昨日は同僚の発表があり、
終日学会場で発表を聞きました。
セラピストとその周辺・関連では、
日本からは広島大学の船瀬先生のグループと
新潟医療福祉大学の大西先生のグループが参加していて、
近況などを報告しあいました。
Cohenのプレゼンでは研究グループのSharmaの研究成果が出てきて、
Old M1とNewM1の機能を細分化するための
実験パラダイムを強く紹介していました。
私も研究仲間にfMRIでのデータ記録を依頼して、
その後、介入研究に入りたいと思います。
Rothwellも指摘していたように
リハビリテーションの効果は依然として疑問が残るようで、
これは一律にデータをとるという研究手法に問題があるのかもしれない。
個々人でそしてICFの観点からみると、
少なからずともリハビリテーションの効果は経験則の視点からもあると思います。
しかしながら、いわゆる科学的手法の手続きに、
その変化はのらないわけです。
だからこそ、様々な研究手続き・バリエーションで、
そして様々な分野でリハビリを議論し、
いわゆる学際的(科学、社会、文化、芸術)視点での議論を
大きく展開する必要があると思います。
それだけ、どの分野でも活躍する人がいります。
しかしながら、そのようなグローバリゼーションの考え方は、
いわゆる狭義の医学からは漏れます。
医療の中に、あるいは医学的リハビリテーションに存在意義があると考える面々は、
可及的速やかに、リハビリの効果を徹底的に、
そして世界的に示していかないといけないでしょう。
20代の大学院生にはその決意を持ってもらいたいと思います。
今の臨床家のやっていることを守るためにも臨床研究は必要なのです。
残念ながら、日本は学校の乱立で、
いわゆる頭脳の結集とはいきません。
どうでもいい、自分の仕事を自分で非難している人間がいるわけですし、
臨床家は研究なんか必要ないと、
いまだに研究と臨床をかい離させて考えている人が多い、
さらには、科学を取り入れつつ、結果として宗教団体のように存在している
様々なメソドロジーの考え方。
これらが日本の文化に根付いているために、
つまり、プラセボのように根付いているために、
なかなか、ブレークスルーにはいかないようにも思えます。
私が生きている間には何も変わらないと、
懐疑的にならずに、少しずつでも変化を楽しめるように、
論文を書いていこうと思います。
その論文は臨床家を守るためにあるものですし、
Impact factorを増産するものではありません。
私たちの学問は臨床の中にあるものですから、
基礎研究であってもそれを常に意識しないといけません。
そして、新たな開発的なものも視野に入れていなかいといけません。
率直にいって、脳損傷のリハはまだまだです。
そして脳はわからないことが多々あります。
だからこそ、ほかの領域に比べて魅力的なのです。
無知の知。
まさに脳損傷のリハにはそれが含まれます。
脳卒中リハをしているのに、
脳のことをしらずして、テクニックに走ったり、
末梢に対する物理的刺激ばかり考えても、
結局は時代を変えていくには至らないと思うのです。
よく、若い臨床家、そして臨床研究をして、
学位論文を書こうとしている人にそう思います。
光があたっているところばかりに、目がいき、
光が見えない、つまり介入によってどのような変化がおこっているのか、
メカニズムについてはまったくの無知。
だからこそ、結局はどのようなRCTの研究であれ、
それが使われず、闇に葬られるのです。
自分のやっている治療のメカニズムをきちんと考察できれば、
ポジティブな結果が出なかったときに、
すぐさま方向を転換できるのだと思います。
これは研究も臨床もまさに等価であることを表しています。
さて、思いつくままに書いていると話がそれてしまいます。
紀行にはならずです。
また、次回に。
今日のアリタリアで帰国の途につきます。
終日学会場で発表を聞きました。
セラピストとその周辺・関連では、
日本からは広島大学の船瀬先生のグループと
新潟医療福祉大学の大西先生のグループが参加していて、
近況などを報告しあいました。
Cohenのプレゼンでは研究グループのSharmaの研究成果が出てきて、
Old M1とNewM1の機能を細分化するための
実験パラダイムを強く紹介していました。
私も研究仲間にfMRIでのデータ記録を依頼して、
その後、介入研究に入りたいと思います。
Rothwellも指摘していたように
リハビリテーションの効果は依然として疑問が残るようで、
これは一律にデータをとるという研究手法に問題があるのかもしれない。
個々人でそしてICFの観点からみると、
少なからずともリハビリテーションの効果は経験則の視点からもあると思います。
しかしながら、いわゆる科学的手法の手続きに、
その変化はのらないわけです。
だからこそ、様々な研究手続き・バリエーションで、
そして様々な分野でリハビリを議論し、
いわゆる学際的(科学、社会、文化、芸術)視点での議論を
大きく展開する必要があると思います。
それだけ、どの分野でも活躍する人がいります。
しかしながら、そのようなグローバリゼーションの考え方は、
いわゆる狭義の医学からは漏れます。
医療の中に、あるいは医学的リハビリテーションに存在意義があると考える面々は、
可及的速やかに、リハビリの効果を徹底的に、
そして世界的に示していかないといけないでしょう。
20代の大学院生にはその決意を持ってもらいたいと思います。
今の臨床家のやっていることを守るためにも臨床研究は必要なのです。
残念ながら、日本は学校の乱立で、
いわゆる頭脳の結集とはいきません。
どうでもいい、自分の仕事を自分で非難している人間がいるわけですし、
臨床家は研究なんか必要ないと、
いまだに研究と臨床をかい離させて考えている人が多い、
さらには、科学を取り入れつつ、結果として宗教団体のように存在している
様々なメソドロジーの考え方。
これらが日本の文化に根付いているために、
つまり、プラセボのように根付いているために、
なかなか、ブレークスルーにはいかないようにも思えます。
私が生きている間には何も変わらないと、
懐疑的にならずに、少しずつでも変化を楽しめるように、
論文を書いていこうと思います。
その論文は臨床家を守るためにあるものですし、
Impact factorを増産するものではありません。
私たちの学問は臨床の中にあるものですから、
基礎研究であってもそれを常に意識しないといけません。
そして、新たな開発的なものも視野に入れていなかいといけません。
率直にいって、脳損傷のリハはまだまだです。
そして脳はわからないことが多々あります。
だからこそ、ほかの領域に比べて魅力的なのです。
無知の知。
まさに脳損傷のリハにはそれが含まれます。
脳卒中リハをしているのに、
脳のことをしらずして、テクニックに走ったり、
末梢に対する物理的刺激ばかり考えても、
結局は時代を変えていくには至らないと思うのです。
よく、若い臨床家、そして臨床研究をして、
学位論文を書こうとしている人にそう思います。
光があたっているところばかりに、目がいき、
光が見えない、つまり介入によってどのような変化がおこっているのか、
メカニズムについてはまったくの無知。
だからこそ、結局はどのようなRCTの研究であれ、
それが使われず、闇に葬られるのです。
自分のやっている治療のメカニズムをきちんと考察できれば、
ポジティブな結果が出なかったときに、
すぐさま方向を転換できるのだと思います。
これは研究も臨床もまさに等価であることを表しています。
さて、思いつくままに書いていると話がそれてしまいます。
紀行にはならずです。
また、次回に。
今日のアリタリアで帰国の途につきます。