◇私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(5)◇
今回の記事では、私が解脱の悟りに至ったときの経緯等について書きたいと思います。
2014年1月23日の「一切皆苦」の悟りは、私にはとても大きな衝撃でした。
ひょっとするとこれで自分は解脱するのかとか、今度こそ解脱したのかと思ったりもしました(笑)。
また、私の中に常にある苦しみから解放されたのかと思ったりもしました。
しかし、それらはどれも私の誤解でした。
「一切皆苦」を理解して暫くの間は、これはちょっと凄いことが分かったぞと思い意識も高揚し、何だか晴れやかな気分になり、苦しみも忘れていました。
でも、それから一週間から二週間が経つ頃には、何だかもやもやした晴れない感覚や、苦しみが私の中に生じるようになり、それらに再び目を向けるようになっていました。
そして、解脱の悟りを得る2月11日の3日ほど前には、私の中のもどかしさや苦しみが大きくなっていて、それらに目を向けずにはいられなくなっていました。
そうしているうち、とても微妙な感触うまく表現できないのですが、私の中に、苦に対する不思議な感覚というか感触があることに気づいたのです。
最初は、ふっと感じる一瞬の感触でした。
私という存在そのものが「苦」であるというか、そんな感触がふっと瞬間的に起こったのです。
そして、その感触に意識を向けていくうち、2日くらいかけて段々と、その感触をより深く捉えられるようになっていきました。
そして、解脱の悟りを得る前日の2月10日には、その感触は、私という存在の根底に、不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があるのだという確信になっていました。
そのような確信を得た私は、これはとても興味深いことが分かったと思い、明日職場に行ったらそのことをブログに書こうと思い、その日は寝ました。
そして、2月11日の朝、職場に到着し、パソコンを立ち上げ、昨日自分が得た確信をブログに書こうとした瞬間、解脱の悟りが起こりました。
そのとき、私という存在の根本的な性というか姿に対する理解が起きたのです。
私という存在の根底には、もどかしさや不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があり、私という存在は、その根底にある否定的な考えを起点として連鎖的に起こっている考えであるということがハッキリと分かったのです。
それと同時に、私は、その根底にある否定的な考えである「苦」を握りしめ、その「苦」をどうにかしようとして、あるいはその「苦」から逃れようとして延々と彷徨っていたんだということがハッキリと分かったのです。
そしてその瞬間、私が握りしめていた最後の考えである「苦」に対する手放しが起きました。
これが、解脱の悟りでした。
この2月11日の朝起きたことは、ほんの一種の出来事でした。
ハッとするような感触ではなく、意識が小さく「あっ!」と静止するような意外なほど小さな感触でした。
でもそこには、モヤモヤとしていた自分の意識がパッと晴れたようなスッキリした感覚とともに、うまく表現できない微妙な感触ではありますが、「終わった」、あるいは「終わったのかな? どうやらそういうことだな」という感触がありました。
それから1週間ほど経ったころ、ネットを散策していたら、お釈迦さまが仰った「無明」について書かれたサイトに偶然行き当たりました(どのサイトかは忘れました)。
そして、そのサイトに書かれた「無明」に関する文章を読んだとき、お釈迦さまが得られた悟りと自分が得たものが同じであると直ぐに確信しました。
なぜそんな確信が起きたのか自分でもよく分からないのですが、そのような確信が起きました。
以上が解脱の悟りに至るまでの私の体験です。
この後、解脱の悟り後の私の意識の変化や、どんな感じかについて少し書いてみたいと思っています。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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今回の記事では、私が解脱の悟りに至ったときの経緯等について書きたいと思います。
2014年1月23日の「一切皆苦」の悟りは、私にはとても大きな衝撃でした。
ひょっとするとこれで自分は解脱するのかとか、今度こそ解脱したのかと思ったりもしました(笑)。
また、私の中に常にある苦しみから解放されたのかと思ったりもしました。
しかし、それらはどれも私の誤解でした。
「一切皆苦」を理解して暫くの間は、これはちょっと凄いことが分かったぞと思い意識も高揚し、何だか晴れやかな気分になり、苦しみも忘れていました。
でも、それから一週間から二週間が経つ頃には、何だかもやもやした晴れない感覚や、苦しみが私の中に生じるようになり、それらに再び目を向けるようになっていました。
そして、解脱の悟りを得る2月11日の3日ほど前には、私の中のもどかしさや苦しみが大きくなっていて、それらに目を向けずにはいられなくなっていました。
