songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

やっぱ君が代6~音楽的価値、アイデンティティーと時代~

2007-03-18 10:37:17 | 音楽
君が代の持つ、特異性と「結果的にそうなってしまった」希少価値については、時々断片的に語られる程度で、意外に触れられていないようです。

もともと私が君が代について少し詳しくなったのは、NHK教育で約10年前、故、団伊久磨さんがやっていた日本の西洋音楽史のような番組でたまたま「君が代」について特集をしていたのを見たからでもあります。この番組のすぐあとに亡くなっておられます。「3つの君が代」という内容の放送でした。

ちなみに団さんは、合唱曲「河口」などでよく知られています。「花の街」も代表曲です。(昭和24年)この曲には、戦争への深い反省、平和への力強い決意が美しさの中に込められており、団さん本人が、平和な国、日本を心から望んでいたひとりであることがよくわかります。
その団さんが「君が代」を語りました。実に興味深かったです。

関連する質疑として、私はhttp://oshiete1.goo.ne.jp/qa1992384.htmlのところで回答しております。ただ、同じ質問で回答した方が、http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tpnoma/のページを紹介してくださっています。(この中に、君が代についてのページが入っています)これが、まさに団さんがテレビで語った「君が代」の内容と、ほぼ一致します。

このページを理解するには、時間がかかるかもしれません。テレビ番組のように実際に演奏しているところもありませんし。でも、現在私たちの知っている君が代(2代目)が、決して簡単に作られたものではなかったことや、試行錯誤の後に生まれたものであることは、わかると思います。

「国の歌といえるような曲を作るべきだ」と海外からの進言を受け、フェントンが最初に作った君が代は明治3年の曲。コラール風で、メロディーはけっこうきれいですが、どうにも歌詞が乗らない。10年近くたった明治12年、林広守(実際の旋律は奥好義が作ったとも言われる)が、雅楽風の旋律で作った2代目君が代は、最初のスコアを見ると、まさに「雅楽」。エッケルト氏はこのメロディーラインに、何か感じるものがあったのでしょう。歌の出だしと終わりの部分に、あえてヨーロッパ風のハーモニーをつけないという思い切ったアレンジをします。

私はエッケルト氏が日本風の旋律に面くらい、つけたくてもハーモニーがつけられなかったのだと考えておりましたが、そうではなかったそうです。エッケルト氏にはこのメロディーの、日本独自の美意識が伝わったというのです。特に出だし、終わりの部分の特徴あるところにヨーロッパ音楽風の和音を入れるのはつまらないことだ、と語ったらしい。果たしてこの2代目君が代は、10年近く普及させようとしたものの不評で広まらなかった初代君が代とちがい、すんなりと広がっていったそうです。(もちろん時代の基盤は変わっていましたが、このままほうっておいても、初代君が代は浸透しなかったでしょう。)

3代目君が代は、他機関から国歌が生まれてくるのではわれらの不名誉だ、と、明治13年音楽取調掛(今の文部科学省)が作ったもの。イギリス作曲家ウェブによる賛美歌のメロディーに君が代の歌詞を載せ、さらに歌詞を付け足してあります。これも、歌詞のことを考えなければそれなりのメロディーなのですが、あまりにも言葉との相性が悪く、しかも歌詞が増やされている。当然、浸透はしなかったわけですね。

当時の日本人について私が敬服するのは、いくら押し付けのものを海外から与えられても、合わないものは残さず、好みのものは残す、といった取捨選択を、きちんとした感性を持っておこなっていたということです。

当時は日本にとってドレミ音楽黎明期。西洋音楽がどっと流れ込んできます。これを日本人はすんなりと受け入れていきます。でも、全部受け入れるわけではなく、好みのものだけを残していったのでしょう。そんな中、君が代のあのメロディーです。

和洋折衷。あの時代でないと作ることができなかった、日本とヨーロッパの融合音楽です。ただ合わせるだけでなく、それぞれの良さを互いに認め合い、作り出されたものです。日本の美意識とアイデンティティーがしっかりと守られ、洋楽と溶け合ったこの音楽。世界に唯一と、思い上がったことを言うつもりはありませんが、現在の私たちに、平成の今、これを越えるものを創れといわれても、そう簡単にはいかないことがお分かりいただけるでしょうか。君が代のフォーマットは、雅楽、日本音楽なのです。
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やっぱ君が代5~今日は思いっきり屁理屈だけど~

2007-03-13 22:35:10 | 音楽
今日の意見が支持されるとは思っていませんが、ちょっと言ってみたくなることを、極めて無責任に述べたくなったので、少し。

「君が代」…どう曲解しようと、天皇の世の中。
では、今はどのような「天皇の世の中」かというと、象徴天皇を国民の総意として位置づけた、民主国家、法治国家です。

立憲君主制ではありませんが、近いイメージを感じています。
この歌が、現在まで歌われ続けていることに対して、私は、かえって逆説的に、「日本の平和の偉大さ」を感じます。もしかしたら、現在のように議論が行われること自体が、平和の証なのかもしれません。

現状から常識的に考えてみましょう。日本で戦争が起こりそうになったとき、現況から、「天皇陛下のもと」日本人が一致団結して、天皇陛下のために命を投げ出して戦争に向かうと思いますか?

