森岡 周のブログ

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初心忘れべからず

2010年04月04日 23時36分26秒 | 脳講座
 私たちの脳のなかには今までの経験が蓄積されています。しかしながら、記憶として再生できるのはすべてではありません。そのほとんどが忘却されていきます。忘れたくない意味を忘れてしまったり、忘れたい出来事を忘れなかったり、記憶はその時々の情動によって彩られてしまいます。さらに、記憶が予定といった先々に向かえば、今起こっている出来事すらも認識できなくなってしまいます。

 連合野が発達していない時期は、記憶の蓄積がなかなか難しいのですが、その典型的な出来事が「歩けた(歩いた)」というシーンです。「自転車に乗れた」というシーンは映像化される人も多いと思いますが、「歩いたという瞬間」というシーンはおそらくすべての人でリアルには映像化されないでしょう。おそらく、映像化されたとしてもそれは後に誰かからの聞き伝え、あるいは写真やビデオから記憶の蓄積がされ、それを再生したものだと思います。

 もし、その時の感覚が残っていれば、私たちの仕事にとってどのような影響を及ぼすのだろうと思うと、ワクワクすると同時に、とても残念な気持ちにもなります。子供のときの身体経験を大人の脳でのぞいてみたいという気持ちによくなります。私たち人は歩いて当たり前とついつい思ってしまいますが、歩くというのは、とてつもない経験の蓄積であると私は思うのです。赤ちゃんの時に経験した「歩けた」という瞬間の記憶やそのプロセスの記憶は大人の脳には全くありません。そして誰かから「あなた歩きなさい」とか指示を受けるわけでもありません。自らの動きから、その経験をつくっていくのです。赤ちゃんには言語を用いて論理的にプロセスを分析することはできません。自分自身の身体内感を頼りにして、歩くための経験を構築していきます。その際、シナプスはつながったり、消去されたり・・・と。立つこと、歩くことは人が進化の過程で身につけ、遺伝子として私たち現代人にも伝えられてきましたが、その立つ、歩くの経験は、自ら自身の経験をつないできた、まぎれもなく環境におけるプロセスなのです。いつしか私たちは、身体内感を通して歩いた(歩けた)経験といった初心を忘れ、知らぬ間に三人称言語である「歩行は人間にとって当たり前のもの」そして「歩けて当たり前」と思うようになってしまいました。そして、親が子どもの「歩き始め」を待つように、くしくも卒中などで倒れた人たちの回復をゆっくりとした気持ちで待てなくなってしまいました。

 歩くという経験は、外界からだけの刺激では構築できないと思います。一方、リハビリテーションにおいては、安易に「カンニング」という手法、すなわち、内感が起こらないからといって、外部からのフィードバック情報をすぐさま与えるように、セラピストも患者さんも待てなくなりました。内感は経験の構築です。すぐさま生まれるものでもありません。待てない心、急ぐ心が、実は脳内のネットワークを単純なものにしているのかもしれません。

 片麻痺は感覚障害ではなく知覚障害です。なぜなら、末梢の受容器の問題というよりは、脳内の問題ですから。だとすれば、安直なカンニング的フィードバックでなく、患者さん自らが感じ取ることができるように援助することがとても大切だと思うのです。これは学生教育も同じことだといつも思います。本人の中で生まれるもの、それを共同注意することが、二人称の関係ですし、私が常日頃言っている「ロマンティックリハビリテーション」というわけです。


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