自主憲法制定の
ために
各界から草案を提案し
国民的議論を惹起すればよい。
昔
日本共産党さんも
日本共和国憲法という草案を
準備していた。
最近の共産党の方は
福本イズムや
講座派や労農派
神山茂夫などの
説を知っているのだろうか。
現在の共産党の諸兄は
理論武装の威力を軽視しているように
思われるので
自党が憲法草案
それも
君主制ではなく
共和国の日本を
想定していることに驚嘆するのではないか。
いずれにせよ
私説を述べ
論議の俎上にのせねばならぬ。
まず
憲法である。
第9条はそのままでよい。
すなわち
国は
専守防衛で武装解除すべきである。
もし
仮に外国が侵攻してきた場合は
民間公益が志願兵を募り
ボランティアで戦う。
ボランティアの原意は
志願兵のことである。
変えねばならぬのは
第1条と第89条の
天皇の概念と
国家経営原則である。
そして
権利の縮小と
義務の拡張である。
公共の福祉
公序良俗という上部概念に
あらゆる個人的な自由権を
従属させる必要がある。
ハンス・ケルゼンの純粋法学は
歴史的役割を終えた。
むしろ
これからの法学は
自然法の概念から
公共の正義を
純化し
上部概念化せねばなるまい。
厳密に言えば
公共の正義に反する
個人の自由はない。
自由主義の概念は
近代に肥大し過ぎたのだ。
マンデヴィルやアダム・スミスの
自由主義は
単なる我が儘であり放縦を招いただけで
何等社会に貢献したことがない。
とにかく
まず
天皇陛下を国家元首に規定し(第1条)
学術や福祉の民生部門は
民間を主体とせねばならない(第89条)。
今
あらゆる福祉事業は
国家事業であり
厳密には民間が実施しては
ならないことになっているのだ。
そして
皇位継承は
世襲を廃止し
禅譲とすべきである。
堯と舜。
ダビデとソロモン。
継体帝と応神帝。
王座を保証するのは
血統の連続性ではない。
カリスマ
すなわち天来の聖性
聖霊の有無である。
よって性別は
不問となる。
高橋(王権神授説)