散歩者goo 

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昨日記141112水(経済状況と活動制限 みんぱくXナレッジキャピタル)<追>

2014年11月13日 12時56分53秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇  最高/最低℃ 平均/最低% =19.2  13.5  68  46  
昨日は、前日のランニング疲れ(疲労感はなかったが)か、なんとなく新聞やTVを見て過ごし、そのまま昼食後も、惰性でなんとなく過ごした。
ただ、予定には正倉院展と書いてある。
昨日は正倉院展の最終日で、無料日でもあったのだ。
以前から、昨日は朝から正倉院展に出かけて、奈良のギャラリーや「はならアート」を観に行こうと決めていた。

ところが先週頃から、現在の私の置かれた経済環境を考えるようになった。
預金通帳を見る限り、昨年の今頃より早いペースで出費が重なっている。
しかも、この先運転免許の更新や、風呂代その他まとまった出費が、予想される。
その上、京都、奈良、神戸で催されるイベントで是非行きたいものがいくつもある。
しかし、それを実現すれば、その先アルバイト先が見つからなければ、破産するしかない。
少なくとも、現在の年金で、最低限生活するだけの金額、月10万円余りの収入はある。
従って、結論は単純である。
すべての費用の掛かるイベントと、交通費のかかるところには行かないことだ。
私が、経済的に許容できる範囲で有用だと思うイベントだけに絞り込むしかないのだ。
具体的には、FB等で魅力的などうしても行きたくなるイベントをたくさん見るが、交通費がかかる場所のイベントや、入場料が必要なイベントは、定期的なものを除き、原則行かないことにした。

話を戻すが、昨日は、朝から上記のようなことを私の頭の中で繰り返し考えていた。
心の片隅では、奈良に行き正倉院展に行ったり、「はならアート」を見たいという強い欲望が渦巻き、もんもんとしていて、それで煮え切らない日中の行動となっていたのは間違いなく、TVを見たり新聞を見たりしながら、行きたい気持ちを抑えていた。
少なくとも、数日前まで正倉院展の最終日は、特別無料になっているの、で行く予定を立てていたのだが、自分の客観的経済状況に危機感を抱き、予定を覆したので、心の納まりがつきにくかったのだ。

夕方になって、予約していた、グランフロント大阪で行われる、みんぱくの連続講座「みんぱく×ナレッジキャピタル ―イメージの力をさぐる―」に出かけた。
7回の連続講座だが、今回を含め6回休まずに出席している。
すべての講座を聞けば、私が趣味としている美術鑑賞(特に現代美術)に関係する「イメージ」に関して、文化人類学からのアプローチが何か見えると思った。
しかし今のところ見えてこないが、国立民族学博物館(みんぱく)と国立新美術館がコラボして行った企画の意味がなんとなく見えてきたが、もう一つ新美術館の視点が見えない。
みんぱく収蔵品を現代美術らしく見せることに関しても、現代美術らしく見えるという感じのみである。

現代美術には初めから作者の制作意図が込められていて、それなりの創作活動が行われているが、みんぱく収蔵品の大半は消費されるものであったり、何かの用や儀式や威信材として供されるものであり、大きな差がある。
芸術とは、表現なのであり、その先には個人やグループの表現したいものがある。
それに対し、民芸雑貨や祭祀用具は、用途がまず優先される。
その関係は、芸術作品とデザインの関係も同じである。
デザインは、クライアントの意志や用途・機能が最優先されるし、クライアントがあってのデザインである。
芸術作品は、本人の意思や感性が最優先され、観客を意識していないことが多く、自分の表現に合う観客・聴衆を呼ぶのである。

しかし、そうした民芸雑貨や祭祀用具やデザインの中に、芸術作品と同じ、美術的要素が含まれているのも事実である。
日本の大正昭和時代の民芸運動で、民芸的要素を美として再評価した精神とも共通する。

歴史的に見て、芸術が独立して強調され出したのは、個人の権利の拡張と比例するのではないかと考えている。
個人に自由がない状態では、自己表現もそもそも存在しない。
西欧でルネサンス以降に芸術が発展し始めたのも、個人の自由と関係あるのかもしれない。
今回の一連のセミナーで、改めてイメージや民芸品について考えられさせられたし、今後もこうしたことをヒントにしながら、イメージに関連したことを考えていきたい。
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