◇私の成り立ち(3)◇
この記事は、過去記事「私の成り立ち(1)」、「私の成り立ち(2)」の続きです。
「私の成り立ち(1)」で、私(自我)とは断続的かつ連鎖的に起こってくる考え(認識)そのものであると書きました。
今日は、その考えの二つの階層について書いてみたいと思います。
起こってくる考えには、言わばその考えを受け取るだけの受動階層に属するものと、起こってきた考えに対する積極的な関与を伴う能動階層に属するものとがあります。
受動階層に属する考えは、その考えが起こってきたとき、自我の感覚としてはそれを認識するだけ(受け取るだけ)です。
また、考えは数個から数十個程度(いや、数百、数千というべきか?、笑)の群をなして起こってくるのですが、その一群の考えの起点となる最初に起こってくる考えは、常にこの受動階層に属する考えになっています。
例えば、五感を通じた音等に関する最初の認識や、ふと湧き起こってくる記憶に対する最初の認識などが、この受動階層の考えに該当します。
能動階層に属する考えは、それが起こってきたとき、その起こってきた考えに対する何らかの積極的な関与を伴います。
その関与とは何かと言いますと、起こってきた考えを握りしめることです。
考えを握りしめると、それによりさらに別の考えが派生的に起こってきます。
そして、その派生した考えも握りしめることになります。
するとまた新たな考えが派生することとなり、一段落するまで考えの連鎖が続きます。
この能動階層に属する考えが起こってきたときの自我の感覚としては、分別心等の強い自我感覚を伴ったものとなる傾向があります。
最初に受動階層の考えが起こってきて、それが能動階層の考えに繋がっていく簡単な例について書いてみます。
例えば、同じ職場にAさんという人がいて、そのAさんの言動があったとします。
そのAさんの言動に対する五感を通じた最初の認識は、常に受動的な考えです。
そのAさんの言動に対して、それを掴まない人は、Aさんの言動があったという認識が直ぐに流れていき、Aさんの言動を起点して発生した考えの連鎖は直ぐに収束します。
またこの人は、Aさんの言動を掴みませんから、その言動が心に印象を残すこともありません。
これに対し、Aさんの言動を掴んでしまう人は、Aさんの言動に対する認識があると、それに続いて、その言動に対する分別等の能動階層の考えが連鎖していきます。
Aさんの言動が悪いと判断した場合は、Aさんの言動にはいつも問題がある、私がAさんのことを正さないといけない、あるいはAさんに何か言い返さないといけない等の考えが連鎖していき、憤り等の感情も湧き起こり、心の中が暫く騒がしい状態が続きます。
また、Aさんの言動に対しする批判的な考えが印象として心に刻まれます。
その心に刻まれた印象は、Aさんに関連して起こってくる次回以降の考えの連鎖の種になります。
Aさんの言動を良いと判断した場合にも、Aさんの言動に批判的な判断をする場合ほどではないにしても、Aさんの言動を暫く握りしめ、その言動に対する印象が心に刻まれます。
このように、自我を構成する考えには受動階層、能動階層の二つの階層があります。
表現を変えて、自我には受動階層、能動階層の二つの階層があると言ってもいいです。
悟りの道を進み、自我が薄くなってくるにつれ、起こってくる考えに含まれる能動階層の考えの割合が減っていきます。
受動階層の考えについては、減ること無くほぼ一定です。
真我の完全覚醒である大悟に至ると、能動階層の考えが大きく減少します。
その減少の度合いは実感として非常に大きいもので、大悟に至った方の多くが、能動階層の考えが消滅したと誤解してしまう程です。
解脱の悟りに至ると、能動階層の考えが十分に抑制され、起こってくる考えに対する関与の余地が殆ど無くなります。
あとは主に、起こってくる考えを受け取るだけとなります。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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この記事は、過去記事「私の成り立ち(1)」、「私の成り立ち(2)」の続きです。
「私の成り立ち(1)」で、私(自我)とは断続的かつ連鎖的に起こってくる考え(認識)そのものであると書きました。
今日は、その考えの二つの階層について書いてみたいと思います。
起こってくる考えには、言わばその考えを受け取るだけの受動階層に属するものと、起こってきた考えに対する積極的な関与を伴う能動階層に属するものとがあります。
受動階層に属する考えは、その考えが起こってきたとき、自我の感覚としてはそれを認識するだけ(受け取るだけ)です。
また、考えは数個から数十個程度(いや、数百、数千というべきか?、笑)の群をなして起こってくるのですが、その一群の考えの起点となる最初に起こってくる考えは、常にこの受動階層に属する考えになっています。
例えば、五感を通じた音等に関する最初の認識や、ふと湧き起こってくる記憶に対する最初の認識などが、この受動階層の考えに該当します。
