◇天界の悟り階層の構成とそこでの迷いについて◇
悟りの階梯について、まだ理解が少しずつ進むようで、今日は天界の悟り階層(小悟)の構成やそこでの迷い等について書いてみたいと思います(悟りの階梯の全体については、できれば近いうちに記事を書きたいと思っています)。
なお、天界の悟り階層は、明け渡しと、自我を捉える悟りである見性とを得ることにより至る悟り階層です。
明け渡しとは、私という自我が握り締めた考え(囚われ)をある程度の割合で手放すことにより、得られる悟りです。
見性とは、私という自我を捉えることにより得られる悟りです。
天界の悟り階層は、大きく分けて上下二つの二階建て構造のようになっています。
その一階部分と二階部分の違いは、自我が掴んでいる考えの内容や数の違いです。
一階部分と二階部分との間は、それらを分けるちょっとしたギャップのような感じになっていて、そのギャップを超えて一階部分から二階部分へ移行するためのルートとしては、空のルートがあります。
空のルートとは、すべてが考えであり幻であるという空の理解を得るルートであり、この理解が得られると自ずと二階部分へ移行します。
なお、空の理解はすべては考えであるという理解ですから、私以外の対象でだけでなく、私という自我も含めて考え(幻)であるという理解が得られて初めて空の理解となります。
私はこの空のルートを通って二階部分へ進んだのですが、他のルートがあるのかどうなのかは私にはよく分かりません。
ただ、何となく確信としてあるのは、大悟において私という存在は連鎖的に起こってくる考えそのものであるという理解が起こるはずなので、この点からすると、二階部分へ進んでいくためには、空のルートしかないのではないかと思っています。
なお、私は空については二つの捉え方があるのだろうと思っています。
一つ目は、上で書いたように、すべては考えであり、実体はなく幻であるという理解です(龍樹さんは基本的にこの理解だったのだろうと思っています、もし間違っていたら教えて頂けると有り難いです)。
二つ目は、私という存在(自我あるいは意識)は断続的かつ連鎖的に起こってくる考えそのものであるという理解です(これは大悟に至ったときに得られる理解です)。
お釈迦様は空という言葉を使われなかったのではないかと思いますが、お釈迦様はこの二つ目の理解に基づいて、おそらく空以外の言葉を使って、私という存在について説明されたのではないかと私は思っています(このお釈迦様の理解が正確に後世に伝わらず、誤った形で(一つ目の理解のような形で)、後世に広まったのではないかと思っています)。
ここでは、一つ目の理解を空の理解と言っています。
以上、余談でした。
話しを元に戻して、天界の悟り階層の一階部分は、良し悪しで代表される二元の囚われがまだかなり多い階層なのです。
幸福はもちろん、善や徳や愛と言った二元の囚われがまだとても強いのです。
また、この一階部分では、人格神に対する強い囚われを持ったままこの階層に至る方もおられます。
握り締めた考えが多いということは、起こってくる考えも多く、自我も厚いですから、自我の欲求も強いのです。
このため、意識は基本的に外向きであり、僅かな間だけ時折内側に向けられるという感じです。
考えが多く、意識も基本的に外向きなので、自覚も浅く、自我の囚われや、自我の虚構性に対する気づきも起こりにくいです。
それ故、一階部分におられる方は、私という存在は真に存在する実存であると思い込んでいたり、自我の虚構性に思考のレベルでは理解していても、深い理解には至らず、表面的な理解に留まってしまいます。
また、意識が基本的に外向きなので、自我を見失ってしまい、自分の自我が滅せられたと誤解してしまうということもよく起こります(このような誤解をされている方はとても多いです)。
また、真我や根源等に関連した絶対的あるいは恒久的な考えを握り締めている方は、この一階部分にで留まっておられる方です。
ウパニシャッドの系列の覚者のほぼすべては、真我等の恒久的な考えを握り締めてしまい、この階層に留まってしまいます。
真我等の考えに囚われる余り、真我等の考えを起こしている自分自身(自我)に気づくことができず、真我が考えであり幻であるという理解が得られないのです。
また、自我も見失ったままになるのです。
