昨日は、初めて「コメント」をいただきました。
教えて!gooで初めてお礼をいただいたときのことを思い出します。なんだかうれしいですね。
さて。
昨日コメントをいただいたようなことが現場の学校で行われているとするならば、一部は、やりすぎですね。直立不動ぐらいは(個人的な価値観でいえば)気になりませんが、口の大きさは、「他の歌の指導のときにやってください」ですよね。
私が指導するとすれば、ポイントはいつも2つ。
①息継ぎの場所
「さざれ石の」は、一息にしないと、言葉が通じにくいので、「さざれ」「石の」と、息継ぎをしない。同じように、「むすまで」も、息継ぎをしない。もしもできるならば、「こけのむすまで」と一息。でも実際には難しい。
②テンポはやや速め
情感とかいろいろのたまう人がいますが、上に挙げたように、歌詞が、意味ある言葉として歌うことを目的にするならば、小学生にとって、標準的なテンポで君が代を歌うことは不可能です。息が続かないのです。ですから私は、他の人からすれば、「ちょっと軽いですね」と思われる感じの、速いテンポで演奏させます。
全校指導の場では、それ以上のことを要求したって徹底できるはずがないし、ネットで語られているいろんなことについて(私も散々語っていますが)全校の場で語るのは、ちょっとはばかられます。時間の問題もあるし。
まあ、そういうことです。
私は、一応音楽を指導してきた立場として、まずは君が代を、音楽的に見てどのようなものであるか、ある程度とらえておくことが、下地として最低条件だと思っております。
そうすると、君が代は、やはり、日本の国歌と宣言しても全く恥ずかしくない、かなり特徴のある音楽だということが言えると、私は考えてしまうのです。それはなぜか。この曲が生まれた時代と、その頃の紆余曲折がわかるにつれ、「なるほど、この曲に変わる国歌の代案を出すことは、少なくとも音楽的には、無理ではないのか」と思えてしまうのです。
誤解のないように言っておきますが、私は君が代を、音楽的に、必ずしも賛美しているわけではありません。しかし、今私たちが語る、ほとんどの「優れている」といわれる曲に比べれば、君が代は、それらを簡単に跳ねのけてしまうぐらいの音楽的な価値はあります。
…ふう。ようやく少し、本題に入れそうかな…?歌詞については、また次の機会に。
教えて!gooで初めてお礼をいただいたときのことを思い出します。なんだかうれしいですね。
さて。
昨日コメントをいただいたようなことが現場の学校で行われているとするならば、一部は、やりすぎですね。直立不動ぐらいは(個人的な価値観でいえば)気になりませんが、口の大きさは、「他の歌の指導のときにやってください」ですよね。
私が指導するとすれば、ポイントはいつも2つ。
①息継ぎの場所
「さざれ石の」は、一息にしないと、言葉が通じにくいので、「さざれ」「石の」と、息継ぎをしない。同じように、「むすまで」も、息継ぎをしない。もしもできるならば、「こけのむすまで」と一息。でも実際には難しい。
②テンポはやや速め
情感とかいろいろのたまう人がいますが、上に挙げたように、歌詞が、意味ある言葉として歌うことを目的にするならば、小学生にとって、標準的なテンポで君が代を歌うことは不可能です。息が続かないのです。ですから私は、他の人からすれば、「ちょっと軽いですね」と思われる感じの、速いテンポで演奏させます。
全校指導の場では、それ以上のことを要求したって徹底できるはずがないし、ネットで語られているいろんなことについて(私も散々語っていますが)全校の場で語るのは、ちょっとはばかられます。時間の問題もあるし。
まあ、そういうことです。
私は、一応音楽を指導してきた立場として、まずは君が代を、音楽的に見てどのようなものであるか、ある程度とらえておくことが、下地として最低条件だと思っております。
そうすると、君が代は、やはり、日本の国歌と宣言しても全く恥ずかしくない、かなり特徴のある音楽だということが言えると、私は考えてしまうのです。それはなぜか。この曲が生まれた時代と、その頃の紆余曲折がわかるにつれ、「なるほど、この曲に変わる国歌の代案を出すことは、少なくとも音楽的には、無理ではないのか」と思えてしまうのです。
誤解のないように言っておきますが、私は君が代を、音楽的に、必ずしも賛美しているわけではありません。しかし、今私たちが語る、ほとんどの「優れている」といわれる曲に比べれば、君が代は、それらを簡単に跳ねのけてしまうぐらいの音楽的な価値はあります。
…ふう。ようやく少し、本題に入れそうかな…?歌詞については、また次の機会に。