songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

いじめはあったのか?その5

2010-05-03 06:27:26 | マスコミ関係
④ステレオタイプと思われる報道体制

あのころ、「いじめはなかった」報道で全国に非難を浴びることになった学校。
でも、その言葉の中に、「自殺に直結すると思えるほどのいじめとは言い切れない」というニュアンスが含まれていたとしたら、また、そのニュアンスが全国に伝わっていたら、事態は変わっていたかもしれません。もしかしたら、そういう言い方をしていたのかもしれません。

現在もそうなのかもしれませんが、当時、いじめに関する報道は大体がお決まりのコースでした。
・自殺者が出る、または自殺未遂者が出る。
・学校が会見する。前回述べたような事情で、当時は「いじめがあった」発言は、とりあえずは口が裂けても、とりあえず最初は言えなかった。
・そんなわけがないとマスコミが怒りをあおり、いじめの事実が明らかになってくる。
・学校や教育委員会の謝罪。マスコミは「二転、三転」と更に学校不信をあおる報道をする。
少なくともそこに当事者や、他の生徒への教育的配慮はない。

そんなわけでこの事件も見事にその最悪の流れに乗っかっており、肝心の、生きている、守るべき生徒が、こう言っちゃあ何だがあえて言ってしまうがマスコミによってズタズタにされてしまいました。当然、騒ぐだけ騒いだら、心に傷を負ったもの、病を持ってしまったものへの配慮、アフターケアなど皆無です。
市がスクールカウンセラーなどを増やしている始末です。

再三再四指摘していることですが、この事件に関し特に感じたことです。なぜ情報源が、遺族側からの情報1本ばかりだったのでしょうか。
あ、いや、学校側からの情報はもちろんありました。
「事件後、学校ではこのような集会や、ゲストをお呼びしての講座などを開き、いじめ撲滅への啓発を行った」
「有志が声をかけ、学校、地域を結ぶ心のハンカチ活動(だったかな?)」
などなど。
そのたびに、遺族の家族のコメントがありました。

しかしそれらはすべて、一つの視点から見た報道ばかりなのです。亡くなった子サイドからとらえた事件に関する見方1本。

「いじめはすべて、いじめた側が悪い」
それは犯罪であるからです。
しかし、どのような犯罪報道の時でも、普通は、加害者側の事情というものが報道されるものです。取材されるはずです。
背景を知ることによって、凄惨ないじめ(人権傷害)をなくすための手掛かりを得ることができるし、私たちの心に潜む、自分たちもいつ加害者になってしまうかわからない心と向き合うことができるからです。

今回の一連の報道姿勢に、加害者側、または生徒側からとらえた視点が一切なかったことがどうにも不自然であります。今のところ、その疑問に答えてくれたマスコミはありません。
まるで、「戦争はいけない、戦争はいけない」「戦争に導くのは、無能な政治家のせい」「戦争をどうやってなくすか?それを考えるのが、あなたたち政治家の仕事でしょう。」とシュプレヒコールだけを繰り返し、世界中で、戦いの現場にいる人たちの素顔に全く迫ろうとしないお気楽な平和活動家のようです。

その後ろで、どれだけ多くの人の心が傷つき、痛い思いをしているか。いまだに私のイライラは募るばかりです。

それとも…
・もしかしたら、今度の訴訟に対抗すべく、加害者サイドは、あえて今まで取材を断って、準備をしていたのでしょうか?(でもそれもちょっと考えにくい…)
・今まで私が「ひどい」と思っていたかつてのいじめ事件も、この岐阜県の例のように、重要な面がわざと報じられないままで来ていたのでしょうか。もしそうだったとしたら、まだまだ私も甘かったと反省しなければなりません。情報リテラシーへの道は、まだまだ険しく、遠いです。

現在私が知っている元生徒の心の傷付き方を見るにつけ、(学校が同じだったというだけで学級も学年もつながりもすべて無関係な子なのですが)やりようのない怒りをずっと感じているのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする