ゴールデンウィーク真っ盛りですね?
我が家の愚息も今朝早くから北海道・稚内にむけて船旅に出発していきました。
なんと10連休です(驚)。
最近とても興味深い情報をいくつか受け取ることがあります。
その源は良くも悪くもFaceBookから。
尊敬する教授のお1人でおこがましいのですが、
その方の友達の1人に加えさせていただいている関係上で
先生の「なんちゃって講義」の一端を垣間見ることもできます。
今朝の先生のノートから:
心に関する私たちの偏見と素朴な5つの疑問
西脇 与作·2016年5月2日
.
誰もが「人には心がある」と思い、そんなことは当たり前のこと、聞くまでもないことと言うのが常識なのだが、その常識こそが曲者で、それは偏見だというのが哲学や科学の側の多数派の立場です。「心が実在する」という立場は科学者や哲学者の中では少数派なのです。
ですから、大多数の科学者、哲学者にとって世間の心に対する常識は偏見ということになるのです。
では、「心がない」とはどのようなことなのか、科学者や哲学者でない人は逆に彼らに尋ねたくなるはずです。何しろ遥か昔から人には心があり、それが人と他の動植物とを区別し、人が優れていることの証拠になってきたのですから、その心の存在を否定されることは心中穏やかならざる事柄だからです。
20世紀以降の科学者や哲学者が心の存在を物質の存在とは別のものとして認めない理由は、自然(nature)の中に超自然な(supernatural)ものを認めたくないからです。自然は物質とその運動からなっていて、心もそれらだけを使って説明したり、つくり出したりできる筈で、そうでなければ、デカルトのように心という物質とは異なるものを最初から認めなければならないからです。ですから、今の科学者や哲学者の大多数の意見は正確には「心を物質の組み合わせによってつくり出し、説明することができる」ということになります。むろん、この意見はまだ科学的に実現された訳ではなく、現在はまだその途上にあります。
その心についての疑問を挙げてみましょう。きっと誰もが一度はもったことのある疑問だと思います。そして、科学も宗教も、過去の聖人も偉人も、私たちが納得できる答えを出してくれたとは考えていないのではないでしょうか。「心とは何か」という代表的な問いに対する模範解答など誰も知りません。代表的な5つの疑問は次のようなものです。それらに対する様々に異なる解答と解答への反論や批判が心についての疑問をさらに解きにくくいものにしてきました。
(1)赤ん坊や認知症の人は心をもつのか
赤ん坊に心があるかないかは、これまでも宗教上の問題(小児洗礼)として問題になってきました。また、法律上の問題(心神耗弱と責任)としても関心をもたれてきました。
(2)「素粒子、原子、分子が存在しなければ、心も存在しない」という言明は正しいか。
唯物論や物理主義は「心が物質的なものでない」ことを否定しますが、デカルトような心身二元論は心と物質の両方を認めます。
(3)心をつくる、心を生み出すことはできるか。
コンピューターは心をもてるか、AIは意識をもてるか、といった問いは今では多くの人が関心をもつ、ポピュラーな問いです。例えば、「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)」に登場したHAL9000は意識をもっていたのでしょうか。
(4)自由に意思することと因果的に決定されていることは両立するか。
出来事や状態の変化が決まっている中で、どのように自由に意思することができるのか、これは今でもとても刺激的な問いです。
(5)意識する、気づくことはどのような経験なのか。
「何かを意識する、何かに気づく」ことは心の活動の中の基本中の基本ですが、それはどのようなことなのか、未だに十分解明されていません。
抜粋終わり。
物事の考え方を自然科学で解き明かそうとするときの心構えみたいなものが
先生の専門、分析哲学あるいは科学哲学です。
あまりに難解でほんのさわりしか凡庸な私には分らないのですが、
大きな知の森に分け入りたいという欲求に心がザワザワします。
日ごろほんの表面上の雑事で物事を判断しているのではないか、と
自問自答すると、実は見える一端でしか価値基準がないかのように
自分の中の既成概念がじゃまをしていることに「あっ!」と気がつくことがあります。
なるべく偏見やそういう後付けされた既成概念をなくすことが大切なのだと思わせてくれるのが
先生の書かれた抜粋のノートの一端かなぁと思ってみたりします。
一見英語力UPには関連がないかのように思うのですが、
キリストが生まれる300年以上も前にギリシャですでに地球と月の距離が測定されていたり、
人の物事の道理を不思議に思い、追求したいという知的好奇心が学問の原点だとすると、
それを基本に成り立ってきた英語の構成などにも深いつながりがありそうで面白いです。
我が家の愚息も今朝早くから北海道・稚内にむけて船旅に出発していきました。
