ハナウタ うたこの「宝物がいっぱい」

自分にとっての「好き」や「嬉しい」を集めて綴る、ささやかなことのブログです。

近所の難しい家

2015年04月20日 | ❺ 追憶の日々

実家のはす向かいに 超がつくほど節約家の一家が住んでいました。

農家じゃないのに ほぼ自給自足的な生活をしていらっしゃいました。

畑を借りて野菜を作り、ニワトリを飼って卵をとる。

近所のスーパーを自転車で回って 捨てるような半端なものを貰ってる。

いいんじゃない、ってことと いいのかな・・・ってことが入り混じってる。

 

庭はほとんどないのですが、家と道の間に柵を作っていないので

道も自分ちの一部のように使っていました。

駐車場として。駐輪場として。それから花壇として。

よく、役所の人ともめてました。

 

また家の南側が人んちの畑に面していて その畑は家庭菜園として貸し出されていたので

(住宅地なのですが、取り残されたように畑があったんです。去年とうとうマンションに

なってしまいましたが)

自分ちに面した1区画を借りて その畦道も含めて庭のように使っていました。

段ボールや発泡スチロールのケース置き場として。

使わなくなった鍋やフライパンなどのゴミ置き場として。

 

極力電気を使いたくないと言って、夜明けとともに起き 日の入りとともに寝る生活。

日が暮れてからは家族全員一部屋に集まり、その部屋以外は消灯です。

灯の消えた家は人の気配もありません。

寒い冬に暖を取るのは 電気でもガスでも灯油でもなく練炭だそうです。

 

3人の子どもはいつも薄着で 痩せこけて 体が汚れていましたが

とても凛としていて 近寄りがたかったです。

近寄りがたかったのは私だけではなかったようで、今思えば子どもに罪はなく気の毒ですが

おじさんもおばさんも恐そうな人だったし、何しろ変わってて・・・・。

 

私が小学校に上がる時、

鍵っ子になるので何かあったらよろしくとあいさつに伺ったおり

お茶を入れていただいたのですが

お茶請けは スイカの皮のぬか漬けでした。

誰のかわからない不気味な歯形がついていて 何度も勧めて貰ったのですが

恐ろしくて手が出せませんでした。

こういうお茶請けを見たのも、

出されたものに手を付けない失礼な母を見たのも初めてでした。

 

ある時 回覧板を持って来てくれたおばさんの服に目が釘づけになりました。

「〇〇工務店」とか「△△水道」とか印刷された薄いペラペラの手ぬぐいを

4枚縫い合わせただけの布を服の代わりに着ていたのです。

 

工務店や水道屋さんはおばさんに広告宣伝料を払ってあげて。

もしくは営業妨害だと訴えて。

 

 

そんなある日私はまた不思議な光景に出合いました。

我が家の周囲を塀に沿ってぐるりと様々な容器が取り囲んでいるのです。

容器には水がなみなみはってあります。

何のまじないだ?

雨乞いか?

それとも新種の猫よけか?

あ・・・うちで猫飼ってるんだからそれはないな。

遊びか?

容器はどれもひん曲がっていて そうとう年期が入ってるから

・・・容器の消毒か?

「お母さんたら何のつもりか知らないけど みっともないからやめてよ」

と言いに行くと母は首を横に振りました。

「あれ、角のおばさんだから」

 

どうやら水を温めて 料理やお風呂に使っているらしい。

いいアイデアかもしれないけど なぜ うちで

・・・・お願い、うちから手を引いて。

自分ちに戻って。

・・・・・と言えるはずもなく、暫く黙認していましたが、

近所の人からはうちがやってると思われてるらしく興味本位にいちいち聞かれるし、

うちとしてもヘンな家として地域で孤立してもなんなので 

とうとう父が 角のおばさんにやめて貰えるよう申し入れることになりました。

その後、あたらずさわらずのお付き合いが出来てるところをみると

父はうまくやってくれたのでしょう。

 

 

ずっと、貧乏なのだと思っていました。

でもそれは大いなる誤解であることが ある日判明したのです。

そこのうち、なんと市内に3件も家を建てていたのです。

3人の子供たちに1件ずつ

将来のことを考えて

 

なにをもって幸せというかは、家族の数、いや 人間の数だけあるということでしょう。

そしてその幸せは人に判断されることではなく 自分が決める事。

住宅街で自給自足的な精神を貫いた両親を 子どもたちは今どう思っているのか

機会があったら是非とも聞いてみたいです。

でも聞く機会ないだろうし、あっても私が聞けないな。

 

今私が知っているのは、末のお嬢さんが結婚して北海道に行っちゃった・・・ってことだけです。