いろはに踊る

 シルバー社交ダンス風景・娘のエッセイ・心に留めた言葉を中心にキーボード上で気の向くままに踊ってみたい。

休学の心配

2005年10月18日 09時08分11秒 | 十八歳の思い出日記
 二月三日(火)曇り風強し 姉の日記(高校三年生)

 北風がびゅうびゅうふきまくり陽のてらないうすら寒い日。こんな寒い日に行
ったら風邪ひくよと言われ又欠席。実は、三年で卒業できるかどうか休学の心
配で私はいっぱいだ。
 弟(私)の耳が悪いので母と厚生病院へ午前中でかけた。父は、足がとても
此の頃疲れると言う。三人も病人がいてごたごたしていたら、卒業後もぶらぶ
らしてねばならぬような病状だったら早く治ると良い。
 町田先生へのお便り又今日も出せない!明日は必ずポストへ入れよう。
お腹が悪くなってしまったので顔面蒼白でまた一日病床につく。心げないね。

  追記 一週間ほど投稿を休みます。
コメント (3)
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苦悩する乙女の恋

2005年10月15日 09時02分02秒 | 十八歳の思い出日記
 二月二日(月)晴 姉の日記4(高校三年生)
 
 天気予報の小雪か一日小雨はうらぎられて小春日和。また朝の中が少し寒
かったので今日は登校を中止した。
始めて筆をもった。約一日かかって履歴書を完成した。書く前はとても不安だ
った。一枚目は手がふるえ字も力がなくちじまっていたが二枚目、三枚目には
自信がもて、ああ、私にもこのような力があったのか、嬉しかった。
 女学校でお習字の時間、いつも下手なものときめてしまった。貪って練習し
なかった。その時間は楽しみのないものであった。練習さえすればと、なにか
希望の湧く思いがする。
 賞罰浦和市長より成績優等賞、健康優良賞の受けられたあの頃の事、これ
があれば少しは光ってみえる。字は人間を一生の支配とする。自身と希望とが
私の心を満たせる。
 続いて町田先生へお便りをしたためる。何か私の心の中の思う真実の感情
が先生へ書き表せない。それは、先生をあまりに慕う気持ちがそうさせるのだ。
私に対する先生の思いを、私は安心して大海を抱くように隅から隅まで全部を
受け取ることができない。これは、私の性質の表れといえよう。これを論文家
は感情のやさしい女性型といい、厭世家は卑怯きわまる憎むべき感情だとの
のしる。弱者(私)は前者を無理に開こうとしても後者の暗い強い力にぐいぐ
い引かれて、遂に離れぬ自分の感情の流れに入れられて、自分に負けてしま
ったのである。
西山先生もおっしゃられた。「自分がこうしたら人はああ思いはしないかこう
思われはやしないか」と常に自分を主とせず他人を主として自分と言うものを
その他人に服従させている自分を自分以上に評価したいという卑劣な考え方
と話された。もう一度思いなおしてみよう。この感情が町田先生に対して
(卑劣とはあまりひどいから臆病といっておく)幾分か心あるのを私自らの中
に発見した。
 今日は履歴書、お便り、重荷が同時に下りて肩は軽くなったはずなのに……
やっぱり書き物はいけないのか背中が嫌に疲れてしまった。第二高女で須賀
さん達のHとさわぎまわった頃「Hって、始めね、背中がとってもつかれるん
ですってよ」
松村さんはなんでもないのに肩が背中がなんて、うそをいったり、町田先生は
細いのがお好きよ。やっぱり、あの乙女盛りの何も知らない「肺病」なんてい
うものに淳一の絵を連想させ、夢中でこの恐ろしい病鬼にあこがれていた頃が
一番楽しかった。その病の苦しさ、辛さなんていう事は考えなかったあの頃…
 水戸高女へ転校する際、サイン帖に須賀さんのサインと「Hniならぬよう
にお気を付け遊ばせ」とあったけ。あれをよんでどんなに泣きたいほどなりた
くなって、肺の病になるような弱い体じゃない。そして田舎へきて丸々肥り病
気の恋しくなるほど健康だった。それが夢だに想像しなかった。”肺浸潤”に
なってしまって、今の心境、思い出をたどる道は楽しい、淋しいだけのこのよ
うにひよろひよろとなって痩せてしまった私。淳一の病めるお姉様みたいなん
ていわれても、気の立つた感情をよけい焦せさすばかり、でなければ寂しく
悲しくなる。小関さんでなくても健康なのが幸せになりという事を今度こそ
感じる病期はない。
 ”バラのお姉様”よりお写真入りのお便り、まあなんてスマートな…慶応の
外国語科へ入るのに送る写真だそうだ。ロマンチックでいつもいつも私を愛撫
すろお便りの事を私はひそかに幸福と思っている。斎藤さんがスイートホーム
にお入りになって妊娠しているとか……世の変遷を思わせる。高橋さんのよう
でなく私は、結婚恐怖病だ。それは自分だけしっている事。お産の時、痔の人
は非常に困るという、考えると恐ろしい。
 郵便料金も二月十日から二円五十戦に値上げ、小出さんはどうしたかしら。
ほんとに身を亡ぼしてしまったか。
 畠から里芋をもってきたので久し振りに夜はけんちん汁でとてもおいしかっ
た。夜のお茶がとても消毒液のようなプーンと臭かったので何だか、毒殺事件
のあるこの世の中。みんなで鼻の元へやかんをあてたり、急須を持ち上げたり
大騒ぎしてしまった。
きのうのライスカレーもとてもおいしかった。きのうと今日、ご飯がおいしいの
でうれしい。明日こそ登校する意気でバンド通しをズボンにつけた。
 夕方、父に履歴書を二枚渡す。半紙を二枚折りにして書くものだといわれた。
折角治ったお腹が、けんちんの食べすぎか、あのお茶か、また下痢にもどって
しまった。苦しかった、あのお茶何だろう??
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姉の日記 3