なんと10連休です(驚)。
最近とても興味深い情報をいくつか受け取ることがあります。
その源は良くも悪くもFaceBookから。
尊敬する教授のお1人でおこがましいのですが、
その方の友達の1人に加えさせていただいている関係上で
先生の「なんちゃって講義」の一端を垣間見ることもできます。
今朝の先生のノートから:
心に関する私たちの偏見と素朴な5つの疑問
西脇 与作·2016年5月2日
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誰もが「人には心がある」と思い、そんなことは当たり前のこと、聞くまでもないことと言うのが常識なのだが、その常識こそが曲者で、それは偏見だというのが哲学や科学の側の多数派の立場です。「心が実在する」という立場は科学者や哲学者の中では少数派なのです。
ですから、大多数の科学者、哲学者にとって世間の心に対する常識は偏見ということになるのです。
では、「心がない」とはどのようなことなのか、科学者や哲学者でない人は逆に彼らに尋ねたくなるはずです。何しろ遥か昔から人には心があり、それが人と他の動植物とを区別し、人が優れていることの証拠になってきたのですから、その心の存在を否定されることは心中穏やかならざる事柄だからです。
20世紀以降の科学者や哲学者が心の存在を物質の存在とは別のものとして認めない理由は、自然(nature)の中に超自然な(supernatural)ものを認めたくないからです。自然は物質とその運動からなっていて、心もそれらだけを使って説明したり、つくり出したりできる筈で、そうでなければ、デカルトのように心という物質とは異なるものを最初から認めなければならないからです。ですから、今の科学者や哲学者の大多数の意見は正確には「心を物質の組み合わせによってつくり出し、説明することができる」ということになります。むろん、この意見はまだ科学的に実現された訳ではなく、現在はまだその途上にあります。
その心についての疑問を挙げてみましょう。きっと誰もが一度はもったことのある疑問だと思います。そして、科学も宗教も、過去の聖人も偉人も、私たちが納得できる答えを出してくれたとは考えていないのではないでしょうか。「心とは何か」という代表的な問いに対する模範解答など誰も知りません。代表的な5つの疑問は次のようなものです。それらに対する様々に異なる解答と解答への反論や批判が心についての疑問をさらに解きにくくいものにしてきました。
(1)赤ん坊や認知症の人は心をもつのか
赤ん坊に心があるかないかは、これまでも宗教上の問題(小児洗礼)として問題になってきました。また、法律上の問題(心神耗弱と責任)としても関心をもたれてきました。
(2)「素粒子、原子、分子が存在しなければ、心も存在しない」という言明は正しいか。
唯物論や物理主義は「心が物質的なものでない」ことを否定しますが、デカルトような心身二元論は心と物質の両方を認めます。
(3)心をつくる、心を生み出すことはできるか。
コンピューターは心をもてるか、AIは意識をもてるか、といった問いは今では多くの人が関心をもつ、ポピュラーな問いです。例えば、「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)」に登場したHAL9000は意識をもっていたのでしょうか。
(4)自由に意思することと因果的に決定されていることは両立するか。
出来事や状態の変化が決まっている中で、どのように自由に意思することができるのか、これは今でもとても刺激的な問いです。
(5)意識する、気づくことはどのような経験なのか。
「何かを意識する、何かに気づく」ことは心の活動の中の基本中の基本ですが、それはどのようなことなのか、未だに十分解明されていません。
抜粋終わり。
物事の考え方を自然科学で解き明かそうとするときの心構えみたいなものが
先生の専門、分析哲学あるいは科学哲学です。
あまりに難解でほんのさわりしか凡庸な私には分らないのですが、
大きな知の森に分け入りたいという欲求に心がザワザワします。
日ごろほんの表面上の雑事で物事を判断しているのではないか、と
自問自答すると、実は見える一端でしか価値基準がないかのように
自分の中の既成概念がじゃまをしていることに「あっ!」と気がつくことがあります。
なるべく偏見やそういう後付けされた既成概念をなくすことが大切なのだと思わせてくれるのが
先生の書かれた抜粋のノートの一端かなぁと思ってみたりします。
一見英語力UPには関連がないかのように思うのですが、
キリストが生まれる300年以上も前にギリシャですでに地球と月の距離が測定されていたり、
人の物事の道理を不思議に思い、追求したいという知的好奇心が学問の原点だとすると、
それを基本に成り立ってきた英語の構成などにも深いつながりがありそうで面白いです。
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