高知の朝、ポポロ東宝の跡地にはホテルが。
このホテルから出ると、以前の面影はない。
細い路地には、高校のときのたまり場があった。
そこでは、いつも学校に行かないものが、タムロし、
いろんな遊びをしていた。

その薄汚れた路地を抜けると、明るい帯屋町商店街に抜ける。
しかし、以前のような明るさはない。
ドーナツ化現象である。
地方都市は、イオンでお買い物!の影響で、
中心部が過疎地となる。
中心地の小学校は閉校になった。
ポポロ東宝の地下にはデポーという喫茶があり、
そこは、高校時代の朝ごはん(モーニング)を食べる場所であった。
遅い出勤ならず、遅い登校であり、
よくも単位がとれたな、と不思議である。
また、よくも金があったなと、不思議である。
高知と岐阜は喫茶店文化である。
モーニングセットが充実し、
休みは必ず、モーニングという生活である。
高知の女性は、男性にかわって大黒柱?というよりは、
働きマンなので、土日は、食事は作らない人が多いことによる文化ともいわれているらしい。
その代表が皿鉢料理である。
大皿にデザートまでのせ(仕出し料理屋に頼み?)、そのあとは男性ともども、
飲む、つまり懐石だと、いちいち、料理をしたり、運んだりしないといけないので、
女性も男性も飲み続けることができるための料理なのである。
結婚式も懐石でなく、このさわち(皿鉢)料理。
新郎新婦そっちのけで、ほとんどが宴会になっている。
その人数は芸能人の結婚式なみの数である。
そんなことをエピソード記憶による回想をしながら、
デポーの代わりに、ドトールに入った。
どこのドトールも同じ味。
それが、今のニーズである。
安心、安全を追求した結果が、こう。
スタバに代表されるように、そこには自己意識が発生しない。
機械的な店員の対応(サービスは抜群)。
しかし、表情が、作り笑いが否めない。
そこまでしないと、サービス充実といえない、日本の未来は、少々心配だ。
アーケードを歩いていると皇帝発見。
こっちの喫茶にしておけばよかったと後悔。
とにかく、僕にとって喫茶(カフェ)は生活そのものであり、
それは、高校時代の一人で生活していたときの落ち着く場所であり、
音楽を聴く場所であり、
そして、パリで生活していたときの、人波を観察し、
ものを書く場である。
飲み屋の梯子ならず、カフェの梯子なんかあたりまえ。
奈良は極めて少ないのが実情だ。
以前に、東大寺などに実習巡回していたころも、それを感じた。
それだけ、家で食事をする習慣があるのだろう。
どちらかといえば、ファミレスは充実しているな。
昨日は、結局帰ってきて、疲労困憊なので、寝てしまった。
寝るということはすばらしいことを実感しつつ、
寝ると、寝たいという欲望がわく。
今も眠い。
今日は、奈良県理学療法士会の新人教育プログラム。
世界の理学療法について、WCPTについて、そして
自らの欧州留学体験記を話し、
必ずしも自分のみている世界が世界共通でないことを話した。
海をわたると、こころが大きくなるよ。
目先のメリット・デメリットのみ意識すると、
行動が機械になる。
メリットということばはあまり好きでない。
シャンプーはいいが・・・(すみません)
来年度からはオーストラリアの留学体験がある福本先生にお願いしたい。
もうこのテーマを話して、10年あまり。
情報も古くなっている。
最新の世界の理学療法でない。
古い情報から新しい情報へ。
地方士会にもどんどん留学しているメンツがほしいものだ。
来年度入学する院生と計画を打ち合わせ。
大学に戻ってきた。
院生研究費の書類を書き、
メールをチェックし、
ねむさ倍増。
今日は家に帰ることにします。