私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

どうして自分はそれをするのか

2015年04月13日 14時41分11秒 | 悟り
◇どうして自分はそれをするのか◇

多くの方々は、自分自身の行為について余りに無自覚です。
どうして自分がそれをしているのか、全くと言っていい程自覚がありません。

そのような方々は、自分がやっている行為について、いつも何かのせいにします。
本当は自分はやりたくないのだけど、それをやらないと大変なことになりそうだからしょうがなくやるんだ、とか。
やらなきゃいけないからやるんだ、とか。
やるのが当然だからやるんだ、とか。
みんなやってるから自分もやるんだ、とか。
誰かにやれと言われたからやるんだ、とか。

それが嫌なら、今すぐやめればいいんです。
学校も、仕事も、家族も、生きることだって、嫌なら今すぐやめたらいいんです。
やめたって何一つ問題なんてありません。
ほっぽり出せばいいんです。

でも、実際にはやめられないでそれをやってしまう。
これが多くの現実です。

どうしてやめられないのでしょう?
それが嫌なのでしょ?

どうしてもやめられないでそれをやっている自分自身に意識を向け、自分自身をしっかり観てください。

何か気づきませんか?


ある方は、こうあるべきとか、これが正しい等の固定観念に縛られ、ただ盲目的にそれをやっている自らの姿に気づくかもしれません。

またある方は、何かを失うことや、何かが変わってしまうことを恐れる余り、何かを守ろうとして衝動的にそれをやっている自らの姿に気づくかもしれません。

またある方は、自分がそれを嫌々やっていると思っていたが、それは表面的なことで、本当は自分がまさにそれをやりたくてやっていることに気づくかもしれません。

あるいは、さらに他の気づきが生じる方もおられるかもしれません。


あなたは、どうしてその行為をやっているのですか?


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読んで頂いてありがとうございました。

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涅槃体験の効用など

2015年04月13日 09時23分24秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇涅槃体験の効用など◇

先日「涅槃を体験する方法」という記事を書きましたが、今日はその体験の効用などについて書いてみたいと思います。

先日の記事の中でも書きましたが、基本的には、涅槃の体験は他の禅定体験と同様に、それ自体は悟りとは関係がなく、それを体験したからといって悟れる訳ではありません。
しかし、全く何の役にも立たないという訳ではなく、人によっては悟りを進める上で大変役に立ちます。
今日は、どのような点でその体験が役に立つのかを書いてみたいと思います。

私は、その体験には主に二つの効用がると思っています。
一つ目の効用として、一切は幻であるという理解の助けになります。
悟りの階梯を進み、「観るものは観られるもの」の悟りである大悟まで至り、さらに進んでいくと、私とは意識、あるいは意識の連鎖そのものであるという理解が生じます。
ここまで来ると、その意識であると言っているものも幻だろうということは一応は理解できているのだろうと思うのですが、それがどこまで腑に落ちているのかというとちょっと怪しいというか、まだ少しモヤモヤとした曖昧なところが残っている人もいるのではないかと思うのです(私(慧空)自身、そうでした)。

それが、涅槃を体験することで、私そのものである意識も幻であることが腑に落ちるんです(私の場合は腑に落ちました)。
どういう具合に腑に落ちるのかと言いますと、私は意識そもものだという理解が得られている人は、意識である私がこの世界そのものだと理解しているはずなのです。
そのような理解を得ている人が、涅槃に落ちると、意識が完全に断絶しますから、それと同時に世界も完全に消失する訳なのです。
それを目の当たりすると、否応無しに、一切が幻であるということが附に落ちてしまうのです。
もちろん、涅槃に落ちて意識が断絶しているときは、自分の意識が断絶していることも、世界が消失していることも認識できません。
涅槃から通常の意識に戻って来たときに、それを認識するのです。

この一つ目の効用と関連して、人によっては涅槃の体験を切っ掛けに大悟を得る方がいるのだろうと思っています。
どういうことかと言いますと、大悟を得る直前の人は、既に大分思考が抑制され、意識の集中が進んでいます。
そういう人が涅槃に落ち、涅槃から通常の意識に戻ってくるときは、高い意識の集中を保った状態で通常の意識に戻ってきます。
涅槃から通常の意識の戻ってくるときは、五感の認識(音の認識が多いです)に対する認識に伴って戻ってくるときが多いのですが、そのような意識の集中が高い人は、涅槃から戻って来た瞬間に、自分の意識が音そのもの、あるいは音に対する認識そのものであることを実感し、それに気づくことがあるのです。

余談ですが、大悟は、このような涅槃の体験に限らず、高い意識の集中が生じているときに、ストンとその理解が生じることがあります。
例えば、瞑想や座禅中に、何かの音を聞いて、あるいは何かを見て、その音や対象と自分の意識の統合(主客の統合)を実感し、理解するという体験例は、以前から複数あるようです。

二つ目の効用としては、その体験が一切皆苦に対する気づきの助けになることです。
涅槃に落ちているときは、意識が完全に断絶していますから、世界もそれに対する認識もない訳です。
煩わされるものが一切無い訳です。
それに対し、通常の意識に戻ってくると、私という自我が起こり、この世界で起こる現象に付き合わされ、引きづり回される訳です。
そして、自分でも気づかない知らず知らずのうちに、いつもの状態と涅槃とを比べてしまうのです。
例えどんなに素晴らしい現象が起きようと、一切何も無い涅槃に比べれば煩わしく思えてしまうのです。

そのような人は、究極に覚めた目で世界を観るようになっていきます。
そして、どのような現象も一切苦であるということを理解することになります。

ただし、涅槃の体験は効用ばかりではありせん。
それはちゃんと他の影響ももたらします。

その他の影響とは、例えば涅槃に対する囚われ(執着)です。
中には、涅槃を究極で絶対的なものだと思い込んでしまう人もいるのだろうと思います。
また、涅槃に執着する余り、涅槃を求め、涅槃に入り浸る人もいるのだろうと思います。

ここで、また自覚が効力を発揮します。
涅槃もまた、私の考えであり、幻なのです。
ですから、涅槃にも囚われないようにして頂きたいのです。

涅槃を知り、苦を知り、その苦に対する反応として生じている自らの衝動を知ります。
そこまで知れば、終わります。


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読んで頂いてありがとうございました。

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