今日は、「安東清人君紀念碑」を紹介します。
安東清人は、神足勝記・木下小吉郎と一緒に熊本県から貢進生として上京した人です。優秀で、友人の間では知られた人でしたが、肺結核のために33歳という若さで亡くなりました。
『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)にも、安東がドイツから神足に送った手紙が出てきたことが出てきます。(なお、昭和6年9月13日の項に、この手紙のことを書いていますが、まだ見つかっていません。)
碑の原文は全文が漢字です。この碑文について、すでに『広報 ながす』(第43号、昭和42年9月25日)に読み下しがあります。しかし、「大要」とありますので、この際ですから、自分の読み下しを試してみることにしました。
安東清人君紀念碑:長洲市四王子神社
上記の広報には
「四王子神社の東北の隅に弓道場がある。その西側に高さ三メートル位の石碑が建っている」
とありますが、位置も大きさも記憶と違うように思いました。私が行った10年前頃は、境内に入って正面右に舞台、左手に碑があり、大きさは私の身長より小さかったように思います。
なお、安東清人については、上村直己「熊本藩貢進生安東清人日記『心ノ影』(1)(2)」熊本学園大学『総合科学』第17巻第1・2号、平成22年(2010年)12月、平成23年(2011年)4月)があります。
では、お読みください。
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安東清人君紀念碑
君〔くん〕の名は清人。安東氏は細川家に仕え、父俊文は藩の物頭であった。母は内田氏の出である。
君は、安政元〔1854〕年4月6日、肥後国玉名郡長洲に生まれた。10歳にして春秋を読みこなし、長じて藩校の時習館に入り、竹添〔進一郎:井井(せいせい)〕・木下〔韡村(いそん)か〕諸氏に就いて経学を修めた。
明治元年、撰ばれて居寮生に揚〔ひきあげ〕られた。3年、貢進生に推挙され、東京大学南校に入りドイツ語を修めた。のち開成学校の給費生となる。8年、官命によりドイツに留学し、フライベルク大学に入り、鉱山学を専攻した。
不幸にして肺〔結核〕を患い、10年9月に帰朝した。13年、病が稍〔やや〕間〔かん:よくなり〕して文部省に出仕した。すぐに権少書記官に任ぜられ、正七位に叙せられた。官立の学務局副長の職を兼務した。18年、少書記官に昇進し、従六位に叙せられた。此歳、病が再発し、帰郷して養生することを願い出た。しかし、天はこれに年を与えず、明治19年9月17日、遂に没した。享年33。
是より先、君は大島氏〔佐喜〕を娶るも、先に没し、子がなかった。弟の真人が遺骸を収め、長洲の先祖のそばに葬った。
君の人となりは質直寡文〔質朴、正直、うわべを飾らない〕。没するに臨んで遺言を残した。
吾れ死すとも碑を樹〔た〕つることなかれ。蓋し、諛墓の毀〔ゆぼのそしり:墓誌を作って
死者をほめすぎること〕を深く悪〔にく〕めばなり
しかし、友人の中に勤学を紀念して募金する者があった。同窓の友は痛悼し、相談して石碑を建てて次のように刻んだ。
学成り、名著しい同人の賢明を称賛する。造花はその才を妬み、年を与えなかった。
哀悼の余り碑を建てて伝える。遺言は耳にあるも、顧みるいとまがなかった。
二品大勲位能久親王篆学額
正三位勲二等子爵品川弥二郎撰 高橋健三書
以上です。碑の裏面など、略しました。
この時の熊本行で、私は神足の生家の「熊本内坪井折栴檀{うちつぼいおれせんだん)」の位置確定も出来ましたから、じつに思い出深い旅行でした。
次の写真は、帰りの機内から見た「熊本県ー宮崎県」の山地です。どのあたりかお分かりになる方がおられましたらお教えください。
まだ書きたいこともありますが、ここまでにします。
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