君が代の持つ、特異性と「結果的にそうなってしまった」希少価値については、時々断片的に語られる程度で、意外に触れられていないようです。
もともと私が君が代について少し詳しくなったのは、NHK教育で約10年前、故、団伊久磨さんがやっていた日本の西洋音楽史のような番組でたまたま「君が代」について特集をしていたのを見たからでもあります。この番組のすぐあとに亡くなっておられます。「3つの君が代」という内容の放送でした。
ちなみに団さんは、合唱曲「河口」などでよく知られています。「花の街」も代表曲です。(昭和24年)この曲には、戦争への深い反省、平和への力強い決意が美しさの中に込められており、団さん本人が、平和な国、日本を心から望んでいたひとりであることがよくわかります。
その団さんが「君が代」を語りました。実に興味深かったです。
関連する質疑として、私はhttp://oshiete1.goo.ne.jp/qa1992384.htmlのところで回答しております。ただ、同じ質問で回答した方が、http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tpnoma/のページを紹介してくださっています。(この中に、君が代についてのページが入っています)これが、まさに団さんがテレビで語った「君が代」の内容と、ほぼ一致します。
このページを理解するには、時間がかかるかもしれません。テレビ番組のように実際に演奏しているところもありませんし。でも、現在私たちの知っている君が代(2代目)が、決して簡単に作られたものではなかったことや、試行錯誤の後に生まれたものであることは、わかると思います。
「国の歌といえるような曲を作るべきだ」と海外からの進言を受け、フェントンが最初に作った君が代は明治3年の曲。コラール風で、メロディーはけっこうきれいですが、どうにも歌詞が乗らない。10年近くたった明治12年、林広守(実際の旋律は奥好義が作ったとも言われる)が、雅楽風の旋律で作った2代目君が代は、最初のスコアを見ると、まさに「雅楽」。エッケルト氏はこのメロディーラインに、何か感じるものがあったのでしょう。歌の出だしと終わりの部分に、あえてヨーロッパ風のハーモニーをつけないという思い切ったアレンジをします。
私はエッケルト氏が日本風の旋律に面くらい、つけたくてもハーモニーがつけられなかったのだと考えておりましたが、そうではなかったそうです。エッケルト氏にはこのメロディーの、日本独自の美意識が伝わったというのです。特に出だし、終わりの部分の特徴あるところにヨーロッパ音楽風の和音を入れるのはつまらないことだ、と語ったらしい。果たしてこの2代目君が代は、10年近く普及させようとしたものの不評で広まらなかった初代君が代とちがい、すんなりと広がっていったそうです。(もちろん時代の基盤は変わっていましたが、このままほうっておいても、初代君が代は浸透しなかったでしょう。)
3代目君が代は、他機関から国歌が生まれてくるのではわれらの不名誉だ、と、明治13年音楽取調掛(今の文部科学省)が作ったもの。イギリス作曲家ウェブによる賛美歌のメロディーに君が代の歌詞を載せ、さらに歌詞を付け足してあります。これも、歌詞のことを考えなければそれなりのメロディーなのですが、あまりにも言葉との相性が悪く、しかも歌詞が増やされている。当然、浸透はしなかったわけですね。
当時の日本人について私が敬服するのは、いくら押し付けのものを海外から与えられても、合わないものは残さず、好みのものは残す、といった取捨選択を、きちんとした感性を持っておこなっていたということです。
当時は日本にとってドレミ音楽黎明期。西洋音楽がどっと流れ込んできます。これを日本人はすんなりと受け入れていきます。でも、全部受け入れるわけではなく、好みのものだけを残していったのでしょう。そんな中、君が代のあのメロディーです。
和洋折衷。あの時代でないと作ることができなかった、日本とヨーロッパの融合音楽です。ただ合わせるだけでなく、それぞれの良さを互いに認め合い、作り出されたものです。日本の美意識とアイデンティティーがしっかりと守られ、洋楽と溶け合ったこの音楽。世界に唯一と、思い上がったことを言うつもりはありませんが、現在の私たちに、平成の今、これを越えるものを創れといわれても、そう簡単にはいかないことがお分かりいただけるでしょうか。君が代のフォーマットは、雅楽、日本音楽なのです。