2005年10月08日 17時20分22秒 | 十八歳の思い出日記
 二月一日(日)曇り
 十一時の汽車にて母と弟は石塚の畠へ行き、天気予報では今夜雨か小雪と
いっていたが寒い日。一日こたつに入ってラジオをきいたりして午前中を過ごし
てしまったが、午後からは明日の登校の準備に一生懸命にやった。
 新しいオーバーをきてみれば胸も肩もペチャンコに細くなってしまって形が悪
い。ずい分やせたものだ。手はきれいになったけれど、姉から羨ましがられたり
恨まれたり……。
 いつも重荷、私の肩にある。一つは町田先生へのお便りを出していない事。
二つめは履歴書を書く事、おっくうである。先生なんと思っていらっしやるだろ
か。でも必ずお手紙はあげます。
 夕方とっときのとっときのリンゴを姉が無性に食べたいというのでほおばった。
父より一枚でもよいから履歴書を明日書いておくようにと言われた。明日は学
校へ顔出しをしてみるつもりで準備をしたがお天気が……


  追記 昭和20年当時の私の兄弟は、長女・次女(思いで日記記述)・
    長男・次男(私)・三女・四女の六人兄弟だった。次女の姉は、今考
    えると肺結核だった。目が大きく美人で字がとても綺麗、これが高校
    三年生の字体かと思うほど達筆である。それは父親似である。小さい
    時の記憶はほとんど飛んでいるが、姉が残した日記でその当時の情景
    がおぼろげに思い出される。
     汽車に乗っての畑仕事。一つ思い出しました。早朝自転車に乗って
    よく馬糞集めをしたことを、肥料不足を補うためにである。
     町田先生は、恐らく姉が通う高校の先生だと思う。姉の淡い恋心に
    せつなさを感じている。
     手元には、矢絣の着物を着て撮った写真がある。いつまでも十八歳
    のままの姿で。

