◇さらに改めて悟りの階梯(1)◇
悟りの階梯について、ちょっと大きなことが分かったので、改めて書いてみたいと思います。
理解はまだ途上のなのかも知れませんが、今回は大筋の大方のところが大分かったのではないかと思っています。
今回の理解での大きな変更点は、悟りの要素を明け渡しの要素と、智慧の要素に分けてまとめています。
悟りには明け渡しの要素と智慧の要素があるのですが、それらの二つの要素は、互いに関連し合いながらもある程度独立していることが分かりました。
得られる悟りの深さが、基本的に自我の厚みにより決まるという点はこれまで通りです。
なお、自我の厚みは、起こってくる思考の量と関係しており、起こってくる思考が減るほど、自我が薄くなります。
また、起こってくる思考の量は、自我が握り締めた考え(囚われ、執着)の量と関係しており、囚われの量が増えるにつれ、それによって誘発される思考の量も増えます。
悟りの階梯の基本構造は、明け渡しの進行の度合いにより決まり、四段階になっています。
それに対し、智慧の悟りについては、その進行度合いによって五段階になっており、明け渡しの系列の各段階と、智慧の悟り系列の各段階とは独立しながらも、相互に関係しています。
明け渡しの悟り系列の四段階の一段目は、何も明け渡しの無い段階です。
同二段目は、私という存在の外側に向けてなされる明け渡し(受け入れ)である第一の明け渡しがなされた段階です(小悟、天界の悟り)。
同三段目は、上記の第一の明け渡しに加えて、私という存在の内側に向けてなされる明け渡し(受け入れ)である第二の明け渡しがなされた段階です(大悟、梵天の悟り)。
同四段目は、私という存在の根底にある苦に対してなされる明け渡し(受け入れ)である第三の明け渡しがなされた段階です(解脱の悟り)。
なお、第一の明け渡しとは、一般に言われている明け渡しとほぼ同じ意味です。
第二の明け渡しとは、私という存在に向けてなされる明け渡しで、主客の統合である「観るものは観られるもの」という理解が得られる悟りです。
智慧の悟り系列の四段階の一段目は、私という自我に対する自覚がなく、まだ自我を捉えられてない段階です。
同二段目は、私という自我に対する自覚があり、自我を捉えられた段階です(第一の見性)。
同三段目は、私という自我に対する自覚があり、自我を捉えられているとともに、私という自我以外のすべての対象について、それが私に起こってきた考え(あるいは私がつくりだした考え)であるという理解が得られている段階です(第二の見性)。
同四段目は、私という自我も含めて、すべてのことがらが考えであるという理解が得られている段階です(空の理解)。
同五段目は、私という存在の根底にある苦に対しての理解が得られるとともに、その苦に対する衝動が絶えず起こっているいることに対する理解が得られている段階です(解脱の悟り)。
悟りの階梯の第一階層は、見性の階層であり、未だ明け渡しがなされていない明け渡しの一段目が対応しています。
この階層には、智慧の悟りの二段目である第一の見性が得られた第一の見性の段階と、同三段目である第二の見性の段階が存在します。
この階層に、智慧の悟りの四段目である空の理解が得られる段階が存在し得るのかどうかは、分かりません(仮にこの階層に空の理解が起こり得るとしても、その理解は非常に浅いものになるのだろうと思われます)。
悟りの階梯の第二階層は、小悟(天界の悟り)の階層であり、上記の第一の明け渡しがなされた階層です。
この階層には、どの段階の智慧の悟りが得られているかにより、四つの段階が含まれています。
一つ目の段階は、私という存在である自我に対する自覚がなく、何ら見性が得られていない段階です。
二つ目の段階は、上記の第一の見性が得られている段階です。
三つ目の段階は、上記の第二の見性が得られている段階です。
四つ目の段階は、上記の空の理解が得られている段階です。
悟りの階梯の第三階層は、大悟(梵天の悟り)の階層であり、上記の第一及び第二の明け渡しがなされた階層です。
この階層には、どの段階の智慧の悟りが得られているかにより、四つの段階が含まれています。
一つ目の段階は、私という存在である自我に対する自覚がなく、何ら見性が得られていない段階です。
二つ目の段階は、上記の第一の見性が得られている段階です。
三つ目の段階は、上記の第二の見性が得られている段階です。
四つ目の段階は、上記の空の理解が得られている段階です。
この四つ目の段階で、空の理解が深まり、縁起に対する理解が得られます。
悟りの階梯の第四階層は、解脱の悟りの階層です。
この階層に至るためには、上記の第三の明け渡しが得られるとともに、上記の五段目の智慧の悟りが得られている必要があります。
これら第三の明け渡しと、五段目の智慧の悟りは同時に得られます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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悟りの階梯について、ちょっと大きなことが分かったので、改めて書いてみたいと思います。
理解はまだ途上のなのかも知れませんが、今回は大筋の大方のところが大分かったのではないかと思っています。
今回の理解での大きな変更点は、悟りの要素を明け渡しの要素と、智慧の要素に分けてまとめています。
悟りには明け渡しの要素と智慧の要素があるのですが、それらの二つの要素は、互いに関連し合いながらもある程度独立していることが分かりました。
得られる悟りの深さが、基本的に自我の厚みにより決まるという点はこれまで通りです。
なお、自我の厚みは、起こってくる思考の量と関係しており、起こってくる思考が減るほど、自我が薄くなります。
また、起こってくる思考の量は、自我が握り締めた考え(囚われ、執着)の量と関係しており、囚われの量が増えるにつれ、それによって誘発される思考の量も増えます。
