 
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