Fun Boy Three - The More I See
近代の自然学は
目的論や理念を
一旦棚にあげて
自然の機能や構造を解明する
神なき機械論的世界観を導出した。
したがって
自然学は
往々にして
目的を措定して研究せず
歴史、年代、変化、遷移に集中し
結果
歴史的相対主義に陥る傾向にある。
森づくりや林学に関しても
潜在自然植生のような
ある種の
一般概念
超歴史的な理想から
調査研究することを
厭う傾向がある。
しかし
歴史分析や年代特定は
推測の域を出ない。
すなわち
森づくりを研究し
実践するためには
あるべき理想の森をイメージし
それに向かう植栽計画
動植物の生態
人間のライフスタイルを
明らかにせねばならない。
ぼくは
林学や生態学に関しては
全くの素人だが
上記の問に対して
シンプルな答えをくれた
学者、論客には
いまだ会っていない。
宮脇理論や
その真逆な論や
その他凡百の人は
単に
好きなイデオロギーや文明や
好きな樹木や花を
好き勝手に述べているだけだ。
ある人は
落葉広葉樹が普遍的だと言い
ある人は
照葉樹林とその文化の優位性を主張する。
結局
和辻哲郎氏の如く
気候風土と文明の優劣を論じるという
浅はかな形而上学に堕するのだ。
ぼくが
知りたいのは
ナラ林文化と照葉樹林文化の優劣
西欧と東アジアの比較文明論ではない。
富山県のかつての森(縄文)
今の自然植生(原生林踏査)
そして
生物多様性の森をつくる方法が
知りたいだけだ。
文明論や宗教社会学
哲学や思想は
一旦
自然学者の皆様に
視野の外に
放擲して頂きたい。
何となれば
それらは
ぼくの専門だからである。
おわり
高橋(ネオプラトン主義)