私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(4)

2014年12月01日 23時59分01秒 | 私の体験
◇私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(4)◇

前回の記事の続きです。

今回の記事では、前回の記事で書きました、私という自我が握りしめている考え(執着)が種となり、自我を誘起させているのだという理解等の導きにより、私(慧空)が解脱の悟りに近づいていく過程について書きたいと思います。

「私という自我が握りしめている考え(執着)が種となり、自我を誘起させているのだ」という理解に基づき、直ぐに私は、自我が握りしめている考えすべて手放せば解脱に至るに違いないという確信に至りました。
そして私は、これで解脱への道が得られたと思いとても高揚しました。

しかし、その高揚感は直ぐに覚めていき、閉塞感や焦りに変わっていきました。
自我が握りしめている考えを手放そうと思っても、当時の私の状況が大悟以降、考えの手放しが殆ど起きなくなっていたこともあり、自分が考えを掴んでいるという実感もなく、これ以上どうやったら考えを手放せるのかが全く分からなかったのです。
そして、私は、閉塞感と焦りを抱えながら、自分が掴んでいるはずの考えや、私という自我を何とかしないといけないと思い、ああでもない、こうでもないと、あがくようになっていきました。
2013年の12月中旬ころから翌2014年の1月中旬ころにかけて、私は毎日、激しくあがいていました。
あがいてあがいて、あがきまくっていました。

例えば、完全な無我から自我が誘起されていく過程で起きる分別が重要なファクターとなっていることが自覚を通じて分かると、分別を完全に放棄して滅することができれば、自我が掴んでいる考えも手放すことになるのではないか等と考え、自分の分別を放棄することに必死に取り組んだこともありました。
いまの私なら、分別を完全に放棄することなど不可能だし、無意味な努力だと分かるのですが、当時の私はがむしゃらにそれをやっていました(笑)。

またあるときは、無我(当時はそれを真我だと誤解していましたが)にダイブすれば何か分かるのではないか等と思い、あるいは無我に固執する余り、何度も何度も執ように無我にダイブしていました。
でも、いくら無我にダイブしても、そこから新たに得られるものは殆どありませんでした。

そうしてあがくうち、私は段々と疲弊し、どうしていいか分からず途方に暮れていきました。
途方に暮れる中、私は、自分の意識に対する理解、つまり私という存在が延々と続く意識の連鎖だという理解が誤りであり、肉体が滅んだときに私の意識も消失するのではないかと思い、あるいはそういう期待を込めながら、自分の意識を何度も何度も観察しました。
しかし、何度観察しても、私という存在の本質は肉体ではなく、延々と起こってくる意識の連鎖であるという認識に引き戻されるのでした。
そして、どうしようもないもどかしさや、苦しみが募っていきました。

そんな中、私は自分の中に常に苦しみがあることに気づいたのです。
私はそのとき、自分の中にある苦しみに初めて目を向けたのでした。
私はそれまで、あれやこれやと判断し、行動し、様々な感覚や感情を体験してきたのですが、そこには常に苦しみがあったのでした。

そして、その次の瞬間、なぜか「一切皆苦」という言葉が私の中に浮かんでくるとともに、そのことに対する理解が起こりました。
それとともに、何を選択しても、またどこにいこうと苦からは逃れられないのだから、苦を受けて立つしかないないんだという覚悟と決意が起こりました。
いま思うと、私はそのときやっと、自分の中にある「苦」に真っ正面から向き合えるようになったのだと思います。
それは、2014年1月23日のことでした。

そして、この「苦」に対する直面が私を解脱の悟りに導いていくことになりました。


上記のようにして私が「苦」と直面していくようになる中、いくつかの考えの手放しも起きていました。
その一つは、真我に対する手放しがありました。
私には、真我についてそれが自我の上位にあるものであるかのような考えや、自我を滅して真我になり切ることが究極の悟りであるかのような囚われが一部にあったのです。
それが、2014年の1月中旬に、真我も、私という自我の考え(認識)であるという理解が起こり、真我に対する手放しが起こりました。
そして、その理解は、真我は自我の考えなのだから、真我は自我と対等なものでもなく、考えの連鎖である自我の移り変わりの中に含まれる下位的な要素であるという理解に繋がっていきました。

もう一つは、解脱に対する考えの手放しがあったように記憶しています(ただこれについては、いまとなっては記憶が薄れてしまい、そういうことがあったかどうか定かでないところもあります)。
2014年の1月中旬ころに、「なんとしても解脱したい、解脱しなければ」等の考えを握りしめ、その考えに翻弄されている自分自身に対する気づきがあったような記憶があります。
そして、それに気づいたとき、解脱を求める余り、「解脱しなければ」等の考えを握りしめていた自分が可笑しくて、暫く笑っていた記憶があります。
(確かそのときのことを、いつもの内面ノートが見当たらなかったのでA4の裏紙に書いたと思うのですが、その裏紙が見当たらないのです。)


次回は、私が解脱の悟りに至るときの経緯等について書きたいと思います。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

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