そうしているうち、とても微妙な感触うまく表現できないのですが、私の中に、苦に対する不思議な感覚というか感触があることに気づいたのです。
最初は、ふっと感じる一瞬の感触でした。
私という存在そのものが「苦」であるというか、そんな感触がふっと瞬間的に起こったのです。
そして、その感触に意識を向けていくうち、2日くらいかけて段々と、その感触をより深く捉えられるようになっていきました。
そして、解脱の悟りを得る前日の2月10日には、その感触は、私という存在の根底に、不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があるのだという確信になっていました。
そのような確信を得た私は、これはとても興味深いことが分かったと思い、明日職場に行ったらそのことをブログに書こうと思い、その日は寝ました。
そして、2月11日の朝、職場に到着し、パソコンを立ち上げ、昨日自分が得た確信をブログに書こうとした瞬間、解脱の悟りが起こりました。
そのとき、私という存在の根本的な性というか姿に対する理解が起きたのです。
私という存在の根底には、もどかしさや不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があり、私という存在は、その根底にある否定的な考えを起点として連鎖的に起こっている考えであるということがハッキリと分かったのです。
それと同時に、私は、その根底にある否定的な考えである「苦」を握りしめ、その「苦」をどうにかしようとして、あるいはその「苦」から逃れようとして延々と彷徨っていたんだということがハッキリと分かったのです。
そしてその瞬間、私が握りしめていた最後の考えである「苦」に対する手放しが起きました。
これが、解脱の悟りでした。
この2月11日の朝起きたことは、ほんの一種の出来事でした。
ハッとするような感触ではなく、意識が小さく「あっ!」と静止するような意外なほど小さな感触でした。
でもそこには、モヤモヤとしていた自分の意識がパッと晴れたようなスッキリした感覚とともに、うまく表現できない微妙な感触ではありますが、「終わった」、あるいは「終わったのかな? どうやらそういうことだな」という感触がありました。
それから1週間ほど経ったころ、ネットを散策していたら、お釈迦さまが仰った「無明」について書かれたサイトに偶然行き当たりました(どのサイトかは忘れました)。
そして、そのサイトに書かれた「無明」に関する文章を読んだとき、お釈迦さまが得られた悟りと自分が得たものが同じであると直ぐに確信しました。
なぜそんな確信が起きたのか自分でもよく分からないのですが、そのような確信が起きました。
以上が解脱の悟りに至るまでの私の体験です。
この後、解脱の悟り後の私の意識の変化や、どんな感じかについて少し書いてみたいと思っています。
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いいえ、違います。
囚われは、それを手放そうとしても手放せるものではありません。
私に意識を向けて、起こってくる考えを一つ一つ丁寧に、地道に自覚をしていくしかありません。
いろいろ考えが巡ってしまうのは分かりますが、考えてどうにかなるものではありません。
自覚はとても地道なものですが、最終的にはそれをコツコツとやっていくしかありません。
頭を働かせるより、自覚をやってください。
1)私の場合、囚われに関連して起こる自分の反応の一つに、お腹の辺りに感じるもやっとした不快感があります。囚われを手放すためにする自覚としては、この不快感を凝視する、でいいのでしょうか?
もし心療内科的なアドバイスを想像するなら、不快感の原因を探ったり、原因を思われるのものを再解釈したりすることを勧められるような気がします。どちらがより自覚でするべきことなのでしょうか?
2)囚われは、自分が与えられている範囲で不足分について発生しているように思えます。例えば、現代では何年も食べるものがなくて飢える経験はほとんどありません。でも70-80年前の食糧不足の時代を生き抜いた人たちは「ご飯を一粒残さず食べなさい」と教えました。これは真理ではあるのですが、食糧難の時代に生まれた囚われに由来する要素も含まれているように感じます。
とすると、飢えに対する囚われをほとんど持っていない私たちは、例えば今後食糧難が発生したら、新たな囚われを持つことになるような気がします。他にも、凄惨な事件に遭われて、トラウマ(つまり囚われ)になる場合があります。この場合は一瞬にして新たな囚われが発生することになります。
何が質問したいかと言いますと、自覚で手放そうとする囚われは、ある生活環境で顔を出している囚われだけを問題にするしかないのではないか。生活の前提条件が変われば、新たな囚われがいくらでも顔を出すなら、安定した悟りのような状態は安定した生活環境に依存することになります。
例えば、慧空さんが戦争の時代にタイムスリップして何日も何週間も何年も食べるものが少ししかなくて、さらに飢え死にすることもできない程度に少しだけ栄養が与えられるような状況に置かれたら食に対する囚われを持つことになるのでしょうか?
