今朝は帰宅後、風呂の工事が午前中に始まる。
風呂の中にあるシャンプーやリンスは勿論、椅子、洗面器、その他の風呂掃除に使用する洗剤やその他・・・。 を風呂の外に出して、脱衣所にあるタオル類などの収納しているクローゼットなどをリビングに移動。
風呂の工事は今日中には完了する予定だけど、場合によっては明日まで掛かるかも。 この風呂工事はメーカーの材質や設計の問題なので、工事費用は当然だけど、無料である。
風呂の中の備品を出している時に壁に黒い染みが見つかる。 昨日に妻が髪染めを使用して、その髪染め剤が飛び散っているのだ。
以前も同じことがあり、その時にはかなり注意をしたのだけど、再度同じことを繰り返している。 そもそも、こうしたことをするなら、どうしてもっと注意して、汚れをしっかりと洗い流すことができないのか?
しかも、風呂のその飛び散りはかなり拡散しているのである。
妻は自分の髪の毛を染めることしか考えていない。 その液剤が付着した時には、洗い落とすにはかなり苦労することも意識していない。
なので、いい加減に洗っているだけである。
それを指摘しながら、私はその汚れを綺麗にしていた。
その時に息子はその事が煩いらしく、私に相当権幕で怒鳴るのである。
とても言えないような暴言を吐き、私に迫る勢いで2階の部屋から降りてきた。 私は特にそんな態度を無視していたけど、かなりの怒りようで、その態度はやっぱり息子はまだ子供の感覚から抜け出していないし、そうした性格なんだろうと改めて認識した。
30歳になり、まだ先を見据えている様子もなく、親元で甘えて育ったままの子供認識から脱することが出来ていない。
自分勝手な言い分、自分中心的な考え方。
こうした若者は少なくないけど、これはある意味では病気的な性格だろうと思って居る。 何かに対して不満を増幅して、それに対する気持ちを爆発させるよな人格は、犯罪者には多々いるのである。
なので、こうした所謂「キレル」性格、そうした心を客観的に判断する事が出来ない人間の行動は、とても危ない。
こうした、ある一点しか見えない視点で行動する人間は、時には平気で他人を傷付けたり、無差別に殺意を抱いたりするのだ。
私の息子もそうした人間とそれほど変る事が無い、人格の持ち主だと思ことは以前から認識している。
感情を制御するだけの抑止能力が欠けている。 カッ!と意識が高ぶると、自分の感情だけが先行して、自分の行為がどのような結果をもたらすのか? 他人や家族、友達や社会の中での自分と言う立場を全く観る能力が欠落する状態だ。 こうした人格は、仮に犯罪行為には至らないかも知れないが、少なくとも、他人を傷つけたり、他人から信頼を失い、迷惑を強制する事に繋がる。
これは、犯罪の範疇ではないかもしれないけど、少なくとも、犯罪者と同じレベルの意識を持っていると言う事を、しっかりと認識して、自分の感情をどのように制御して、世間と調和したり、他人を思いやる気持ちに変える事ができるのか?
少なくとも、こうした人格を作る要素は、人生で何か決定的な屈辱を経験したり、ある意味では未来に対する絶望を経験したり、自分の感情を他者が理解で来ていないと言う意識など、幼少期や思春期にそうした挫折の経験を抑制できない心の病であるだろう。
私も若い頃には親に対する不快感や意識が全く違うこと憤怒したり、感情を抑制できない時も記憶している。
それでも、そうした意識の中でも、自分が絶対的な正義であると言うような、自己中心的な感情にはなれなかった。
それは、世界には想像している以上の人間関係や、生活、経済的な貧困の中で生きている人が多々いる事を認知しているからだろう。
自分の人生の環境だけでは自分を思い描く人生が訪れる事はない。
少なくとも、人間は同じ意識や感情、感覚、経験、洞察力や知識、その他の多くの経験値が全く異なる。
だからこそ、この世で生きる事は、とても難しく、他人との共有として、この世界を生きる必要が有るのである。
少なくとも、生きる事は、間違いなく、全く知らない人の力が必須で、自分もその中の1つの歯車で行かない。 という、認識が必要不可欠なのである。
超有名人でも、この仕組みは変わらない。 どんなに著名な人や、大富豪でも、世の中の一つの歯車でしかない事は同じなのである。
世界は全てが繋がっていて、単独で居られる歯車は存在していない。
すべては、全ての人間は他人との接点を消し去ることは不可能で、それは死すること以外には出来ないのである。
自己中心的な感情や認識は他人との歯車から離脱する行為である。
これは、他人の人生を狂わせ、脅かす行為だ。
私は自分の主張や個性を否定しているのではない。 少なくとも、最低限の他人との接点を自己の主張だけで、狂わることは人間としての責任を放棄した、この世に生きる事を否定する行為だと言うことだ。
これは、死を意味している。
息子もこうした認識を理解し、これが当然の事のとして、人格形成の努力をして欲しいと願いたい。
何時までも、親元でのんきに暮らしている人間は、社会的な経験から認識すべきだし、意識の根底から他人との関わり方をしっかりと意識する事が大切だ。
出なければ、親だけではなく、世間から離れ、人が居ない地で1人で生活する事を選択すべきだろう。
私も本当は、人里離れ、自由気楽に生活が出来るなら、そうした人生を望みたい。 経済的な安定が約束されているなら、誰とも合わないような場所で、静かに生活出来たら嬉しいとも思って居る。
ほとんどの人はそうした生活を望んでも出来ないだろうし、望んでもいない人も多々いるだろう。
さて、今日は少し朝から気分が悪い。
今日は風呂工事が始まっている。