大学南校(明治6年):正面玄関、その右と後教室、さらにその後ろに
六角堂、その奥に2階建ての講堂
ブログを書き始めて1ヶ月が経過しました。
毎日、これまで撮り貯めた写真を見直して、撮った時のことや、撮った場所のことを思い浮かべたり、『神足勝記日記』や関係文書を読み直して、何のことかとあれこれ調べた時のことを振り返っていますが、これはこれで大事な作業だった、もっと早くにやればよかった、先を急ぐばかりが能ではなかった、と反省しています。
書きたくなるものを探す作業は、大変といえば大変ですが、目下のところは楽しめています。
千葉県久留里付近の山中の寺で
今日は、一つだけ。『神足勝記日記』を読み始めて最初の方で気が付いたことです。
これは、大概の皆さんがご存じないことだと思われますので、結論から書きますが、
「カデルリ―の死亡日が違う」
ということです。
まず、『神足勝記日記』明治6年6月15日の項に次のようにあります。
「十時頃より村岡〔範為馳:はんいち〕・和田〔維四郎:つなしろう〕と外
出。・・・帰路、教師センクを訪ふ。・・・センクより前教師カデルリ―の死去を
聞き一統悲嘆。・・・。」
ここに出てくる人について、大体は納得いくところまで調べがついていますが、ここではカデルリ―についてだけとします。
カデルリ―のフルネームはヤーコプ・カデルリ―(Jacob Kaderli)です。
カデルリ―については静岡大学『人文論集』57(1)2007年、57(2)2007年、58(2)2008年、62(1)2011年(共同執筆)に城岡啓二さんが論文を発表されています。興味ある方は調べてみてください。
このうち、上記の57(2)に『ベルン伝記集』第3巻にある「カデルリ―」の箇所が翻訳されています。それに拠ると、カデルリ―は神足たちが勉強した大学南校の教師となってドイツ語教材を出版した人であること、1869年に日本に来て1872年7月22日にアメリカへ向かったこと、1874年12月31日、48歳でマルセーユの病院で肺炎のために死亡したこと、などがわかります。
ちなみに、シベリアを横断してやってくるなど、興味深い人です。
もうお気づきかと思われますが、カデルリ―の死亡日は、『ベルン伝記集』に依れば1874(明治7)年12月31日ですが、『神足日記』に依れば、明治6年6月15日より前なのです。つまり、神足たちが「悲嘆」したときにはカデルリ―はまだ生存していたらしいのです。
ただ、『神足日記』の明治6年辺りは薄い美濃紙に鉛筆書きだったため消えかかってきたので、昭和になってから書き直しています。事実まで変えることはないと思われますが、それも含めて検証が必要です。
日記には誤記や誤記憶で書かれていることがあります。怖いところです。
今日書きたかったのはこのことです。
『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー 』日本林業調査会(J-FIC)は、元の日記のほかに、大澤の注記や資料引用・加筆などがあります。ぜひ批判的にご覧いただけますようにお願いします。
え、です
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