I’m happy. 無事に330名の方々を大学にお迎えでき、嬉しく、そして感謝の念にたえません。夕暮れの帰り道、一人で歩行者専用道路(かつらぎの道)を歩いていると、脳がデフォルト化され、一人称に幸せだなあ、と思った次第です。
先日のfacebookに「親切心は伝染する」という記事を書いたとき、畿央大学の建学の精神「徳をのばす」ということに触れました。他に2つあるのですが、その1つが「知をみがく」というものです。
今日、無事にリニューアルしたニューロリハビリテーションセミナー機能編Aを終えることができたわけすが、皆様を迎えることで、いつもながらとても優しい気持ちになることができます。そして、私たちのチームワークがこれを通じてなお一層よくなります(肌で感じます)。だから、私たちの方が皆さんにお礼を言わせてもらわなければなりません。セミナー(受講者の方々の参加)を通じて仲間が同じ方向をみるというプロセスを与えてくれるわけですから。
さて、セミナーはこれまでの研究から、いわゆる「知」を紹介したわけですが、私ども大学の建学の精神では、それは「みがく」という動詞によって文が形成されています。しかしながら、知は私自身の中にあります。だから私自身の一人の力だけでは、それをみがくことができません。知は他人(教え、書物や文献も含める;他人が書いた、残したもの)と相互作用する(受け身ではありません)からこそ、磨かれていくのです。私はよく喩えに「川の石ころ」をあげますが、上流で鋭角に切り取られた石は、川の流れに従い、他の石と相互作用(切磋琢磨というべきか、ぶつかりあうというべきか、触れ合うというべきか、手当されるというべきか)することでしたいに互いに尖った部分がとれてきます。知をみがくということは、このような他者と相互作用するプロセスによって、険がとれる、というプロセスを示しているのではないかと思うのです。
つまり、険をとって「優しさ」を身につけることこそが、「知性」を身につけるということであり、人間が持つ知性とは、実は「優しさ」ではないかと思ったりもしています。優しさがあるからこそ、教育がある。優しさがあるからこそ、良いもの(文化、技術、科学)を伝承しようという意識が生まれる、というように。
知性の本体は優しさ、だから互いに同じ方向に向けて、時と徳という川に流されていけばよいのではないかと思っています。それに逆流する必要もないし、無理に個性や創造性をつくる必要もないわけです。そして逆流しようとしても、しだいに流され(戻され)ることで険がとれ、知性をもった大人になるわけです。だから、「待つこと」。愛は待つことができるかどうか、なわけです。子供の成長を親が時間をかけて見守ることができるように。
戦時中の人々はメールもない、生死もわからない、けれども、そこには愛があり待ち続けることができたわけで。愛があれば待てる。自分の成長も他人の成長も待ち続けることができるし、私たちの仕事のよさについても待てることができる。だから、ゆっくりと成長すればよいのではないでしょうか!?
死ぬ前に、I was happyと思えるように。
本セミナーの資料(図ばかりを載せるスタイル)は、実は6年前のこの時期に亡くなった天国にいる恩師の受け売りです(私はただ伝承しているだけにすぎません)。いつも何も言わずに私を見守ってくれました。私に書を与え、それによって知を磨いてくれたわけです。6年前に書いたこの幼い文章を読む限り、この6年、私は関係する方々によって、おそらくこの時期に比べ「知が磨かれました(優しさを獲得しました)」。だいぶ近づけたのではないかと思っています。もう少しで、山を降りはじめることができるかもしれません。良き仲間・後輩に恵まれてきましたので。
http://blog.goo.ne.jp/ss…/e/cc1c4f4ee29796c306b5735e7e11ae31
先日のfacebookに「親切心は伝染する」という記事を書いたとき、畿央大学の建学の精神「徳をのばす」ということに触れました。他に2つあるのですが、その1つが「知をみがく」というものです。
今日、無事にリニューアルしたニューロリハビリテーションセミナー機能編Aを終えることができたわけすが、皆様を迎えることで、いつもながらとても優しい気持ちになることができます。そして、私たちのチームワークがこれを通じてなお一層よくなります(肌で感じます)。だから、私たちの方が皆さんにお礼を言わせてもらわなければなりません。セミナー(受講者の方々の参加)を通じて仲間が同じ方向をみるというプロセスを与えてくれるわけですから。
さて、セミナーはこれまでの研究から、いわゆる「知」を紹介したわけですが、私ども大学の建学の精神では、それは「みがく」という動詞によって文が形成されています。しかしながら、知は私自身の中にあります。だから私自身の一人の力だけでは、それをみがくことができません。知は他人(教え、書物や文献も含める;他人が書いた、残したもの)と相互作用する(受け身ではありません)からこそ、磨かれていくのです。私はよく喩えに「川の石ころ」をあげますが、上流で鋭角に切り取られた石は、川の流れに従い、他の石と相互作用(切磋琢磨というべきか、ぶつかりあうというべきか、触れ合うというべきか、手当されるというべきか)することでしたいに互いに尖った部分がとれてきます。知をみがくということは、このような他者と相互作用するプロセスによって、険がとれる、というプロセスを示しているのではないかと思うのです。
つまり、険をとって「優しさ」を身につけることこそが、「知性」を身につけるということであり、人間が持つ知性とは、実は「優しさ」ではないかと思ったりもしています。優しさがあるからこそ、教育がある。優しさがあるからこそ、良いもの(文化、技術、科学)を伝承しようという意識が生まれる、というように。
知性の本体は優しさ、だから互いに同じ方向に向けて、時と徳という川に流されていけばよいのではないかと思っています。それに逆流する必要もないし、無理に個性や創造性をつくる必要もないわけです。そして逆流しようとしても、しだいに流され(戻され)ることで険がとれ、知性をもった大人になるわけです。だから、「待つこと」。愛は待つことができるかどうか、なわけです。子供の成長を親が時間をかけて見守ることができるように。
戦時中の人々はメールもない、生死もわからない、けれども、そこには愛があり待ち続けることができたわけで。愛があれば待てる。自分の成長も他人の成長も待ち続けることができるし、私たちの仕事のよさについても待てることができる。だから、ゆっくりと成長すればよいのではないでしょうか!?
死ぬ前に、I was happyと思えるように。
本セミナーの資料(図ばかりを載せるスタイル)は、実は6年前のこの時期に亡くなった天国にいる恩師の受け売りです(私はただ伝承しているだけにすぎません)。いつも何も言わずに私を見守ってくれました。私に書を与え、それによって知を磨いてくれたわけです。6年前に書いたこの幼い文章を読む限り、この6年、私は関係する方々によって、おそらくこの時期に比べ「知が磨かれました(優しさを獲得しました)」。だいぶ近づけたのではないかと思っています。もう少しで、山を降りはじめることができるかもしれません。良き仲間・後輩に恵まれてきましたので。
http://blog.goo.ne.jp/ss…/e/cc1c4f4ee29796c306b5735e7e11ae31