すべてが考えであるという空の理解を得るためには、私という自我が考えを起こしている現場に直面できる程度のそれなりに深い自覚が必要なのです。
私という自我が考えを起こす瞬間、あるいは私という自我に考えが起こってきた瞬間を繰り返し観察することにより、すべてのことがらが考えであるという理解が生じます。
このときの理解は、多くの場合、まず空の第一段階の理解として、私という自我以外のことがらについて、それらはすべて私という自我がつくった(あるいは、自我に起こってきた)考えであるという理解が起きます。
そしてそれに続いて、空の第二段階の理解として、私という自我も考えであり幻であるという理解が起きます。
この第一及び第二の二つの段階の理解により、空の理解が完成します。
なお、私以外のことがら(例えば、真我や根源)についてそれが恒久的なものである等してその考えを掴んでいるのに、私という自我が考えであるという空の第二段階の理解が先に生じることは決してありません。
第一段階の理解と第二段階の理解がほぼ同時に起こることがあっても、第二段階の理解が第一段階の理解よりも先に生じることは決してありません。
ですから、ウパニシャッドの系列の覚者のように、真我や根源等を握り締めているのにかかわらず、私という自我は滅せられたなどの誤った認識に陥っている方については、まず、私という自我に意識を向ける自覚をされて、自我を捉えられ、真我等が自分が起こしている(あるいは、自分に起きてきた)考えであることに気づく必要があります。
そして、その上で、私という自我も考えであり幻であることを理解する必要があります。
空の理解を得て二階部分に移行した後は、自覚の実践等により、その得た理解を展開していくことになります。
具体的には、私という自我が握り締めた考え(囚われ)に気づき、あるいは手放し、あるいは焼き払っていくようになります。
それに伴って、自我も薄くなっていきます。
そして、自我の囚われが減り、自我の厚みがある臨界点を超えて薄くなると、大悟に至ります。
<補足と訂正(2015年2月3日)>
最近になって分かったことがあり、上の記事の内容を少し訂正したいと思います。
上の記事では、私という存在を含めてすべては考えであり幻であるという空の理解が、天界の悟りから大悟へ向かうときの条件であるかのように書いていますが、これは誤りでした。
空の理解が無くとも、大悟は得られるのだということが分かりました。
しかし、今回の理解により、大悟(梵天の悟り)の悟り階層にも、二つの階層があることが分かりました。
これらのことについては、できれば近いうちに記事を書きたいと思っています。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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悟りの階梯について、まだ理解が少しずつ進むようで、今日は天界の悟り階層(小悟)の構成やそこでの迷い等について書いてみたいと思います(悟りの階梯の全体については、できれば近いうちに記事を書きたいと思っています)。
なお、天界の悟り階層は、明け渡しと、自我を捉える悟りである見性とを得ることにより至る悟り階層です。
明け渡しとは、私という自我が握り締めた考え(囚われ)をある程度の割合で手放すことにより、得られる悟りです。
見性とは、私という自我を捉えることにより得られる悟りです。
天界の悟り階層は、大きく分けて上下二つの二階建て構造のようになっています。
その一階部分と二階部分の違いは、自我が掴んでいる考えの内容や数の違いです。
一階部分と二階部分との間は、それらを分けるちょっとしたギャップのような感じになっていて、そのギャップを超えて一階部分から二階部分へ移行するためのルートとしては、空のルートがあります。
空のルートとは、すべてが考えであり幻であるという空の理解を得るルートであり、この理解が得られると自ずと二階部分へ移行します。
なお、空の理解はすべては考えであるという理解ですから、私以外の対象でだけでなく、私という自我も含めて考え(幻)であるという理解が得られて初めて空の理解となります。
私はこの空のルートを通って二階部分へ進んだのですが、他のルートがあるのかどうなのかは私にはよく分かりません。