もともと私が君が代について少し詳しくなったのは、NHK教育で約10年前、故、団伊久磨さんがやっていた日本の西洋音楽史のような番組でたまたま「君が代」について特集をしていたのを見たからでもあります。この番組のすぐあとに亡くなっておられます。「3つの君が代」という内容の放送でした。
ちなみに団さんは、合唱曲「河口」などでよく知られています。「花の街」も代表曲です。(昭和24年)この曲には、戦争への深い反省、平和への力強い決意が美しさの中に込められており、団さん本人が、平和な国、日本を心から望んでいたひとりであることがよくわかります。
その団さんが「君が代」を語りました。実に興味深かったです。
関連する質疑として、私はhttp://oshiete1.goo.ne.jp/qa1992384.htmlのところで回答しております。ただ、同じ質問で回答した方が、http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tpnoma/のページを紹介してくださっています。(この中に、君が代についてのページが入っています)これが、まさに団さんがテレビで語った「君が代」の内容と、ほぼ一致します。
このページを理解するには、時間がかかるかもしれません。テレビ番組のように実際に演奏しているところもありませんし。でも、現在私たちの知っている君が代(2代目)が、決して簡単に作られたものではなかったことや、試行錯誤の後に生まれたものであることは、わかると思います。
「国の歌といえるような曲を作るべきだ」と海外からの進言を受け、フェントンが最初に作った君が代は明治3年の曲。コラール風で、メロディーはけっこうきれいですが、どうにも歌詞が乗らない。10年近くたった明治12年、林広守(実際の旋律は奥好義が作ったとも言われる)が、雅楽風の旋律で作った2代目君が代は、最初のスコアを見ると、まさに「雅楽」。エッケルト氏はこのメロディーラインに、何か感じるものがあったのでしょう。歌の出だしと終わりの部分に、あえてヨーロッパ風のハーモニーをつけないという思い切ったアレンジをします。
私はエッケルト氏が日本風の旋律に面くらい、つけたくてもハーモニーがつけられなかったのだと考えておりましたが、そうではなかったそうです。エッケルト氏にはこのメロディーの、日本独自の美意識が伝わったというのです。特に出だし、終わりの部分の特徴あるところにヨーロッパ音楽風の和音を入れるのはつまらないことだ、と語ったらしい。果たしてこの2代目君が代は、10年近く普及させようとしたものの不評で広まらなかった初代君が代とちがい、すんなりと広がっていったそうです。(もちろん時代の基盤は変わっていましたが、このままほうっておいても、初代君が代は浸透しなかったでしょう。)
3代目君が代は、他機関から国歌が生まれてくるのではわれらの不名誉だ、と、明治13年音楽取調掛(今の文部科学省)が作ったもの。イギリス作曲家ウェブによる賛美歌のメロディーに君が代の歌詞を載せ、さらに歌詞を付け足してあります。これも、歌詞のことを考えなければそれなりのメロディーなのですが、あまりにも言葉との相性が悪く、しかも歌詞が増やされている。当然、浸透はしなかったわけですね。
当時の日本人について私が敬服するのは、いくら押し付けのものを海外から与えられても、合わないものは残さず、好みのものは残す、といった取捨選択を、きちんとした感性を持っておこなっていたということです。
当時は日本にとってドレミ音楽黎明期。西洋音楽がどっと流れ込んできます。これを日本人はすんなりと受け入れていきます。でも、全部受け入れるわけではなく、好みのものだけを残していったのでしょう。そんな中、君が代のあのメロディーです。
和洋折衷。あの時代でないと作ることができなかった、日本とヨーロッパの融合音楽です。ただ合わせるだけでなく、それぞれの良さを互いに認め合い、作り出されたものです。日本の美意識とアイデンティティーがしっかりと守られ、洋楽と溶け合ったこの音楽。世界に唯一と、思い上がったことを言うつもりはありませんが、現在の私たちに、平成の今、これを越えるものを創れといわれても、そう簡単にはいかないことがお分かりいただけるでしょうか。君が代のフォーマットは、雅楽、日本音楽なのです。