日本人のアイデンティティーを、長く続いている天皇の血筋に求め、その優秀性などをときながら、排他的な理論をかさに、戦争へ突っ走っていくと思いますか?

もしも日本が将来戦争へ向かうときがあるとすれば、それはまさに、天皇ではない、別のものによって国民を間違った方向で一致団結させ、ナショナリズムに酔わせる為政者が現れるときに違いありません。天皇の下に、戦争のために団結しようとする人が多数派になる可能性は、まず考えられません。

「君が代」が支持されている間は、日本はまだまだ平和です。平和のための歌を国歌に、などという声がよく聞かれますが、そんなものは私に言わせれば、「平和教」的な、恣意的な曲にしか過ぎません。

国策とか、戦績などのヒーロー性を全く持たない、まさにシンボルでしかない天皇という人に対して、「あなたを祭り上げているような状態で保つことができているこの国の状態が、永遠に続きますように」と歌っているわけです。こんな人(たち)のために「宮内庁」などという機関まで作られ、皇族の方々の交流活動や生活のために結構な金額が使われているのだけど、「それもよしとしようよ。歴史ある一族を、わかりやすい形で残しているのだから。」と、心の余裕を持って受け入れているわけです。

平和な世の中でなければ、こんなことはありえないことです。

屁理屈とは思われるでしょうが、本当に日本が、平和でない国へと歩き出そうとしたとき、真っ先に抹殺されるのは、君が代だと私は考えております。かといって、もちろん、君が代こそが平和の明かし、というつもりではありません。君が代という歌が残り、いまだに受け入れられている国民の心のありように、平和があるということです。

さて、そうすると当然、「この歌とともに戦地で亡くなっていった人たちの心」「つらくて思い出したくない人の心」への配慮はどうなのか、という質問をする人が出てくるでしょう。

前回の音楽面も含め、ここらあたりから本題になってくるとは思うのですが、私もちょっと心のエネルギーが要ります。これに触れるには。余裕があれば、近日中に述べます。
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やっぱ君が代4~だけど音楽~

2007-03-11 21:53:02 | 音楽
前回、厳しい言葉を言い捨ててしまいましたが、そのままほうっておくのもどうかと思いましたので、私なりの論拠を述べます。

「万死に値する」決して大げさに言っているのではありません。
しかしこれは必ずしも、君が代に対してだけ言うのではありません。音楽教師という立場の人間があのような行動をとる、立場上の責任をどう考えているのか、ということが言いたいのです。

小学生が、ひとつの歌を好きになるか、きらいになるか。
放っておけば、小さな子は、ある程度以上に音楽的な曲ならば、気に入って歌うことでしょう。君が代は、(いずれ述べますが)音楽的に価値のある曲だと解釈しております。
人間、嫌いなものよりも、好きなものが多いほうが、幸せに決まっています。

しかし、将来好きになるかもしれないものを、意図的な操作によって、嫌いにさせる権限が、音楽教師にはあるのでしょうか。未来永劫、好きになってはいけないと命令することは、これこそ「強制」です。

嫌いにさせることは、簡単です。
教室や音楽室、体育館で、その曲のマイナス面ばかりを語り、「こんな曲を大事に歌うなんて、変だよね。」と閉める。
そうでなくても、学級や全校が、ある曲を歌わない、または蚊のなくような声が聞こえるかどうかのような場を体験し続けたら、その子には、「この曲は、あまり歌ってはいけないんだ。」という印象を持ちます。別にこれは、君が代に限ったことではありません。

音楽教師の役目は、少なくとも、歌いたい子には歌わせてあげられるようにする。
そのための場を確保することです。個人的に歌いたいと思っている子がいたとしたら、その場を、歌いにくい場にするべきではないですし、そこは、教師の配慮で何とかなるものです。

よく言われる「歌いたくない子を無理に歌わせるな。」バカ言っちゃあいけません。歌いたくない人なんて、そんなこと言われなくたって、絶対歌いませんよ。
音楽教師の仕事は、あくまでも「歌わせること」音楽的価値を体感させることです。

だから言うのです。君が代を歌わせない、歌わせない雰囲気を作り出した音楽教師。その人たちには、歌いたい人をも歌わせないような場を作るほどの、猛烈な「緊急性、禁止性」を君が代に認めるのか。

私はかつて、教えて!gooで、そのような質問者とやり取りしたことがあります。君が代には否定的な質問者でしたが、よく聞くうち、質問者は小学校当時、君が代を歌う雰囲気が体育館になかったこと、歌う前から、君が代に対する否定的な論を聞かされていたことがわかりました。現在君が代について否定的な人についても、実は君が代を歌う場で、この人のような体験をしてきたという初期体験をしている人も多いのではないか、と感じております。

私もいくつかの学校をを経験しましたが、校歌のほうが、よっぽど音楽的に「?」なものが多かったです。この校歌を、この子たちは、母校の宝物として、一生背負っていくのか。本当に私が、この校歌を子どもたちに馴染ませてよいのか、など。