悟りの階梯の基本構造は、明け渡しの進行の度合いにより決まり、四段階になっています。
それに対し、智慧の悟りについては、その進行度合いによって五段階になっており、明け渡しの系列の各段階と、智慧の悟り系列の各段階とは独立しながらも、相互に関係しています。
明け渡しの悟り系列の四段階の一段目は、何も明け渡しの無い段階です。
同二段目は、私という存在の外側に向けてなされる明け渡し(受け入れ)である第一の明け渡しがなされた段階です(小悟、天界の悟り)。
同三段目は、上記の第一の明け渡しに加えて、私という存在の内側に向けてなされる明け渡し(受け入れ)である第二の明け渡しがなされた段階です(大悟、梵天の悟り)。
同四段目は、私という存在の根底にある苦に対してなされる明け渡し(受け入れ)である第三の明け渡しがなされた段階です(解脱の悟り)。
なお、第一の明け渡しとは、一般に言われている明け渡しとほぼ同じ意味です。
第二の明け渡しとは、私という存在に向けてなされる明け渡しで、主客の統合である「観るものは観られるもの」という理解が得られる悟りです。
智慧の悟り系列の四段階の一段目は、私という自我に対する自覚がなく、まだ自我を捉えられてない段階です。
同二段目は、私という自我に対する自覚があり、自我を捉えられた段階です(第一の見性)。
同三段目は、私という自我に対する自覚があり、自我を捉えられているとともに、私という自我以外のすべての対象について、それが私に起こってきた考え(あるいは私がつくりだした考え)であるという理解が得られている段階です(第二の見性)。
同四段目は、私という自我も含めて、すべてのことがらが考えであるという理解が得られている段階です(空の理解)。
同五段目は、私という存在の根底にある苦に対しての理解が得られるとともに、その苦に対する衝動が絶えず起こっているいることに対する理解が得られている段階です(解脱の悟り)。
悟りの階梯の第一階層は、見性の階層であり、未だ明け渡しがなされていない明け渡しの一段目が対応しています。
この階層には、智慧の悟りの二段目である第一の見性が得られた第一の見性の段階と、同三段目である第二の見性の段階が存在します。
この階層に、智慧の悟りの四段目である空の理解が得られる段階が存在し得るのかどうかは、分かりません(仮にこの階層に空の理解が起こり得るとしても、その理解は非常に浅いものになるのだろうと思われます)。
悟りの階梯の第二階層は、小悟(天界の悟り)の階層であり、上記の第一の明け渡しがなされた階層です。
この階層には、どの段階の智慧の悟りが得られているかにより、四つの段階が含まれています。
一つ目の段階は、私という存在である自我に対する自覚がなく、何ら見性が得られていない段階です。
二つ目の段階は、上記の第一の見性が得られている段階です。
三つ目の段階は、上記の第二の見性が得られている段階です。
四つ目の段階は、上記の空の理解が得られている段階です。
悟りの階梯の第三階層は、大悟(梵天の悟り)の階層であり、上記の第一及び第二の明け渡しがなされた階層です。
この階層には、どの段階の智慧の悟りが得られているかにより、四つの段階が含まれています。
一つ目の段階は、私という存在である自我に対する自覚がなく、何ら見性が得られていない段階です。
二つ目の段階は、上記の第一の見性が得られている段階です。
三つ目の段階は、上記の第二の見性が得られている段階です。
四つ目の段階は、上記の空の理解が得られている段階です。
この四つ目の段階で、空の理解が深まり、縁起に対する理解が得られます。
悟りの階梯の第四階層は、解脱の悟りの階層です。
この階層に至るためには、上記の第三の明け渡しが得られるとともに、上記の五段目の智慧の悟りが得られている必要があります。
これら第三の明け渡しと、五段目の智慧の悟りは同時に得られます。
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読んで頂いてありがとうございました。
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坐禅を日課としている者なのですが、最近気になる体験があり、報告させていただきます。
それはある時、ふと鏡を見た瞬間、目の前の鏡と私が一つになったような体験をしました。
自分自身の体が無くなったような、非常に不思議な感覚でした。
その後、三日くらい前にも朝目覚めた時、自分が殆ど無く、
風景と一体となっているような感覚がしばらく続きました。
その感覚は思考に囚われている間は無く、思考に手を付けずにいるとその様な
一体となる感覚が訪れる気がします。
これは、過去の記事にありました「観るものは観られるもの」という体験なのでしょうか?
非常に気になっています。
たろうさんが、体験しておられるそれは、おそらく「観るものは観られるもの」の体験だろうと思います。
この体験のポイントは、私という自己に対する感覚や意識の欠落感と、それに伴う、自分が意識を向けている対象、あるいは起こってきた思考そのものとの統合感なのです。
たろうさんは、大悟に近づいておられるか、あるいは、もう既に大悟に至られたのだと思います。
大悟の直前の段階でも、時折「観るものは観られるもの」の体験を垣間見るときがあるんです。
大悟に完全に至ると、意識のチャンネルを少し合わせるようにすると、あるいはそんなことをしなくとも、ほぼ連続lして「観るものは観られるもの」の状態になります。
でも、どうやら、たろうさんは、もう既に大悟に至っておられそうな感じですね。
すばらしいです(^^)
たろうさんのコメントのお陰で、なんだかとっても嬉しい気持ちになることができました。
ありがとうございます(^^)
何か気になられる点がおありでしたら、遠慮なく書き込み等して頂きたいと思います。
このまま立ち止まらずに精進していきたいと思います。
有難うございました。
そんな感じがしました。
こちらこそ、ありがとうございました。