能動階層に属する考えは、それが起こってきたとき、その起こってきた考えに対する何らかの積極的な関与を伴います。
その関与とは何かと言いますと、起こってきた考えを握りしめることです。
考えを握りしめると、それによりさらに別の考えが派生的に起こってきます。
そして、その派生した考えも握りしめることになります。
するとまた新たな考えが派生することとなり、一段落するまで考えの連鎖が続きます。
この能動階層に属する考えが起こってきたときの自我の感覚としては、分別心等の強い自我感覚を伴ったものとなる傾向があります。
最初に受動階層の考えが起こってきて、それが能動階層の考えに繋がっていく簡単な例について書いてみます。
例えば、同じ職場にAさんという人がいて、そのAさんの言動があったとします。
そのAさんの言動に対する五感を通じた最初の認識は、常に受動的な考えです。
そのAさんの言動に対して、それを掴まない人は、Aさんの言動があったという認識が直ぐに流れていき、Aさんの言動を起点して発生した考えの連鎖は直ぐに収束します。
またこの人は、Aさんの言動を掴みませんから、その言動が心に印象を残すこともありません。
これに対し、Aさんの言動を掴んでしまう人は、Aさんの言動に対する認識があると、それに続いて、その言動に対する分別等の能動階層の考えが連鎖していきます。
Aさんの言動が悪いと判断した場合は、Aさんの言動にはいつも問題がある、私がAさんのことを正さないといけない、あるいはAさんに何か言い返さないといけない等の考えが連鎖していき、憤り等の感情も湧き起こり、心の中が暫く騒がしい状態が続きます。
また、Aさんの言動に対しする批判的な考えが印象として心に刻まれます。
その心に刻まれた印象は、Aさんに関連して起こってくる次回以降の考えの連鎖の種になります。
Aさんの言動を良いと判断した場合にも、Aさんの言動に批判的な判断をする場合ほどではないにしても、Aさんの言動を暫く握りしめ、その言動に対する印象が心に刻まれます。
このように、自我を構成する考えには受動階層、能動階層の二つの階層があります。
表現を変えて、自我には受動階層、能動階層の二つの階層があると言ってもいいです。
悟りの道を進み、自我が薄くなってくるにつれ、起こってくる考えに含まれる能動階層の考えの割合が減っていきます。
受動階層の考えについては、減ること無くほぼ一定です。
真我の完全覚醒である大悟に至ると、能動階層の考えが大きく減少します。
その減少の度合いは実感として非常に大きいもので、大悟に至った方の多くが、能動階層の考えが消滅したと誤解してしまう程です。
解脱の悟りに至ると、能動階層の考えが十分に抑制され、起こってくる考えに対する関与の余地が殆ど無くなります。
あとは主に、起こってくる考えを受け取るだけとなります。
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読んで頂いてありがとうございました。
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今生、何度も繰り返してきたことが、最近自分の前に現象として現れて、心が大きく反応し、動揺しました。
今回、自覚ワークによって、乗り越えてゆけるのではないかと、感じています。
今回の「二つの階層」、とてもわかりやすく説明していただき、「そっかー!」と納得でした。
これからも、楽しみにしています。
よろしくお願いいたします。
私の記事や自覚に興味を持って頂き、ありがとうございます。
>今回、自覚ワークによって、乗り越えてゆけるのではないかと、感じています。
素晴らしいです。
もし自覚について分からないことがあれば、仰ってくださいね。
ちなみに只管打坐(姿勢を正して座るだけ)の坐禅の場合は我執(能動的な方)は無くそうとしても無くならないもの、無くそうとすればかえって絡みついて大きくなるものですから無視します。
とは言えこれが厄介でご存知のように無視しようとしても無視は出来ません、そこで姿勢を正すことだけに専念する事で(結果的に)我執から離れたすがたを実現させます。姿勢を正す意味は他にも有りますが私の一番惹かれる意味はここです。
頭の中の事を頭の中で解決しようとの論理的な矛盾を頭以外の身体にになわせようとします。
>頭の中の事を頭の中で解決しようとの論理的な矛盾を頭以外の身体にになわせようとします
なるほどと言いたいところですが、すみませんが、私は殆ど座禅をやったことがないのもあって、分かりかねます。
確かに、頑張って座禅をしようとしている自分自身の姿に気づくことによって、根本的な自分の姿に気づくこともあるのかも知れないとは思います。
しかし、なんとなくですが、座禅に関連して生じるもどかしさ等の苦や、ちゃんと座禅をしようとして頑張っているときの自分の思考や感情、衝動等は、根本的な苦やそれに対する衝動と比較して、まだ外側というか、荒いのではないかという感じがします。
但し、座禅に関連した苦やそれに対する衝動も、根本的な苦やそれに対する衝動に気づくヒントになるだろうとは思います。