⑤今回の訴訟の意義
私の記憶では、訴訟を起こした大本は遺族側だったとおぼえています。
「事件から数年たったが、加害者側の生徒たちから、その後改めての謝罪もなければ連絡もない。まるで事件の風化を待っているかのように思える。誠意が感じられず、娘が全く浮かばれない。何らかの形で責任を問わなければならないと思う。」
私はこれを見て、「ほう」と感じました。
そして最近、加害者側とされる生徒サイドから、「いじめはなかった、法廷で争いたい」という言葉が初めて出ました。
そこで私はまた、「ほほう」と、何だか希望のようなものを感じました。
まず遺族側から裁判に持ち込む話が出たとき、一部ネットなどでは、攻撃する人もいました。「金で解決する気か。」「そんなの甘い。もっと重い制裁を」など。
でも、まず私は、これは良い一歩だと思ったのです。
ここまでの年月があって、互いの意思の疎通がうまくいかず、会話で解決できる問題ではないとはっきり自覚したのではないでしょうか。
a.もし今生きている「いわゆる加害者側」が、世間で言われる通り、反省の色もなく人間の風上にも置けない無神経さでのうのうと生きていたとしても。
b.逆にその子たちなりに社会的制裁を自覚していて、表現の仕方に食い違いはあるもののその子たちなりの心の傷を背負いながら生きていたとしても。
c.その中間で、その子たち本人の中で、本人たちなりの反省がありながらも、世間一般客観的に見て、到底許せない反省の浅さと、無神経さがみられていたとしても。
いずれにせよ、互いの立場同士、理解と歩み寄りの糸口がこれ以上望めそうもないのでしょう。それならば、これ以上いたずらにわだかまりを増幅させることに、よいことなど一つもありません。私は、むしろ金でけじめをつけ、世間一般的には、このぐらいの事件であった、という折り合いをつけ、以後一切干渉しない。「解決したことにして、気持ちの踏ん切りをつける」というふうにすることのほうが、望ましいと思ったのです。たとえが悪くて申し訳ないですが、交通事故を起こした後の処理のようにして、以後、「あの時は…」ともめないようにするようなものです。
そして、加害者側とされる生徒サイドから、「いじめはなかった、法廷で争いたい」と切り出したことは、更に評価できる動きでした。
まあ、今まで得た情報から考えれば、「そんなわけないやろ」発言ではありますが、当事者はどうとらえたか、初めてこれから明らかにされるのです。
ようやく。3年以上もたってようやく、通常の「事件をとらえる多角的な視点から客観的に」事件を見つめることができます。
もしも今度の裁判で一般的な視点で見たとき、加害者側とされる生徒たちに、「一般的に見て、命を絶つに至らせるレベルのいじめとは考えられない」という判決が出てしまったら、どうするのでしょう。この数年間、あまりにも多くの生徒たちの、大人たちの心が修復不可能なほど傷ついています。そして、その可能性は、ゼロとは言い切れません。だれが責任を負うというのでしょうか。
そしてその言葉は、一番初めに校長が遺族に向けて発した言葉でもあるのです。
私の記憶では、訴訟を起こした大本は遺族側だったとおぼえています。
「事件から数年たったが、加害者側の生徒たちから、その後改めての謝罪もなければ連絡もない。まるで事件の風化を待っているかのように思える。誠意が感じられず、娘が全く浮かばれない。何らかの形で責任を問わなければならないと思う。」
私はこれを見て、「ほう」と感じました。
そして最近、加害者側とされる生徒サイドから、「いじめはなかった、法廷で争いたい」という言葉が初めて出ました。
そこで私はまた、「ほほう」と、何だか希望のようなものを感じました。
まず遺族側から裁判に持ち込む話が出たとき、一部ネットなどでは、攻撃する人もいました。「金で解決する気か。」「そんなの甘い。もっと重い制裁を」など。
でも、まず私は、これは良い一歩だと思ったのです。
ここまでの年月があって、互いの意思の疎通がうまくいかず、会話で解決できる問題ではないとはっきり自覚したのではないでしょうか。
a.もし今生きている「いわゆる加害者側」が、世間で言われる通り、反省の色もなく人間の風上にも置けない無神経さでのうのうと生きていたとしても。
b.逆にその子たちなりに社会的制裁を自覚していて、表現の仕方に食い違いはあるもののその子たちなりの心の傷を背負いながら生きていたとしても。
c.その中間で、その子たち本人の中で、本人たちなりの反省がありながらも、世間一般客観的に見て、到底許せない反省の浅さと、無神経さがみられていたとしても。
いずれにせよ、互いの立場同士、理解と歩み寄りの糸口がこれ以上望めそうもないのでしょう。それならば、これ以上いたずらにわだかまりを増幅させることに、よいことなど一つもありません。私は、むしろ金でけじめをつけ、世間一般的には、このぐらいの事件であった、という折り合いをつけ、以後一切干渉しない。「解決したことにして、気持ちの踏ん切りをつける」というふうにすることのほうが、望ましいと思ったのです。たとえが悪くて申し訳ないですが、交通事故を起こした後の処理のようにして、以後、「あの時は…」ともめないようにするようなものです。
そして、加害者側とされる生徒サイドから、「いじめはなかった、法廷で争いたい」と切り出したことは、更に評価できる動きでした。
まあ、今まで得た情報から考えれば、「そんなわけないやろ」発言ではありますが、当事者はどうとらえたか、初めてこれから明らかにされるのです。
ようやく。3年以上もたってようやく、通常の「事件をとらえる多角的な視点から客観的に」事件を見つめることができます。
もしも今度の裁判で一般的な視点で見たとき、加害者側とされる生徒たちに、「一般的に見て、命を絶つに至らせるレベルのいじめとは考えられない」という判決が出てしまったら、どうするのでしょう。この数年間、あまりにも多くの生徒たちの、大人たちの心が修復不可能なほど傷ついています。そして、その可能性は、ゼロとは言い切れません。だれが責任を負うというのでしょうか。
そしてその言葉は、一番初めに校長が遺族に向けて発した言葉でもあるのです。