「ポンさんに相談がある…。」
そう声をかけてくれた、私より人生の先輩だけど、緩和ケア病棟の経験は1年未満の熟したナースさま、Aさん。
相談とは、病棟で、毎日、頭を抱えつつも、何とかお手伝いをする方法はないかな?と考えている土居さん(仮名)さんとの会話の内容。
土居さんは、悪液質によると思われる体力の低下と抑うつがみられて、なかなかすっきりとした生活を送ることが難しい状態。
これまでにも、土居さんのかかわりについては、スタッフでたくさん話し合いをして、あーでもない、こーでもない、あーやってみよう、これをやってみようと試みてまいりました。
ですから、土居さんはただ今、わが病棟では注目の的な患者さんなのです。
Aさんと土居さんの会話の内容のことで、Aさんはポンに相談してくれました。
「Aさん、娘さんが妊娠してはるらしくって、今、3ヵ月なんですって。それで、お話をしていると、孫の顔をみれるように、あと、2年、生きれるかな、って言われたんです。それで、私、『がんばろうよ』って答えたんです。これって、本当によかったんでしょうかね。」
この相談を受けた時の私の最初の気持ちは「嬉しいっ」でした。
土居さんの状態は決して嬉しいといえるものではないのですが、Aさんがこの相談をしてくれたことがとても嬉しかったのです。
なぜって。
Aさんは土居さんのことを思って、必死に考えていたから。
その場面を思い出すってことは、踏みとどまって、もう一度考えようとしていることだから…。
土居さんから、あと2年生きれるかなと聴いた医療者は、おそらく、客観的に考えると、それは無理かもしれないと思ってしまいます。
でも、生きてもらいたい、生きられるといいな、生きるためには何ができるかな、たとえ、2年生きられなくても、何か、土居さんのお手伝いになることはないかな、そんな気持ちをAさんは持っていてくれたのだと、普段のAさんのケアをみているとすぐに感じ取れました。
ポンも同じくです。
土居さんから「あと、2年生きれるかな」との言葉を投げかけられたAさんは、きっと、「どうやって答えたらいいのだろう?」と自分がどうこたえるかに必死になっていたんだろうと思います。
私も、そんなこと、よくあります。
患者さんのお話よりも、自分がどう、患者さんに対応したらいいのかを考えてしまう、自分がすっかり医療者になってしまう場面だと思います。
そんなとき、関心は、患者さんよりも医療者である自分自身に向けられます。
Aさんから尋ねられました。
『ポンさんなら、どう、答える?』て。
そこのところは難しいですね、返答するのは。
だって、自分はその場面に居合わせていませんから。想像はできても。
おそらく、教科書的には、
患者さん:あと、2年生きられるかな。
医療者:あと、2年生きられるかなって思っておられるのですね。
患者さん:あと、2年生きられるかな。
医療者:2年、生きられるといいですね。
なーんて応答がよしとされるのかもしれません。
でも、患者さんに対する返答に、いい悪いとか、こう答えるべきってあるんじゃろか?って常々思ってしまいます。
会話のやり取りは、普段のかかわりを含めて、患者さんや医療者も含めてその時の文脈によって一定のものってないと思います。
ですから、Aさんが経験したこの場面を切り取って、いい悪いを判断することはできないと、ポンは思います。
土居さんとAさんとのやりとりには、なるべく、土居さんにとって「当たり障りのない」言葉が選ばれるのかもしれません。
でも、正解を狙って、形式ばって「あと、2年生きられるかなって思っておられるのですね。」なんて返答したところで、患者さんには「わかってもらえた」とは思えないと思うのです。
わかってもらえたと思っていただけることを期待すること自体が医療者のおごりなのかもしれませんけど。
私はAさんに返答しました。
「この場面だけを切り取って、いい悪いを判断することはできない」と。
私は、患者さんとのやり取りで、ある1場面だけでその患者さんへのケアの評価が決まってしまうとは思っていません。
何が言いたいかというと、あるひとつの場面でやり取りした言葉が、その患者さんが受け取る医療者への思いのすべてになってしまうことって、おそらくないのではないかということです。
患者さん、そしてご家族も、ある場面ひとつだけで医療者をみているのではなく、普段の私たちの患者さんとご家族への在り様を意識的に、あるいは無意識的に受け取っているのだと思います。
ですから、仮にAさんが遭遇した場面で、「がんばろうよ」と伝えた言葉が土居さんにとってつらい言葉であったとしても、「がんばろうよ」と声をかけたAさんが間違っていたとはならないと思うのです。
土居さんの病気の状態を考えて。自分が土居さんに心から「いい時間を過ごせてもらいたい」と思うのであれば、普段のかかわりの中でその思いは伝えられると思います。
食事のお膳を運ぶだけであっても、お薬をお部屋に持っていくだけであっても。
土居さんのところに訪れるときには、大げさな言い方かもしれませんが、常に「何か、お手伝いすることはありませんか。」「私たちはあなたのお手伝いをしたいんです。」という気持ちを込めて、患者さんとのやりとりをひとつひとつ丁寧にしていると、そうそう大きな患者さんと医療者の食い違いってないんだと思うのです。
もしも、ある人が投げかけた言葉が、地雷を踏むように、患者さんのご気分を害したとすれば、それはなぜかを検証したうえで、チームでフォローすればいいのではないかと思うのです。
私は、個人的な考えではありますが、患者さんやご家族に「私は医療者として何ができるのだろう?」「医療者として何かしたい」という思いがケアの根底にあるのであれば、患者さん・ご家族との行き違いはめちゃくちゃ大きいものにはならないのではないかと思っています。
行き違いは、常にありますけどね。
その行き違いを埋めるための労力は、普段のかかわりによって大きく違うと思うのです。
・・・・・で。
Aさんが「がんばろうよ」と土居さんに声をかけたことは土居さんにとってどう受け取られたのかというのは、私たちが判断することではありません。
土居さん自身がどう受け取ったかということが大切であって、文献に述べられている言葉かけができたかどうかが大切なのではありません。
私は、当たり障りのない言葉を患者さんに伝えることよりも、その場面に患者さんとともに居合わせて、患者さんの気持ちが痛いほど伝わってきて、悩んで、悩んで、思わず・・・いえ、思わずとはいえ、患者さんのことを思って投げかけた言葉は、
それはそれでいいのではないかと思っています。
もしも、それが患者さんにとって「オオゴト」なのであれば、私は喜んで、「じゃ、どうしたらいい?」ってことを必死に考えたいと思います。
患者さんとの心の距離をとることは、実のところ、とても大変なことです。
でも、患者さんから「それは違うっ」と非難されたとしても、どうしてそんなことになってしまったのだろう?とチームで考えていくこと自体が患者さんとのお付き合いで大切なことだと思います。
そして。
何より、私のかかわりは本当にこれでよかったのだろうか?と自分の在り様を踏みとどまって、悩むこと自体が、患者さんやご家族に少しでも近づける一歩だと思います。
医療者よがりな表現ですが、これこそが、「受け止める」ということなのではないでしょうか。
日々、鬱蒼としていたポンですが、実のところ・・・・・・・・。
Aさんに救われました。
いえいえ。
土居さんの存在自体に救われたのだと思います。
感謝。
お疲れ様です。
いつも本当に勉強になります。
私は緩和ケア認定看護師を目指し
今、研修センター(教育課程って言っているところもありますよね?)で勉強中なのです。
研修前も研修終了後も一般病棟での勤務なので
緩和ケア病棟を感じたくて
いつもお邪魔しているのです(笑)
大先輩のポンさんの葛藤を見て
いつも応援してました。
これからも陰ながら応援します。
ポンさんのお話はいつも心にとまります。
かなりしんどい毎日だと思いますが、
得るものはかなり大きいと思います。
ぜひ、がんばってくださいね。
私のこのブログは、
自分の思いを吐き出すためにあるようなものです…。
参考になるかはわかりません。
実際にはもっと、
どろ~~っとしたものなのです。
(濃密という感じ、こってりという感じ、こびりついて剥がすに剥がせないという感じ…)
読んだ方が、少しでも緩和ケアに興味をもっていただくこと、そして、
緩和ケアをご理解いただくことをモットーとしておるのですが。
単なる「ため息」的な内容になっていることが多い…。
お時間のあるときに、
ふらっとお越しください。
肩の力を抜いて…、お読みください。
読みながら寝てしまったという感じでもよいかと思います。
なにより、
いつも読んでいただき、ありがとうございます。