…まだ上手に語ることは出来ませんが、もうそろそろ、本当に、曲の中身について語っていかなければいけませんね。でも、まだまだわき道から語っていくかも。すみません。
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やっぱ君が代3~いったりきたり~

2007-03-10 17:23:10 | 音楽
9月の裁判と、2月の判決が、矛盾するようでいて、実は同じことを言っている

と、
前回書いておきながら、そのことに全く触れていませんでした。
いえ、それほど立派なことを言おうとするわけではありませんし、何と言っても法律は専門外です。ただ、大まかな要旨を見れば、素人でもわかりそうなことだって、あるものです。

でも、その肝心なところを、なぜマスコミ、世論は確認しないのか…ということで。

1.9月の判決では、東京の教育委員会の「処分」に違憲性があることを述べています。簡単に言えば、「そこまで処分をやってしまっては、人権を守る意味でも、やりすぎだろう。」と。

2.一方2月の件では、「そんなことでそこまでの行動を起こして公共性をわきまえない言動は、正当とは認められない」と。

つまり、「君が代に異論があるからといって、公共の式典で演奏することを故意に拒んだり、政治的とも思える抗議活動を公の場で行ったりすることは正当とは認められないし、はなはだしいときは処分も考えられることだ。しかし、東京都が行っていた処分は、その意味では、妥当とは思えないほど厳しい処分と考えられる。」

大変に納得のいく2つの裁判じゃないですか。至極全うなことを言っているとしか思えません。

でも、対象が「君が代」であることもあり、マスコミにとってはどのようにでも曲解したり、あおったりする記事に仕立てることもできるものだったのでしょう。私も含め、みんな、見事に踊らされました。

で、ちょっと気になるのは東京地方裁です。すなわち、東京の教育委員会が定めている処罰の基準には、違法性があると言われたも同然だからです。

私も個人的に言わせてもらえば、違法性があると思っています。世論の多くが毛嫌いしている、「罰をつけての強制をしてまで、君が代を歌わせるというのは、ちょっとどうかな。」というやつです。

そうです。強制はみんな好きではない。私も嫌い。
本当は、歌っている児童生徒、保護者が「これは強制で歌っているんだなあ」と感じてしまっていたら、もう終わりなのです。その歌は、死んでしまっています。

じゃあ、強制までして法制化しなければならなかった後ろ側には、何があったのか。それを思うと、私は、怒りに肩が震える思いです。同業者、特に音楽関係の同業者には、万死に値する断罪をしたい。
君が代という、ひとつの音楽を死に追いやった重罪です。

では、いずれまた詳しく。
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やっぱ君が代2…本題へいけるのか?

2007-03-07 23:49:43 | 音楽
昨日は、初めて「コメント」をいただきました。
教えて!gooで初めてお礼をいただいたときのことを思い出します。なんだかうれしいですね。

さて。

昨日コメントをいただいたようなことが現場の学校で行われているとするならば、一部は、やりすぎですね。直立不動ぐらいは(個人的な価値観でいえば)気になりませんが、口の大きさは、「他の歌の指導のときにやってください」ですよね。

私が指導するとすれば、ポイントはいつも2つ。
①息継ぎの場所
「さざれ石の」は、一息にしないと、言葉が通じにくいので、「さざれ」「石の」と、息継ぎをしない。同じように、「むすまで」も、息継ぎをしない。もしもできるならば、「こけのむすまで」と一息。でも実際には難しい。

②テンポはやや速め
情感とかいろいろのたまう人がいますが、上に挙げたように、歌詞が、意味ある言葉として歌うことを目的にするならば、小学生にとって、標準的なテンポで君が代を歌うことは不可能です。息が続かないのです。ですから私は、他の人からすれば、「ちょっと軽いですね」と思われる感じの、速いテンポで演奏させます。

全校指導の場では、それ以上のことを要求したって徹底できるはずがないし、ネットで語られているいろんなことについて(私も散々語っていますが)全校の場で語るのは、ちょっとはばかられます。時間の問題もあるし。

まあ、そういうことです。

私は、一応音楽を指導してきた立場として、まずは君が代を、音楽的に見てどのようなものであるか、ある程度とらえておくことが、下地として最低条件だと思っております。

そうすると、君が代は、やはり、日本の国歌と宣言しても全く恥ずかしくない、かなり特徴のある音楽だということが言えると、私は考えてしまうのです。それはなぜか。この曲が生まれた時代と、その頃の紆余曲折がわかるにつれ、「なるほど、この曲に変わる国歌の代案を出すことは、少なくとも音楽的には、無理ではないのか」と思えてしまうのです。

誤解のないように言っておきますが、私は君が代を、音楽的に、必ずしも賛美しているわけではありません。しかし、今私たちが語る、ほとんどの「優れている」といわれる曲に比べれば、君が代は、それらを簡単に跳ねのけてしまうぐらいの音楽的な価値はあります。

…ふう。ようやく少し、本題に入れそうかな…?歌詞については、また次の機会に。
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