◇本心に生きる◇
本心に生きるとは、自分の気持ちに正直に生きるということです。
私はこれこそが悟りへ向かう本筋だろうと考えています。
しかし、それがなかなか難しいようです。
なぜなら、そのような生き方は往々にしてバカ正直なほど愚直なものだからです。
楽をしたいという自分の表面的な欲や賢さが邪魔をするのです。
表面的に楽な方に流されてしまうのです。
また、小賢しい考えが先回りして、本心からでる考えや衝動を遮ってしまうのです。
そのように上滑ってばかりいるのではなく、一度立ち止まり、自分は本当はどうしたいのか、何が自分の本心なのか、よくよく考えてみて頂きたいと思います。
楽をすることや、得をすることが本当に自分の本心なのか、自分に問いかけて頂きたいと思います。
それで本当に納得できるのか、納得しているのか、誤魔化してないか、確かめて頂きたいと思います。
改めて「本心」と言うと、本心が何か大きな夢を叶えることだったり、非日常的なもののように思えてしまうかもしれませんが、それは誤解です。
本心は極めて日常的なものであり、日常のあらゆる場面でいつもあなたの内面にあります。
自分の素直な気持ちに気づき、それに向き合うだけでいいのです。
難しくしているのは、楽をしたい(苦しみたくない)、得をしたい(損をしたくない)という少し強すぎるあなたの思いのせいなのです。
実際には、本心に気づいていても、そのようには行かないことの方が多いのだろうと思います。
上手く行かなくてもいいのです。
本心に対して精一杯取り組んだかどうか、納得できたかどうかが大切なのです。
日々そのように生きて頂きたいと思います。
そうすれば、人生に何か大きな課題がある方はその課題に取り組むことになっていくと思います。
また、悟りと縁がある方は自ずとそのようになっていくのだろうと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
本心に生きるとは、自分の気持ちに正直に生きるということです。
私はこれこそが悟りへ向かう本筋だろうと考えています。
しかし、それがなかなか難しいようです。
なぜなら、そのような生き方は往々にしてバカ正直なほど愚直なものだからです。
楽をしたいという自分の表面的な欲や賢さが邪魔をするのです。
表面的に楽な方に流されてしまうのです。
また、小賢しい考えが先回りして、本心からでる考えや衝動を遮ってしまうのです。
そのように上滑ってばかりいるのではなく、一度立ち止まり、自分は本当はどうしたいのか、何が自分の本心なのか、よくよく考えてみて頂きたいと思います。
楽をすることや、得をすることが本当に自分の本心なのか、自分に問いかけて頂きたいと思います。
それで本当に納得できるのか、納得しているのか、誤魔化してないか、確かめて頂きたいと思います。
改めて「本心」と言うと、本心が何か大きな夢を叶えることだったり、非日常的なもののように思えてしまうかもしれませんが、それは誤解です。
本心は極めて日常的なものであり、日常のあらゆる場面でいつもあなたの内面にあります。
自分の素直な気持ちに気づき、それに向き合うだけでいいのです。
難しくしているのは、楽をしたい(苦しみたくない)、得をしたい(損をしたくない)という少し強すぎるあなたの思いのせいなのです。
実際には、本心に気づいていても、そのようには行かないことの方が多いのだろうと思います。
上手く行かなくてもいいのです。
本心に対して精一杯取り組んだかどうか、納得できたかどうかが大切なのです。
日々そのように生きて頂きたいと思います。
そうすれば、人生に何か大きな課題がある方はその課題に取り組むことになっていくと思います。
また、悟りと縁がある方は自ずとそのようになっていくのだろうと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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読んで頂いてありがとうございました。
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me:私が・努力
いえ
まだここ(無努力)です
♪ちなみにここでのCatch me if you canの 意味は
遊び 「鬼さんこちら」とは関係なく書いたのであしからず
でも
まあ逃げてるmeのほうがじつは存在していないと
意味をとれば
同じ意味になりますが
鬼さんのほうがじつはこわがられる存在ではなく
真の自己(真我)なのですから
神からの分離
という観点からみれば
逃げるme
にとってみれば
神は鬼さんとおそれられるのかもしれませんが
子供の遊びにも
こういった無意識的なことがあらわれているのかもしれませんね
Catch me if you can
いえ
まだここです
努力はCatchできないのです
できてるつもりです
meは
底のない桶
me自体つかまえられず
神からの分離:me(行為)
は起こっていないのです
だから自己概念(底のない桶)から投影されているすべての夢の行動も起こっていないのです
Catch me if you can
つかまえられましたか
いえ無理です
まだここ(無努力)です
以上
4分で目覚めの動画の前半について
何も起こっていないのです
奇跡のコースもそういってますね
*いつもその状態なので
静かにしようとする必要はないのです
なぜなら
すでにその状態(無努力)です
これが究極のmessageです(第一方便)
ラマナマハルシも
あなたはいつもその状態にある
みたいなことをいっています
パパジ
あなたはすでに自由だ。なにもする必要はないのだ 笑
おわり
ありがとうございます。
‘私’は実在しない
だからすべての区別も実際には起きていない
なにか新しい精神統一を手に入れることでもなく