ただ、何となく確信としてあるのは、大悟において私という存在は連鎖的に起こってくる考えそのものであるという理解が起こるはずなので、この点からすると、二階部分へ進んでいくためには、空のルートしかないのではないかと思っています。
なお、私は空については二つの捉え方があるのだろうと思っています。
一つ目は、上で書いたように、すべては考えであり、実体はなく幻であるという理解です(龍樹さんは基本的にこの理解だったのだろうと思っています、もし間違っていたら教えて頂けると有り難いです)。
二つ目は、私という存在(自我あるいは意識)は断続的かつ連鎖的に起こってくる考えそのものであるという理解です(これは大悟に至ったときに得られる理解です)。
お釈迦様は空という言葉を使われなかったのではないかと思いますが、お釈迦様はこの二つ目の理解に基づいて、おそらく空以外の言葉を使って、私という存在について説明されたのではないかと私は思っています(このお釈迦様の理解が正確に後世に伝わらず、誤った形で(一つ目の理解のような形で)、後世に広まったのではないかと思っています)。
ここでは、一つ目の理解を空の理解と言っています。
以上、余談でした。
話しを元に戻して、天界の悟り階層の一階部分は、良し悪しで代表される二元の囚われがまだかなり多い階層なのです。
幸福はもちろん、善や徳や愛と言った二元の囚われがまだとても強いのです。
また、この一階部分では、人格神に対する強い囚われを持ったままこの階層に至る方もおられます。
握り締めた考えが多いということは、起こってくる考えも多く、自我も厚いですから、自我の欲求も強いのです。
このため、意識は基本的に外向きであり、僅かな間だけ時折内側に向けられるという感じです。
考えが多く、意識も基本的に外向きなので、自覚も浅く、自我の囚われや、自我の虚構性に対する気づきも起こりにくいです。
それ故、一階部分におられる方は、私という存在は真に存在する実存であると思い込んでいたり、自我の虚構性に思考のレベルでは理解していても、深い理解には至らず、表面的な理解に留まってしまいます。
また、意識が基本的に外向きなので、自我を見失ってしまい、自分の自我が滅せられたと誤解してしまうということもよく起こります(このような誤解をされている方はとても多いです)。
また、真我や根源等に関連した絶対的あるいは恒久的な考えを握り締めている方は、この一階部分にで留まっておられる方です。
ウパニシャッドの系列の覚者のほぼすべては、真我等の恒久的な考えを握り締めてしまい、この階層に留まってしまいます。
真我等の考えに囚われる余り、真我等の考えを起こしている自分自身(自我)に気づくことができず、真我が考えであり幻であるという理解が得られないのです。
また、自我も見失ったままになるのです。
すべてが考えであるという空の理解を得るためには、私という自我が考えを起こしている現場に直面できる程度のそれなりに深い自覚が必要なのです。
私という自我が考えを起こす瞬間、あるいは私という自我に考えが起こってきた瞬間を繰り返し観察することにより、すべてのことがらが考えであるという理解が生じます。
このときの理解は、多くの場合、まず空の第一段階の理解として、私という自我以外のことがらについて、それらはすべて私という自我がつくった(あるいは、自我に起こってきた)考えであるという理解が起きます。
そしてそれに続いて、空の第二段階の理解として、私という自我も考えであり幻であるという理解が起きます。
この第一及び第二の二つの段階の理解により、空の理解が完成します。
なお、私以外のことがら(例えば、真我や根源)についてそれが恒久的なものである等してその考えを掴んでいるのに、私という自我が考えであるという空の第二段階の理解が先に生じることは決してありません。
第一段階の理解と第二段階の理解がほぼ同時に起こることがあっても、第二段階の理解が第一段階の理解よりも先に生じることは決してありません。
ですから、ウパニシャッドの系列の覚者のように、真我や根源等を握り締めているのにかかわらず、私という自我は滅せられたなどの誤った認識に陥っている方については、まず、私という自我に意識を向ける自覚をされて、自我を捉えられ、真我等が自分が起こしている(あるいは、自分に起きてきた)考えであることに気づく必要があります。
