◇「判断」について吟味し、検証する◇
私たちは普段、良し悪し等の判断を繰り返しながら、それによって、何かの行動をしたり、「こうなったらいいなあ」等の理想や希望を持ったりしています。
この「判断」がくせものなのです。
私は、二元の迷いから抜け出していく方法として、この「判断」について徹底的に吟味し、検証することが非常に有効な方法の一つであると思っています。
聡明な方なら普段自分がやっている「判断」に重要なカギがあるんだと何となく気づいておられるのだと思います。
また、善し悪しの判断は各人の視点等による相対的なもので、絶対的なものではないということも何となくご存じの方もおられると思います。
しかしそのような方々の殆どは、相変わらず「判断」を続けてしまっています。
それが現実であり、多くの方々の姿です。
そのような方々は、どうしてそこから抜け出せないのでしょう。
その理由は、自分がやっている「判断」の無意味さにまだ本当には気づけていないからです。
「判断」の無意味さ、愚かさに気がつくようになれば自ずと判断をする頻度が小さくなっていきます。
一度、普段自分が何気なくやってしまっている「判断」を監視してみて頂きたいと思います。
そして、自分が「判断」をやっていることに気づいたら、その自分がやっている「判断」について、その正当性や合理性等を徹底的に吟味し、検証してみて頂きたいと思います。
「判断」について吟味、検証するときのコツは、複数の観点からそれをやることです。
どんなに優れている、あるいは完璧と思われる「判断」であっても、優れているのはある特定の観点から見たときの評価に過ぎず、他の観点から見ると必ず欠点や弊害があり、当初の優れた判断であるという評価が崩れ去ってしまうはずです。
「判断」に対する優れた判断とか、間違った判断等の評価は、すべて幻想に過ぎないのです。
どのような「判断」も、すべて長所と短所があり、同列なのです。
嘘だと思われるなら、何か具体的な「判断」を取り上げて検証してみて頂きたいと思います。
分かりやすい例としては、「お金持ちは良いことだ」という判断があります。
お金を持っていることによる利点は確かにありますが、それによる欠点というかリスクもしっかりとあり、とても「お金持ちは良いことだ」という判断が正しいとは言い難いです。
じゃあ「金持ちと貧乏の中間層が良い」という判断はどうかというと、もちろん中間層にも長所と短所がちゃんとあります。
例えば、中間層にはお金に困るとか、お金があることによりお金に迷う等のリスクが低いですが、金持ちに対する憧れを持ってしまい、その気持ちに惑われてしまう等の短所があります。
「ビジネス等で成功することは良いことだ」という判断も同様です。
少し難しい題材ですが、「健康は良いことだ」という判断も同様です。
さらに難しい題材ですが、「幸せは良いことだ」という判断も同様なのです。
「愛することは良いことだ」という判断についても、まったく同様です。
もちろん、「悟ることは良いことだ」という判断についても、まったくまったく、まったーーく同様です。(^o^)
ここまで読まれると、自分の心の奥底に、自分に「判断」という思考をさせてしまう何か思い込みのようなものがあることに気づく方がおられるかも知れません。
「そこ」に意識を向け、何が自分に「判断」という思考を衝動的に起こしているのかをしっかりと観て頂きたいと思います。
自分が握りしめているどういう考えが、自分に衝動的に「判断」をさせているのかを徹底的に追求して頂きたいと思います。
何か捉えられたでしょうか?(^^)
「そこ」には、「正しい方向があるはずだ」、あるいは「自分の進むべき方向があるはずだ」等の「正しさ」に関する強い強い思い込み(幻想)があります。
その「正しさ」に対する幻想から早く醒めて頂きたいと思います。
<追記(2014年8月25日)>
当初は、この記事を前半と後半のシリーズものとして書こうと思っていましたが、後半部分は単独の記事としてまとめることにしました。
その方が分かりやすくなりそうなので。
また、この記事は自覚との関連が深いので、自覚ワークに関するカテゴリに移動しました。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私たちは普段、良し悪し等の判断を繰り返しながら、それによって、何かの行動をしたり、「こうなったらいいなあ」等の理想や希望を持ったりしています。
この「判断」がくせものなのです。
私は、二元の迷いから抜け出していく方法として、この「判断」について徹底的に吟味し、検証することが非常に有効な方法の一つであると思っています。
聡明な方なら普段自分がやっている「判断」に重要なカギがあるんだと何となく気づいておられるのだと思います。
また、善し悪しの判断は各人の視点等による相対的なもので、絶対的なものではないということも何となくご存じの方もおられると思います。
しかしそのような方々の殆どは、相変わらず「判断」を続けてしまっています。
それが現実であり、多くの方々の姿です。
そのような方々は、どうしてそこから抜け出せないのでしょう。
その理由は、自分がやっている「判断」の無意味さにまだ本当には気づけていないからです。
「判断」の無意味さ、愚かさに気がつくようになれば自ずと判断をする頻度が小さくなっていきます。
一度、普段自分が何気なくやってしまっている「判断」を監視してみて頂きたいと思います。
そして、自分が「判断」をやっていることに気づいたら、その自分がやっている「判断」について、その正当性や合理性等を徹底的に吟味し、検証してみて頂きたいと思います。
「判断」について吟味、検証するときのコツは、複数の観点からそれをやることです。
