◇さらに改めて悟りの階梯(2)◇
前回の記事の続きです。
悟りの道や、悟りの階梯の各段階について説明してみようと思います。
悟りは階段状の構成になっていて、深さや段階があります。
各節目で起きる理解や感覚は、基本的な部分は共通しており、誰がどのような経緯を辿ってそこに至っても、ほぼ同じような理解や感覚が得られます。
この傾向は、深い悟りの節目になればなるほど強まります。
悟りの道は、私という自我が握り締めた考えである囚われ(執着)を手放していく道であるということができます。
囚われは、感情や思考を引き起こします。
このため、囚われが多いほど、起こってくる感情や思考の量も多くなり、自我も厚くなります。
反対に、囚われが減っていくほど、起こってくる感情や思考も少なくなり、自我も薄くなっていきます。
ただし、どんなに深く悟ろうと、最低限の自我は必ず残ります。
私という存在、すなわち世界がある限り、自我は必ず残ります。
囚われを手放していく方法としては、大きく分けて二つの方法があるのだと思っています。
一つは、受け入れや諦めによる明け渡しの方法です。
もう一つは、私に意識を向ける自覚等を使って囚われに気づくことで、それを手放していく方法です。
これら二つの方法は、互いに独立したものではなく、多くの場合、互いに関連し合いながら、囚われの手放しに対して作用します。
意図して受け入れようと思っても、なかなか思うようにはいきません。
ですから私としては、自覚を中心とした実践をお勧めします。
自覚の実践だけで、最終的な悟りである解脱の悟りまで到達することができます。
受け入れは、敢えてそれを意図しなくても、自覚の実践に伴って自動的に進んでいきます。
その際の最も大切なポイントは、私という自我をしっかりと捉えて、自我の主体性を維持することだと思っています。
なぜなら、考えを握り締めるのも、何かを求めて彷徨い迷うのも自我がすることだからです。
自我をしっかりと捉えていないと、その迷いに気づけないのです。
取りあえず、今回はここまで。
続きはまた書きます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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前回の記事の続きです。
悟りの道や、悟りの階梯の各段階について説明してみようと思います。
悟りは階段状の構成になっていて、深さや段階があります。
各節目で起きる理解や感覚は、基本的な部分は共通しており、誰がどのような経緯を辿ってそこに至っても、ほぼ同じような理解や感覚が得られます。
この傾向は、深い悟りの節目になればなるほど強まります。
悟りの道は、私という自我が握り締めた考えである囚われ(執着)を手放していく道であるということができます。
囚われは、感情や思考を引き起こします。
このため、囚われが多いほど、起こってくる感情や思考の量も多くなり、自我も厚くなります。
反対に、囚われが減っていくほど、起こってくる感情や思考も少なくなり、自我も薄くなっていきます。
ただし、どんなに深く悟ろうと、最低限の自我は必ず残ります。
私という存在、すなわち世界がある限り、自我は必ず残ります。
囚われを手放していく方法としては、大きく分けて二つの方法があるのだと思っています。
一つは、受け入れや諦めによる明け渡しの方法です。
もう一つは、私に意識を向ける自覚等を使って囚われに気づくことで、それを手放していく方法です。
これら二つの方法は、互いに独立したものではなく、多くの場合、互いに関連し合いながら、囚われの手放しに対して作用します。
意図して受け入れようと思っても、なかなか思うようにはいきません。
ですから私としては、自覚を中心とした実践をお勧めします。
自覚の実践だけで、最終的な悟りである解脱の悟りまで到達することができます。
受け入れは、敢えてそれを意図しなくても、自覚の実践に伴って自動的に進んでいきます。
その際の最も大切なポイントは、私という自我をしっかりと捉えて、自我の主体性を維持することだと思っています。
なぜなら、考えを握り締めるのも、何かを求めて彷徨い迷うのも自我がすることだからです。
自我をしっかりと捉えていないと、その迷いに気づけないのです。
取りあえず、今回はここまで。
続きはまた書きます。
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>自我の主体性の維持とはどんなことですか?
主体性の維持とは、一つはは、どんな体験をしても、どんな現象に対しても、すべては私という自我が認識していることであり、私の考えなんだという自覚を維持するということです。
どうしてこの主体性の維持が大切なのかと言いますと、悟りの道を歩んでいると、神や仏の幻を見たり、壮大な真理(もちろん考えであり幻ですが)を目の当たりするような体験をしたりすることがあります。
そうしたとき、自我の主体性をしっかりと維持していないと、神や仏、真理が絶対なものとして思い込んでしまい、それらの考えを信じ込み掴んでしまうからです。
もう一つは、何か考えを掴んでそれに囚われたり、迷うのも、自我がやることなのですが、何事も自分がやっているんだという自覚(主体性)をしっかりと維持して自分に意識を向けていないと、最後の最後のところのとても微妙なところになってきたとき、その微妙な囚われや迷いに気づくことができないからです。