早春 俳人永尾宋斤

祖父で「早春」を大正15年2月に主宰・創刊した永尾宋斤の俳句・俳語・俳画などからひもといています

永尾宋斤の生い立ち

2018-01-22 | 永尾宋斤の句集:宋斤 思い出の記・定本宋斤句集
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永尾宋斤
明治二十一年八月十六日大阪市東区大川町に生れる
名は利三郎

大阪商業学校を出て大阪商工新報主筆、探勝新聞記者などを経て、尼崎市の委嘱により尼崎市立図書館に入り「尼崎市史三巻」を編纂完成する。
幼にして日本派俳句に興味を感じ、青木月斗など諸家と往来し句作に執心した。明治四十年俳句雑誌「囀」(さえずる)を発行、「カラタチ」続いて「同人」の編轉に従事している。
初の號を秀峰と言い、つぎは芋法師白花蛇と改め最後に宋斤とした。余技として俳画を能くする。
大正十四年九月「同人」を離脱し、大正十五年一月七日大阪曽根崎、露の天神社における早春社発会式すなわち創立俳句会をへて、二月俳誌「早春」を創刊主宰する。
昭和九年正岡子規を追慕していた宋斤の願いに早春同信あげての共鳴を得て、萩の寺に子規句碑建立。昭和十九年三月戦時下の統制国策に応じ早春を停刊。同年五月十二日大阪西区西道頓堀の早春発行所において病没、享年五十七才。法名「鯉風宋斤居士」墓碑及び宋斤十三回忌に早春社建立の宋斤句碑「早春や枯れたるものに光あり」が豊中市曽根東光院萩の寺に建つ。
遺句集として昭和二十四年十一月に「定本宋斤句集」が早春社より、二十五年五月終戦時発刊寸前まで進んでいた原稿が見つかり「宋斤思い出の記 俳句の部」が嫡氏要氏から刊行される。
*昭和大正文学美術人名辞典[大正十五年四月五日発行大阪立川書店発 編纂者松本龍之介]から 三代主宰阿南師「俳人永尾宋斤」引用。

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