いつもある精神統一である
パパジ
偽りの中心(思考)から真の中心(無条件である)いしきに進めば、すべて(の区別)は崩壊し、消え去る。
()サマンサ
‘私’が分別をしなければ(実際‘私’はいないから分別できないのだが)
自然は一なるものとしてあるがままのまんまである
千差万別の存在が平等にみられれば
あるがままの自然の姿にかえりつく
昔から
あるがままとはあるがままである
かみさまはどこにでもいるといわれる
あるがままとはあるがままである
特殊な意味をそこに加えるのはまぼろしの自我である
もしその‘もう一つの世界’を信じるなら
自然の世界に
空想の世界が押し重ねられる
そして起こることが起きようにみえてくる
そして解釈も生まれるのである
しかしほんとうは、なんにもおこっていない
あるがままとはあるがままだからである
そこに特別な意味はない‘分別’は実際はいないからである
今起きてることがパーフェクトにすすんでいると
安心するなら
その安心が
無努力の精神状態をもたらします
すると
無努力(悟り)になるのです
不思議な逆説ですが
起こる世界がパーフェクトとかんじると
世界(起こること・識別)がきえていくのです
これは不思議なことです
まえにいいましたよね
波は自分でうごいていない
そして
そのことにより
波は水(海)でしかなかったと
水しかなかったと
それでおわるのです♪
これはイメージでとらえていただきたい話なんですが
世界というのは割り算
分数?で
できているので
最初に割る作用をもたらすのが
私
なんです
だから
1
世界を戻すには
私を経由しなくてはなりません
そのように割り戻さなくてはなりません
たとえば
私をたんに否定して
悟りにいたるなんて通説がありますが
私で割ったことを
否定すれば
いつまでも私の状態です
そうではなく
私が必要なのです
だから
1
私を経由し
すべてを包み込みなおした状態です
ですから
世界は+-の世界ではないので
たんに私を否定しても
世界はもとにもどらないというわけです
そして世界はもともと1
存在するので
割るには努力がいりますが
割らないためには
もしくは
割り戻すためには
努力はまったくいらないのです
努力してる状態が
割ってる(空想してる)状態
だからです
のんびりしていれば
1・世界・存在はもどっています
このこと(私という観念という努力)が実在ではない
とわかることがかんたんだ
というのでしょうか
それは
朝おきたとき(まだ寝床)の状態を利用するからです
うつつと‘私’が
おきたとき
まだ
努力は起ききっていません
だからこそ
肉体的活動がはじまるまえに
真我探究がなされれば
非常にやりやすいのです
しかも
私というのは
努力があまりない状態です
その努力があまりない状態から
解放(無努力)が実在
と気づくことは非常にかんたんなのです
このことに気づくと
日中でも
無努力にちかい、
努力をあまりしてない状態
が
私というものであることがわかります
通説では
活動から私を自覚しなければならない
と教えられると
とんでもない努力が必要だと勘違いされています
私というのは
もっとも無努力にちかい自覚なのです
このことがわかれば
日中でも
無努力の世界をとらえるのが
非常にかんたんだとわかります
しかし
それがわからないと
激怒されるのです
ほかのコメンテーターに
爆
私は宇宙だとか
光のまえにたっただとの
神秘や象徴の表現が多いので
誤解を生むので
まとものトピックをたてます
ここでいってる意識とは
エゴの領域の意識のことではありませんのであしからずご了承ください
悟りをさしております
さて、
ここでいってる意識とは
ガラスの板のようなもので(もちろん意識は平面ではございません。念のため。)
、
そこに描写の世界があるのです
たとえばケーキ屋さんの透明なガラス窓にペイントで絵が描かれているようなものです
なぜそのようなものができるかと理屈で考えても無駄です
そういう想像力が
ガラス板にはそなわっているとしかいいようがないのです
それは普通に人間には想像力があると世間的に認められているようなものです
ガラス板がふつうにみずからだとわかれば
それは神秘的だとか光だとかいって変に驚くことはないのです
じぶんであるものを神秘的だとか光だとかいって感じるべつのぶぶんは実在しません
もしそういった感想にことさら陥るなら
それは自我として
自我の観点からその透明さにたじろいだということにすぎないでしょう
自我とは実在しない濁り(絵の具)であり、そのため、その観点からは、源がたんに透明感があるにというにすぎないのに、
それを神秘的だとか光だとかいうのです。
ガラス板がみずからだとわかっていれば
なんの不思議もない神秘的でもない
みずからであるただのガラス板(透明)です
かんたん
だれにでも今はあります
それでいいのですが
今は時間のなかにあると錯覚しているために
その今を否定しています
悟りとは
その今は
時間のなかにはなかったとしることです
悟っている人と悟っていない人の違いはそれだけです
同じ今にもかかわらず
一方は否定し
同じものを一方は肯定します
その今でいいのです
悟っていない人はそれが真実ではないと想像しているだけなのです
ぷ
くり返しますが
今と精神統一は同じです
かんたん
かんたんどころか
確実にあります
※説明の便宜上、人が悟るように表現してますが
今が悟りなので、人が悟るわけではありません
‘私’(非実在)はきえさる
それは気づくだけでいいのです
質問者 ヴァーサナー(心の潜在的傾向)の破壊なしに真我の実現は不可能です。それでは、心の潜在的傾向が完全に破壊された状態に至るにはどうすればよいのでしょうか?
マハルシ あなたは今、その状態にある。
(あるがままに 36ページ)
今のあるがままに
‘私’が明け渡す ‘私’が静かにすることはできないのです