(1)明日(10日)、約半年ぶりに群馬へ行きます。その前にちょっと寄り道をして、丹荘で下車して先祖探しもします。
私の家系は、家名としては群馬県の『藤岡市史』にも出てきますが、父方だけでなく母方もともに4代前に跡が絶えていて、養子縁組で家を継いできていることがわかっています。そういう意味では万世一系ではありませんが、しかし、それは社会制度としての家の観点からみた場合にそうなのであって、生物としては、私には両親がありますし、父・母にはそれぞれ父母がいたから生まれてくることができ、そのまた両親に父母がいた…わけですから、その意味では万世を経てきているわけです。そして、そのどこかに意味を見出せば、「一系」となりますが、少なくとも権力者ではなかったので、通常はそうは言わないわけです。
(2)言うまでもなく、これは我が家だけのことではありません。家系図が残っていてかなり古くまでたどれる家系でもどこかで子孫が絶えて、養子縁組などでつないできているのを見ます。本家と分家とあって、本家は本家で、分家は分家で、いわゆる長男とか総領といわれた跡取りの外の次男・三男は、どこかの家に養子に入るチャンスがなければ、跡取の家の部屋住まいになるしかなかったわけです。これは出生数が多くなれば必然的にそのことが起こったわけです。
そこでは「家が主で人は従」、「人は構成員」というだけで、家の中に埋もれていました。したがって、今の、長男・次男は何々家の太郎・次郎、そしてその子は太郎太郎〔長男のところの長男〕、これをつづめて「弥太郎」、太郎次郎〔長男のところの次男〕、次郎太郎〔次男のところの長男〕、次郎次郎〔次男の次男〕、これをつづめて「弥次郎・弥二郎」というように呼称したり名付けたわけです。いわば「個人」としての人格が認められない時代の命名です。
(3)もっと広げると、「万世一系」を唱えていた天皇家もそうです。たとえば、昭和天皇には3人の弟〔高松宮・秩父宮・三笠宮〕がいました。またさらに、時期にもよりますが、明治以降に10前後の宮〔伏見宮など〕が創設されました。これらは、天皇の空位〔いなくなること〕を防止する措置としてとられたものです。天皇家は天皇を当主とする大家族〔血統集団〕でしたし、今もそうですから、「宮」と称して一個の「家」のような外見を取って創設されていましたが、これは「家」ではなく「呼称」です。「高松宮」にしても「伏見宮」にしても、当人に与えられた「呼称」です。天皇に不幸があった場合にはいわば「繰り上がって」天皇になりますが、そうでなければ「予備」で終わります。このことを、評論家の大宅壮一は『実録・天皇記』(角川文庫、228㌻)で「血のスペア」と呼びましたが、そのことをいったものです。いずれも、今の時代にはぞぐわないことです。
(4)ああ、また長くなりますからここでやめます。
要するに、明日は朝起きて体調が悪くなければお出かけです。したがって、このブログは体調次第でお休みとなります。その場合には悪しからず。
【コレクション 132 昭和史全記録】
No.301で「子らが駆け よさこい踊る運動会 昭和の子らは敬老席に」というヘタな歌を載せましたが、あれは「降る雪や明治は遠くなりにけり」になぞらえて昭和を歌ったものです。
このコレクションでは、No.352(2日)に『ドキュメント昭和』を載せ、昨日のNo.358は『昭和の大相撲』でした。昨日今日と連続しましたが、このあとも間をおいていくらか載せます。
下のパンフの紹介をします。
大きさは、A4判、6㌻です。A4判3枚分の横長の用紙を、最初に左から3分の1を折り込み、次に右から3分の1を折り込むとできます。
1㌻ 下に掲載
2~4㌻ 内容見本とピックアップした写真 *2~3ぺ時の一部を下に掲載。
5㌻ 内容紹介
推薦のことば 加藤芳郎(漫画家) 只事でない時代を見る
井出孫六(作家) 有力な”計測機”として
6㌻ 下に掲載
体裁:A4判 1374㌻ 定価:12,000円 毎日新聞社 1989年3月
1㌻
2~3㌻の一部
6㌻
以上です。
1.今日の月 (上弦)
2.珍客
3.私を「まだ先生とみなしているところ」から宣伝ハガキが来ました。
名前の脇に「財政学」と添書きがありましたから、「財政学会」の名簿が使われたようです。
先生とはわが師のことなり もったいない
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