神足は御料局入局前にほぼ全国を歩きました。(正確には、北海道と四国の一部を残して、すべてです。)
私は、神足が歩いたところは一応すべて御料地候補地だったとして機会があるごとに検討することにしています。その一つとして、仙台近辺があります。
明治21年7月9日、青森、秋田・山形・岩手と巡回してきた神足は、気仙沼・志津川・石巻を経て松島に着きます。
そして、松島について、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の68ページ、7月9日の項で、つぎのように書いています。
「・・・行々日本三景の一なる松島を探る。松島の景を見るの好所は富山な
る丘を最とす。・・・絶景筆紙の能く尽す所あらさるなり」
富山〔とみやま〕から見た松島
松島が人気があるのは、もちろんその景色の故ですが、そのもとは古くからの霊場であったなどの理由も言われています。
いまここで取り上げたいのは、その人気のある松島の近くの塩釜の北にある山地に宮城第一御料地があって、その付近が御用邸の候補になっていた可能性があることです。たとえば次の記述がそれです。
「宮城第一御料地は・・・松島湾に近くして、同湾の風光を瞰下し、頗る絶
景の所なり。然れとも其地海岸に適せさるか為、若し御用邸等を建築せんと
するには近傍の民地を買上くるを要す可し」(『宮城県委託御料地実況調査
書』(宮内公文書館蔵)
この文書は、明治27年11月1日付調査と書いた箇所がありますから、28年ころの作成文書です。
また、この箇所は、払い下げられて、『神足勝記日記』冒頭の地図(大正7年)には出ていません。
さらに松島湾の辺りはその後に埋め立てられていますから注意が必要です。
要するに、27年頃にここに御用邸の案があったということです。
それだけではありません。その北に品井沼がありますが、ここは志田第一御料地の中にあって御料地になっています。
御料地になっていることがなぜ不思議かというと、北の瀬峰の方にある蕪栗沼やそのさらに北の伊豆沼は、御料地の中にあるにもかかわらず御料地になっていないのです。そのため、上記の『調査書』では2沼も御料地に編入することを提案しているくらいです。(これに似た例として、日光の中禅寺湖は御料地でなかったけれども、箱根の芦ノ湖は御料地だった、ということがあり、基準はまだよくわかりません。)
品井沼を猟場にする可能性は、品井沼の北の涌谷の辺りにある名鰭〔なびれ〕沼と平郡沼が御猟場になっていて、監視人も任命されていましたから、あったということです。(『猟場録』明治28・30年)
また、涌谷の北には広大な湿地・沼地が広がっていましたが、これが御料地として編入され、遠田第1~3御料地などとなっていました。これらの地は後に干拓されて耕地となりましたが、その記念碑が、米山高校脇や東千貫・短台などに残されています。また、JR箟岳〔ののだけ〕駅前には御料地という小字も残っています。
ですから、このあたりに北京を計画した可能性もあるのです。北京の周辺に、それに付随・関連する施設を設ける計画があったかもしれないのです。
実際、一文書に過ぎないとも言えますが、涌谷の南に旭山〔朝日岡〕という小山があり、ここを北京とする建白「北京建都の議に付建白書」(『宮城県広渕沼沿革史』昭和3年非買品)もあるのです。
少し荒っぽい議論ですが、皇室財産形成というものの、東北については、収益用地の面と同時に、京都・東京に次ぐ北京建都などの面も必要なようです。
都市としての適地、港湾・水運としての適地、農耕としての適地、北京としての適地、など具体的に見る必要があるようです。
つづきは明日に。
かげろう
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