どんなに優れている、あるいは完璧と思われる「判断」であっても、優れているのはある特定の観点から見たときの評価に過ぎず、他の観点から見ると必ず欠点や弊害があり、当初の優れた判断であるという評価が崩れ去ってしまうはずです。
「判断」に対する優れた判断とか、間違った判断等の評価は、すべて幻想に過ぎないのです。
どのような「判断」も、すべて長所と短所があり、同列なのです。
嘘だと思われるなら、何か具体的な「判断」を取り上げて検証してみて頂きたいと思います。
分かりやすい例としては、「お金持ちは良いことだ」という判断があります。
お金を持っていることによる利点は確かにありますが、それによる欠点というかリスクもしっかりとあり、とても「お金持ちは良いことだ」という判断が正しいとは言い難いです。
じゃあ「金持ちと貧乏の中間層が良い」という判断はどうかというと、もちろん中間層にも長所と短所がちゃんとあります。
例えば、中間層にはお金に困るとか、お金があることによりお金に迷う等のリスクが低いですが、金持ちに対する憧れを持ってしまい、その気持ちに惑われてしまう等の短所があります。
「ビジネス等で成功することは良いことだ」という判断も同様です。
少し難しい題材ですが、「健康は良いことだ」という判断も同様です。
さらに難しい題材ですが、「幸せは良いことだ」という判断も同様なのです。
「愛することは良いことだ」という判断についても、まったく同様です。
もちろん、「悟ることは良いことだ」という判断についても、まったくまったく、まったーーく同様です。(^o^)
ここまで読まれると、自分の心の奥底に、自分に「判断」という思考をさせてしまう何か思い込みのようなものがあることに気づく方がおられるかも知れません。
「そこ」に意識を向け、何が自分に「判断」という思考を衝動的に起こしているのかをしっかりと観て頂きたいと思います。
自分が握りしめているどういう考えが、自分に衝動的に「判断」をさせているのかを徹底的に追求して頂きたいと思います。
何か捉えられたでしょうか?(^^)
「そこ」には、「正しい方向があるはずだ」、あるいは「自分の進むべき方向があるはずだ」等の「正しさ」に関する強い強い思い込み(幻想)があります。
その「正しさ」に対する幻想から早く醒めて頂きたいと思います。
<追記(2014年8月25日)>
当初は、この記事を前半と後半のシリーズものとして書こうと思っていましたが、後半部分は単独の記事としてまとめることにしました。
その方が分かりやすくなりそうなので。
また、この記事は自覚との関連が深いので、自覚ワークに関するカテゴリに移動しました。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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ここ1年くらい自分なりの自分をみつめるワーク〔何故今そう感じるのか。本当はどうしたいのか。をずっと観察します。〕をしてきたのですが、数日前にこちらにお邪魔して読ませて頂き、自覚のワークを先ほどから開始したのですが、ふと疑問が浮かんだのでご質問させて下さい。
私はアトピーがあり、癖でかゆくないときでも掻いてしまうのですが〔本当は治りが遅くなるから掻きたくはないです。〕、自覚のワーク中に掻くことを自分で決めて、今掻いているなと、それを起こしているのを観察していました。
起きているときは、自分で起こしてると理解できるのですが、寝ているときも強く掻いていて朝起きたら残念な気持ちになります。
寝ているときは自我は不在なのでは?と思うのですが、これは誰が起こしているのでしょうか?
無意識の領域で、自分が起こしている、ただそれだけのことかな?と思ったりするのですが、、、
よろしくお願いします(*^^*)
こんにちは、コメントありがとうございます。
ななさんは、もう一年も前から自分を見つめておられるのですね。
素晴らしいです。
ご質問に答えさせて頂きますね。
>起きているときは、自分で起こしてると理解できるのですが、寝ているときも強く掻いていて朝起きたら残念な気持ちになります。
>寝ているときは自我は不在なのでは?と思うのですが、これは誰が起こしているのでしょうか?
>無意識の領域で、自分が起こしている、ただそれだけのことかな?と思ったりするのですが、、、
自分自身が、自分を中心としたこの世界をつくっているというのは、本当です。
しかし、この世界の基本となる部分であるベース部分は、潜在意識がつくっているのです。
この世界は、潜在意識がつくるそのベース部分に、顕在意識(これを自我と言います)がつくった部分を重ね合わせるようにしてつくり出されています。
ですから、自我である顕在意識が眠っていたり、思考が止まる等して、思考を殆どつくらない状態になっている場合でも、顕在意識によりこの世界のベース構造は休み無くつくり出されていきます。
ですから、お分かりのように、ななさんのまさにこの認識;
「無意識の領域で、自分が起こしている、ただそれだけのことかな?と思ったりするのですが、、、」
で合っていますよ。(^^)
なかなか日常の会話では話題にできないことですので。。。
寝ている間の潜在意識が起こして、朝目が覚めて顕在意識で何らかの負の感情が起こるということは、そういった感情からまだまだそこに気づきの種があるということかなとお答えをいただいて思いました。
ブログも大変参考になります。
ありがとうございました(*^^*)
慧空さん、貴重なお答えを読ませていただきありがとうございました。うまくできない時もありますが、私も自覚つづけてます。
こちらこそ、コメントくださり、ありがとうございます。