東アジアの歴史
古代、中世、近代哲学史。
今
人類の歴史と
その真実を
認識する方法が
問われている。
ぼくは
知識と真実と信仰あるいは理想を
分離あるいは重なる部分集合を減らさんと蠢動してきた
近代哲学の認識論が
真実の共有を妨げていると思う。
近代以降の学者は
普遍的な神や霊魂の存在から
逃げるために
へ理屈合戦をしてきたのだ。
つまり
近代哲学の歴史は
神がいないことの
無意味な証明の歴史である。
何かしら普遍的実在をにおわす論があれば
個別で相対的だとしたがるのだ。
ぼくは
アリストテレスの認識論に
すでに真実からの逃避という
欺瞞の萌芽を発見した。
しかし
プラトンには
五感を超えた
心の目で観る(観照:テオリア)という
純粋な認識論があったのだ。
すなわち
文献的一次資料の精査と
権威の訓詁解釈に終始する
学問のあり方は
心の目の直感的認識には
敵わないのである。
経験的なデータの収集
数量、代数学的な分析
時間と空間に対する執着。
こういった傾向は
近代に特徴的な陋習であり
教育にも散見される。
プラトンや仏教の観世音菩薩の認識論を
理解するには
むしろ
自らの直感的な体験が有効である。
言語よりイメージ
代数より幾何学図形
多弁よりメタファー
長編小説よりショートショート
2次元(絵)3次元(建築)より音と光。
そのような感覚を
徐々に生活に浸透させていけば
真実を観る目は
開かれるだろう。
高橋(啓蒙)