◇個人的なこと(今後の生き方など)◇
今日はまた、大きな心境の変化がありまして、その心境の変化について書かせて頂きたいと思います。
その心境の変化とは、悟り等ではなく、生き方に関する心持ちの変化なのです。
今日の午前中までは、解脱の悟りを得た自分にとって、もう何も問題は存在しないのだから、薄くなってしまい余り機能しなくなった自我をわざわざ働かせて、自分の考えや行為について判断や選択をしなくとも、自然に起こってくる流れに身を任せていればいいんだと思っていたのです。
だって、何も問題は無い上、どんな考えや行為もすべて等価であり違いが無く、考えや行為を選択すること自体に意味がありませんから。
それで、これからも流れに身を任せて生きて行こう、あるいは生きていくしかないなあ、と思っていたのです。
またそれが、解脱の悟りを得た人の当たり前の生き方であり、姿なんだと思っていたのです。
原始仏典に記録されている解脱の悟りを得た人たちの例でも、その多くが、家族や世俗から離れ、一人で暮らすか、悟り系の組織の中に身を寄せて生活していたようであり、このことからも、解脱の悟りを得た人は、自然と日常的な執着から解放されていくというか、そう成らざるを得ないのだと思っていました。
それが、今日の昼頃、私のブログを訪問下さる佐藤さんと仰る方とメールでやり取りしていたときに、流れに身を任せる生き方とは違う生き方もあるんだということが分かったんです。
薄くなりながらもまだ残っている自我を、極限まで駆使して、敢えて何かに拘って生きていく道もあるんだということが分かったんです。
流れに任せて生きながら、執着を手放していくという生き方ではない、敢えて自分が拘りたいものに徹底的に執着して生きていく道もあるんだということが分かったんです。
解脱の悟りを得た者が残り自我を最大限に駆使して生きていくなど、愚かで馬鹿げたことであり、意味の無いことだということはよく分かっています(そもそも「意味」も幻想であり、無いものですし、笑)。
また、自我が薄くなってますから、自分を取り巻く世界の展開は残りカルマが主導権を握っていて、がんばって自我を駆使したところで、どれほどのことも出来ないのかも知れないということも分かっています。
それでも、私は、敢えて拘ってみようと思うのです。
残りカルマが起こす展開の流れに徹底的に抗ってみようと思うのです。
今日は、やっとこれからの自分の生きる道が見えた気がしました。
まずは、家族と一緒にこの社会の中で生きていく道に徹底的に拘ってみようと思っています。
そして、それをやりながら、悟りを伝えるということを一生をかけてやっていこうと思っています。
この社会の中で生きていくため、近いうちに何か仕事を見つけて働こうとも思っています。
もう一度、持ち前の折れない心と、根性でやってみようと思っています(やっぱり私は、「根性」が好きみたいです、(^o^))。
いまは、自分や自分の周りがこれからどうなっていくのか、また自分に何がやれるのか、とても楽しみです。(*^_^*)
私や家族の状況については、またご報告させていただきますね。(^^)
以下、おまけです。
私はこれまで、お釈迦さまが解脱の悟りを得た後の生き方について疑問に思っていたところがあったのですが、今日はその疑問も晴れました。
私は、解脱の悟りを得たお釈迦さまが、どうしてあれほどまでの過酷な伝道生活を選択することになったのか、ずっと疑問だったのです。
解脱の悟りを得た人の人生は残りカルマが主導しているのだとしても、お釈迦さまの伝道生活の過酷さというか、お釈迦さまの伝道への凄まじいまでの執着ぶりを考えると、それを残りカルマによるものであると解釈してしまうことに、何となく違和感を感じていたのです。
その違和感というか疑問が、今日晴れた気がしたのです(もちろん、本当のところはどうか分かりませんが)。
おそらく、お釈迦さまは、薄くなった自身の自我を極限まで駆使して、悟りの伝道にとことん拘ったのです。
それはそれは凄まじい、伝道に対する強い決意があったのです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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今日はまた、大きな心境の変化がありまして、その心境の変化について書かせて頂きたいと思います。