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姉の日記 2

2005年10月07日 18時26分00秒 | 十八歳の思い出日記
 一月三十一日(土)晴
 ○○銀行へ二百十円の××費を下ろしにいった。銀行内はどこも黒山。銀行
なんていった事のない私は、場所や数字がわからなくて転手古舞した。常識は
養わねば社会へでればいろいろ難問にぶつかることをしみじみ思った。
 かえりに長沢さん片倉さんに会った。マスクをしているのに「真蒼な顔をし
てるわよ・お元気でね」なんていわれてしまった。ほんとに今日のお天気で、
みんな汗をかいているのに青顔をしているのは私位。厳寒休暇も明日でおしま
いなのでみんな……。偶然筒井さんとお母さんにお会いした。私が歩いている
のをみてもう治ったのと筒井さんは嬉しそうだった。でも私は ”この時”程
孤独感を思ひさびしさにひたって侘しい思ひを感じた事はない。
 私の性質……それにつけても町田先生へ唯一の純情を捧げる事のでき得な
かった私は不孝者であったかもしれない。”両親”を得るよろこび否、さびし
さがさせた父母への懐郷心をしみじみ静かに味わった私の実感である。
 小筆十一円求める。病院へよって用紙を出してきた十二時頃病院もしんとし
て何かわびしい。乙女のやるせない思いとはこれをいふのか。
なにしろ○○銀行まで往復徒歩でとてもくたびれてお昼の食事もまずくて、
おかゆを一膳やっとの事でのどへとほした。八百健さんでリンゴを二個買った。
今年になってからでもリンゴは二百位食べたろう。
 せっかく姉が縫ってくれたモンペは股下が長くて切り下してやりなほした。
母とおそろいに妹のを縫ってる。母もモウロクしてきて、もんぺの股上を縫ふ
のを裾まで縫ってしまって、フフ・ハハ「おおやだ・あっしは」母はがっかり!
 電気が正確に配置されお勝手が非常に明るく便利になった。今度は雨がふ
っても風が吹いてもびくともしない。ずいぶん広くなった。お勝手は四畳半の
外に押入れ分の戸棚はあるし、土間は広く大島台の家よりは少し小さい位にな
った。しかし毎日の「インフレ台帳」、建築費、ヤミ買を全部ぬいてほんとの
配給で細々としたもの買って、今の家の経費は一月二万~三万!父の重い足
どりをきくのにその思う心。今日の電気屋の代だって千五百円とか…夜大工さ
ん千何百円…
 ほんとに父親の力の偉大さ、又責任感、泣きごとは子供にきかすまいと思っ
ていられる。私の父母、このような有難味は他にはあるまい。
 「二十の扉」柳や権太郎さんがいて非常に面白かった。「ジュゲム」「カミ
フウセン」「イロガミ・チヨがミ」


 
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姉の日記 1

2005年10月06日 09時56分37秒 | 十八歳の思い出日記
 一月三十日(金)曇り
 雲がむらがって晴れたり曇ったり寒いので雨戸をしめゆっくり母とこたつに
暖まった。夜は”ひらめ”病人扱いがかえって苦しく感じられる。父は男だから
こそ口には出さないが、私を心配してる気持ちはしみじみわかる。

 夕方六畳で一人でいたら景子あげようか。母はリンゴを買ってきて下さった。
おいしくて、体中一っぱいオレンヂの香りがみなぎったようだった。
父母の心配は一通りでないのに……

 弟(現在72歳)の職業について又私の就職について、夜みんなで話した。
”梅原屋”という大きなおろし漬物屋で両親ともいい人だし、どれが嫌だこれ
がいやだといってさまよっても、結局これがいいというのはどの仕事の内にも
秘められている。

 弟も一まずそこにきまった。何しろ、長男だから将来を考えると一番慎重に
思考すべきである。
 私のはやっぱり漬物会社の事務員(千二百円位)か西洋堂か、何しろ今から
頼んでおかないと卒業まぎわになってさわいでも駄目なので二・三枚履歴書を
書いておくようにいわれた。
このような就職問題は特に父親の力によるもので両親の健在をこの上なく幸福
に思った。男の力の偉大さだ!

 就職という事をもちだされて何となく心が落ち着かない。
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