Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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「群山郡山歌会」火花飛び散る程、白熱した議論歌論。於:大槻公民館、R6年2024年7月13日土曜日午前十時~

2024年07月13日 15時38分11秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 本日、アララギ派の短歌の流れを汲む、「群山郡山歌会」が開催された。


 完了の助動詞「つ・ぬ」
 「ぬ」日の出、今、太陽が出た。今出て来た。頭出して海や山から。
 日出で「ぬ」。

 「つ」日が出た。完全に。日が昇った。もう出ちゃった。完全に出た。(を含む)。
 日出で「つ」。

 感覚的に覚える。
 
 こういうことを考えてゆくと、自分の歌風、その人なりの、真意がわかってくる。

(生徒さん作)
 正義ある判決の出たその夜は皿洗ふ手に力が入る

 口語と文語が入り混じって、いいのかな(作者の生徒さん)
 口語体ならば、この方が良い(先生)

 「写生」のこの歌の良い所。事実をそのまま詠んでいる。作者の気持ちが入っている。
 
 文語体ならば、「出た」が「出でし」。「力が」が「力の」へ。そのまま、「入る(はいる)」じゃなくて「入る(いる)」。(自然が大事)。

 私が余計な事を言い、「力を」ではどうなのか、と言うと、先生は、「を」だと、ちょっとニュアンスが変わる、という。

 今は口語文語混合でも良いと言われているので(生徒さん)
 短歌で大事なのは下の句、結句。(先生)

 (生徒さん)「いれし」にして。(先生)原文のまま、手を加えない方が良い、と判断。

数を作れば段々わかる。

 短歌結社『群山』、「写生論」・「写実論」=あるものをそのまま写し取る。

 正岡子規→斎藤茂吉→土屋文明、『アララギ派』を引き継ぎ→東北大学教授扇畑忠雄先生へ。扇畑先生は、アララギ派の土屋文明先生の直系、愛弟子。師弟関係を結んだ。

 (生徒さん作)
 びわ実り明日仏前にそなえんと思ひあさはかもずの大群

 昨日、びわをもいで置けば良かったのに、鳥にみんな持ってかれた。
 (あさはか)に対する思い。作者のこう思ったとか、一切ないのが良い歌。
 大群(たいぐん:口語体)→文語体(おおむれ・おおむら)。
 文語体、「群鳥」(むれどり)。「もず」を消せば、ダブらずに、出来るが。
 「そなえんと」を、「そなえんに」の、助詞を「に」に変えたら、そのままでも良い。
 (先生)思い立ったが吉日。
 「そなえん」の助詞「ん」。正岡子規は「ん」。群山の場合は「む」。

 私の歌。
 
 大石寺(たいせきじ)集まり散じて人はかはれど心は変はらず

 (女性生徒さん)わかります。
 (男性生徒さん)むずかしい。人は集まったが、色々歴史上、散り散りにいなくなったが、人の心は変わらないのかな。人は常に、前進し、不変で心は変わらないよ、と言う自分の決意。

 (私)ハッキリ言って。この歌は、早稲田大学の校歌の三番の本歌どり。

 (先生)本人の強い気持ち。私の強い気持ち。
 
 (先生)会津八一(京都奈良を研学した。仏教的な歌、仏像の歌なども発表した人)のような人もいるが…。実際そういう人もいたが…。

 (先生)宗教色はなくした方が良い。

 (先生)
 ex.)斎藤茂吉の論。
 「実相観入」・「実相」=ドイツ語からの翻訳。「観入」=仏教からとった意味をドイツ語からとった。「観入」=観心・観念。

 (先生)仏教にはない。「お寺名は出してもいいが最後の下の句、結句が通じない」

 (先生)もう少しわかるように作って下さい。下の句が大事な所で、真似ちゃうと、(大学校歌など)合わない。この学校関係者、その他、一般的に知られた大学の校歌だから(私wainaiの母も、かつて住み慣れた学生街の早稲田なればこそ)薄々知っている、勘づく人も出て来るから、本歌取りもどうかなと。