その心境の変化とは、悟り等ではなく、生き方に関する心持ちの変化なのです。
今日の午前中までは、解脱の悟りを得た自分にとって、もう何も問題は存在しないのだから、薄くなってしまい余り機能しなくなった自我をわざわざ働かせて、自分の考えや行為について判断や選択をしなくとも、自然に起こってくる流れに身を任せていればいいんだと思っていたのです。
だって、何も問題は無い上、どんな考えや行為もすべて等価であり違いが無く、考えや行為を選択すること自体に意味がありませんから。
それで、これからも流れに身を任せて生きて行こう、あるいは生きていくしかないなあ、と思っていたのです。
またそれが、解脱の悟りを得た人の当たり前の生き方であり、姿なんだと思っていたのです。
原始仏典に記録されている解脱の悟りを得た人たちの例でも、その多くが、家族や世俗から離れ、一人で暮らすか、悟り系の組織の中に身を寄せて生活していたようであり、このことからも、解脱の悟りを得た人は、自然と日常的な執着から解放されていくというか、そう成らざるを得ないのだと思っていました。
それが、今日の昼頃、私のブログを訪問下さる佐藤さんと仰る方とメールでやり取りしていたときに、流れに身を任せる生き方とは違う生き方もあるんだということが分かったんです。
薄くなりながらもまだ残っている自我を、極限まで駆使して、敢えて何かに拘って生きていく道もあるんだということが分かったんです。
流れに任せて生きながら、執着を手放していくという生き方ではない、敢えて自分が拘りたいものに徹底的に執着して生きていく道もあるんだということが分かったんです。
解脱の悟りを得た者が残り自我を最大限に駆使して生きていくなど、愚かで馬鹿げたことであり、意味の無いことだということはよく分かっています(そもそも「意味」も幻想であり、無いものですし、笑)。
また、自我が薄くなってますから、自分を取り巻く世界の展開は残りカルマが主導権を握っていて、がんばって自我を駆使したところで、どれほどのことも出来ないのかも知れないということも分かっています。
それでも、私は、敢えて拘ってみようと思うのです。
残りカルマが起こす展開の流れに徹底的に抗ってみようと思うのです。
今日は、やっとこれからの自分の生きる道が見えた気がしました。
まずは、家族と一緒にこの社会の中で生きていく道に徹底的に拘ってみようと思っています。
そして、それをやりながら、悟りを伝えるということを一生をかけてやっていこうと思っています。
この社会の中で生きていくため、近いうちに何か仕事を見つけて働こうとも思っています。
もう一度、持ち前の折れない心と、根性でやってみようと思っています(やっぱり私は、「根性」が好きみたいです、(^o^))。
いまは、自分や自分の周りがこれからどうなっていくのか、また自分に何がやれるのか、とても楽しみです。(*^_^*)
私や家族の状況については、またご報告させていただきますね。(^^)
以下、おまけです。
私はこれまで、お釈迦さまが解脱の悟りを得た後の生き方について疑問に思っていたところがあったのですが、今日はその疑問も晴れました。
私は、解脱の悟りを得たお釈迦さまが、どうしてあれほどまでの過酷な伝道生活を選択することになったのか、ずっと疑問だったのです。
解脱の悟りを得た人の人生は残りカルマが主導しているのだとしても、お釈迦さまの伝道生活の過酷さというか、お釈迦さまの伝道への凄まじいまでの執着ぶりを考えると、それを残りカルマによるものであると解釈してしまうことに、何となく違和感を感じていたのです。
その違和感というか疑問が、今日晴れた気がしたのです(もちろん、本当のところはどうか分かりませんが)。
おそらく、お釈迦さまは、薄くなった自身の自我を極限まで駆使して、悟りの伝道にとことん拘ったのです。
それはそれは凄まじい、伝道に対する強い決意があったのです。
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