そうはならないような気がします。だとすると、自覚で手放そうとするのは囚われそれ自体ではなくて、囚われを持ってしまう性質、なのでしょうか?
おそらく不可能でしょうね。
忘れてましたが、一つ目の苦しみを捉えるのは難しいですが、一つ目の苦しみは、普段の活動のそこかしこにありますので、例はいくらでも挙げることができますよ。
例えば、五感から何か情報が入って来ること自体が一つ目の苦しみです。
そして、その情報に対して私に何らかの反応が生じますが、その反応も一つ目の苦しみである場合があります。
より詳しくは、入力情報に対して囚われが関与せずに生じた反応は一つ目の苦しみに該当し、入力情報に対して囚われが関与して生じた反応は、二つ目の苦しみに該当します。
例えば、怪我をしたとき(入力情報)、怪我はしたことは一つ目の苦しみです。
そして、怪我による反応として痛みが生じたら、痛みを感じること自体は囚われは関与しませんので、痛みは一つ目の苦しみです。
これに対して、怪我をしたのが女性であって、顔を怪我してしまった場合、顔にアザが残ったらどうしようという心配が反応として生じたような場合は、その心配は囚われが関与していますので、二つ目の苦しみであるということになります。
それでは人生における影響はどうでしょうか?いつも痛みをともなう方向に、自分の健康や大事なものも差し出してしまうほどに、駆り立てる原因として強大な影響を持っているように感じます。
それでは自分の人生がいつもそのようなパターンに進んでしまう原因はなにか?その影響の背後にある原因を探ることで第一の苦しみを捕まえることができないのでしょうか?
もちろん捕まえた時点では、他の苦しみが混ざっているかもしれません。しかし、捕まえた第一の苦しみだけに集中して、混ざっている他の苦しみをより分けていくような作業ができないでしょうか?
もちろん上のような作業をするにはすいくうさんのが経験され文章に残されているような世界があるのだという前提でなければできないです。
ちょうど悪戦苦闘の末にインド航路を見つける人と、見つけた人の残した航海の記録と地図を頼りに普通の人がバンバンインドに到達するのとにていないでしょうか?
一つ目の苦しみは二つ目の苦しみの下地のようにして表れますから、未悟の人が一つ目の苦しみを感じることが全く無いとは言い切れません。
でも、二つ目の苦しみの大きさが一つ目のそれに対して圧倒的ですから、未悟の人が一つ目の苦しみを感じることは、ほぼ無いだろうと思います。
一つ目の苦しみは、何か一つでも囚われがあると、その囚われに関連した苦しみの影に潜んでしまいますから、それを直に捉えることはできないのです。
一つ目の苦しみを捉えるためには、全ての囚われてを手放した上で、なお苦しんでいる自分自身に目を向ける必要があります。
そして、二つ目の苦しみや不足感は、悟りの進展に伴い完全に除去可能なのです。
ここに、悟りの意義があります。
よく分かりました。ありがとうございました!
おっしゃることよく分かりました。
言い訳はせずにひとつだけ質問させてください。悟りに到達していない人間が、最後の苦しみに気づいている、沢山ある自分の苦しみの海の中にひとつだけ異質なもの、根っこと言えそうなものに気づいている、というようなことはあるのでしょうか?