そして、その上で、私という自我も考えであり幻であることを理解する必要があります。
空の理解を得て二階部分に移行した後は、自覚の実践等により、その得た理解を展開していくことになります。
具体的には、私という自我が握り締めた考え(囚われ)に気づき、あるいは手放し、あるいは焼き払っていくようになります。
それに伴って、自我も薄くなっていきます。
そして、自我の囚われが減り、自我の厚みがある臨界点を超えて薄くなると、大悟に至ります。
<補足と訂正(2015年2月3日)>
最近になって分かったことがあり、上の記事の内容を少し訂正したいと思います。
上の記事では、私という存在を含めてすべては考えであり幻であるという空の理解が、天界の悟りから大悟へ向かうときの条件であるかのように書いていますが、これは誤りでした。
空の理解が無くとも、大悟は得られるのだということが分かりました。
しかし、今回の理解により、大悟(梵天の悟り)の悟り階層にも、二つの階層があることが分かりました。
これらのことについては、できれば近いうちに記事を書きたいと思っています。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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天界の悟りは小悟ではありますが、悟りは悟りなんです。
なぜなら、小悟であっても、一般の方との意識の違いは歴然としているのです。
そんなことより、リアルさんも自覚をされたらいいと思いますよ。
わたしに意識を持ってくると、
体が振動してくるのですが、
それについて何かわかりますか。
私は身体が振動したようなことがありませんので、よく分かりません。
ただ一つ言えることは、自覚や瞑想の最中に何が起きてもあまり気にされないほうがいいですよ。
起きたその現象の原因や意味を求めるのは、自我(エゴ)であり、意識も外向きになっていますから。
せっかくコメント頂いて恐縮ですが、Unknownさんはいろいろ考えを掴んでおられるようです。
>ラジニーシは第五身体にヒトラーは至っていたと言っています
人の言うことを信用しすぎです。
ラジニーシさんは結構間違ったことも言っているようですよ。(^^)
>大悟以外は病的サイキックをつくり意味なく、むしろ人類にとって特別意識持つフリークスは危険なのでは?
病的なものと健全なもの、その区別はどういった基準でなされているのでしょう?
その区別や基準にどのような根拠や意味があるのでしょう?
これは病的であれは健全だと誰が判断してるのでしょう?
危険についても同じです。
危険なものと安全なもの、その違いは何でしょう。
誰がそれを判断しているのでしょう。
とは言え、これはあくまでも、自覚を知っている人だけに対して成り立つ話しですが。(^^)
私の今後の意向についてと、お礼を申し上げたくて書かせて頂きます。
この数ヶ月間、大悟や解脱の悟りについてご教示くださりありがとうございました。
いまだ大悟には興味はあるのですが、まだ私の自我は早急に大悟したいという意志はないようでして、
真我のある状態で生活をしていきたいんだと自覚しています。
慧空さんのブログに出会うまで、
天界の悟りがゴールだと思っていました。
天界の悟りの人の中には、真我を掴んで思考を展開している状態の場合があるということが分かり、かつては、私もその状態になることを求めていたので、実状が分かって良かったです。
本当にありがとうございました。
ブログや掲示板にも引き続き顔を出すかもしれません^ ^
>いまだ大悟には興味はあるのですが、まだ私の自我は早急に大悟したいという意志はないようでして、
真我のある状態で生活をしていきたいんだと自覚しています。
まきりんさんの正直なお気持ちが伝わってきます。
すべての道、すべての選択はパーフェクトです。
大丈夫です。(^^)
まきりんさんとやり取りができて、私の方こそ楽しかったです(もちろん、これで終わりじゃないですが、笑)。
ありがとうございました。
気が向かれたら、気軽にブログや掲示板に(メールでも)コメントくださいな。
いつでも大歓迎です。(^^)