例えば、ボクシングのチャンピオンが自分の健康や生活を差し出して、自分の体を筋肉装置に変形させてしまうほどの練習に、自分を駆り立てる根源にある苦しみを捕まえているようなこと。その人は既に、その苦しみからは逃げられないことに気づいていて諦めていて、静かに差し出し続けるような毎日を送る、ような状況です。
若干文章が感傷的になりすぎていますが笑。
真剣に質問しています。
これは余りに短絡的な解釈なのです。
半分は正解ですが、半分は間違っています。
どういうことかと言いますと、人が感じる苦しみや不足感には、二つの種類といいますか階層があるのです。
一つ目は、存在の根底にあるもので、これは誰しも同じです。
二つ目は、囚われに起因するもので、これは囚われの内容や強さに応じて人それぞれです。
そして、この二つ目の苦しみや不足感は、一つ目のそれの影響を受けていて、一つ目の苦しみや不足感に重ね合わされるようして乗っかっています。
重要なのはここからですが、
苦しみや不足感の大きさ、激しさは、一つ目のものよりも二つ目のものが各段に大きいのです。
そして、二つ目の苦しみや不足感は、悟りの進展に伴い完全に除去可能なのです。
ここに、悟りの意義があります。
その上今、悟りを最後まで進まれた方に、悟りの過程で囚われによる苦しみから次々に解放されても、最後に残る苦しみがあるよ。それはみんなにお馴染みの不足感、不全感だよ、と教えてもらったわけです。しかも、そこからは絶対に逃れられない、それはあなた自身だから、と教えてもらってしまいました。
本当にそうなのかなぜそう言えるのかなど脇に置いてそれは真実なんだと受け入れるとします。
さて、この時点で個々人が悟りの厳しい道のりを進む意味がどれほどあるのか、すいくうさんはどのように考えられますか?例えばこのステレオの配線はこういう原理で繋がってるんだとブラックボックスを全部理解しないと音楽が聞けないわけではないのと同じように、人間はそういうふうにできている、という事実を手に入れてしまったらなぜそうなのかは脇に置いてその真実に従えばいいじゃないかとも言えるかと思いました。
例えば、私はもう自分の不足感、不全感をセラピーとか自分の人生の振り返りで解消しようとする努力をしないでしょう。そして、他人も同じ解消できない不足感、不全感と共に生きているのだと知りました。自分の欲しいものを持っている人にも以前ほど嫉妬しないかもしれません。
これだけで私は随分楽になれそうですし、自分の外側の世界に寛容な気持ちになることができると思います。楽になることと寛容になることは私がずっと求めていたことでした。それは私だけが求めていることではないような気がします。
そうです。
>もしかしたら根底にある感覚は悟りとは縁遠い人のムードに表れていたりするものなのでしょうか?
そうです。
>根底にある感覚を書き換えたりはできないのでしょうか?
できません。
>私という存在の根底には、もどかしさや不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があり、私という存在は、その根底にある否定的な考えを起点として連鎖的に起こっている考えであるということがハッキリと分かったのです。
↑この文章が気になっています。
人によっては存在の根底に別の感覚、例えば喜びとか幸福などのポジティブな感覚があったりする人もいるでしょうか?例えば笑いだったり、怒りだったり、人それぞれそれぞれに違うのでしょうか?、それともどの人の根底にも不足感や苦があるのでしょうか?
もう一点は、悟りを進んでない普通の人にもベースになるムードのようなものがあります。私の場合、人生の長い間不足感や焦りのようなネガティブな感情がつきまとっています。この感覚の多くは成長の過程で集めてきた囚われのように考えていたのですが、もしかしたら根底にある感覚は悟りとは縁遠い人のムードに表れていたりするものなのでしょうか?
先週あたりから「私は完璧完全」が府に落ちてから自分を観察すると、今まで何をするにも不足感がまとわりついてたのが、ぶれない。変わらずぼー。としてても軸がずれないというか、魂がぬけないといいますか。。
とはいえ、金銭の不足はありますが。
また、性格がより喜怒哀楽がはっきりしたようで、イライラしたり怒ったり笑ったりと、友達にはワガママになった。と言われがびん。
でも、すいくうさんの体験談の見るものは見られるは分かりませんが、無明は理解(少し)してますし。
てことで、まだ迷いの中に私はいるのでしょうね
「苦への手放し」という表現は、余りよくないのです。
この部分は書き直した方がいいのだろうと思っています。
より正確には、うまく表現できまいのですが、「苦しみをなんとかしないといけない」等の苦に関連した囚われの解放が起こったんです。
あるいは、苦しみをなんとかしようとして延々と起こっている自分自身の衝動に対する気づきが起こったんです。
それに伴って、苦に関連した囚われの解放と、その囚われに関連して延々と起こっていた苦をなんどかしようとする衝動が停止したんです。
コメントありがとうございます(^^)