 「人」=参拝客(皆、そう考える)。中には生徒さんで、やめてく檀家さん、僧侶、と受け取った人もいた。

 「私」=創価、正信、顕正、の異流義の方々が変わったと捉える。

 私が、まあ、一般論的に、話を譲って、参拝客と一般化しても良いと答えると、先生は、一番大事な所ですよ、と私を捉えて離さない。私は戸田先生を引き合いに出し、戸田城聖第二代会長先生の時代の頃の総本山は、それは人だらけであり、それが三代池田会長の頃も続いていたと答えた。それが昭和時代だったと。

 (先生)
 「詠む人」歌材の真実。
 「読む人」歌の中のその人、作品の真実。
それぞれの立場。歌を読む人は読んでいない。読めない。
 「詠んだ人」と「読む人」の差。

 (私)
 私の立場では、読む人の事なんか初めから考えない。その人に解釈を任せる考え方。明治の短歌の改革者・創始者、歌人の正岡子規と同じ立場である。

 (先生)
 茂吉は何を表現するかで人一倍悩む=二番煎じ、人の使った言葉は使わない。
 「さかしらなみ」茂吉の造語。
 逆白浪。逆白波。白浪。白波。逆波。逆浪。

 (先生)
 私が思い余って、このままでこの歌はゆくんだ、との訴えに、まずは話を聞いてと先生の合いの手が入る。
 「心は(変わらず)」ここで、「心」としたが、心を「われ」としたとして、同じ「われ」でも、二つあり、
 「吾」=身・私。
 「我」=生命・「仏教」の経典では全部が漢字の「我」を使う、と先生はいう。

 (私)
 そこで私が繰り出した御経典の言葉。妙法蓮華経如来寿量品の一節、宗祖日蓮大聖人様の文底秘沈の大法、御悟りの、大事な場面の一節、「我本行菩薩道」をつまびらかに、この場で提言、奉出致したのである。

 今では5分間という短すぎる簡略勤行で五座も寿量品の長行すらも唱えなくなってしまった、創価に対する私からの痛切なる仕返し、お見舞いであった。

 明らかに、大事の法門を、この場にて現出せしめた訳である。破折と皮肉の意味でも。


場面は代わって。(先生)

 最上川さかしらなみの立つ〇〇〇(聞き逃し)ふぶくゆうべとなりにけるかも
 斎藤茂吉の歌。「かも」は「か」と「も」で二つとも詠嘆。
 ふぶくゆうべとなりにけらずや この「や」強い表現。

 茂吉。赤光。けらずや「や」一首ある。
 けり。詠嘆。(短歌の場合は全て)

 斎藤茂吉は命令形は使わない。「已然形」が多い。

「先生の歌」
 男孫十(とお)まり四歳を迎ふれば人生論など語りてみたり

 十(とお)まり=十(あ)まり(古典的省略法・用語)
 (生徒さん)カッコ良い表現。

 (先生)「男孫」・「など」・「みたり」つながっている。男は十三歳で元服。ちょっと人生論でも語ってみたい。ちょっと遠慮がちに。今現在は十五歳。中三。少し大人になって来て、教えて上げたいなあと、けれどもそこまでは入り込めないなあ。

 正岡子規に範を取ったが、最低二つ、二句まで、句を真似てもいいが、三つ、三句以上は盗作かも!

老いてなほ美しきものを吾は見む若かりし日に見えざりしもの

「扇畑忠雄先生(八十一歳)」の歌。
 扇畑先生は歌の意味は全然言っていない。弟子が言っている。実相観入。
(生徒さん・今日来た見学者さん)実相的な歌を歌う場合と、おばあちゃんが赤ちゃんを背負い、手のしわの一つ一つが実相。この歌は観念的ではないのか。

 (女性生徒さん)老境の境地なのかな。

 (先生)この歌、年を取ってからじゃないとわからない気持ち。
 扇畑先生の写実論を実際に読まないと判らないが、写実が基本で大事。
 その奥にあるもの、歌の材料として、作者が匂わす言葉が入ると、
 何を言いたい、入れたいのか。不思議なんだが、短歌は滲み出て来る。


紫陽花の紫色は母の色優しくもあり逞(たくま)しくもあり (女性生徒Kさん作)

(男性生徒さん)母がびわにしろ、柿にしろ、あじさいにしろ、植えて、私らは感謝などもせず、けれども怒らず接してくれて、我々を育てるたくましさ、この歌を読んで走馬灯のように思える。たくましさ生きるすべを我々に与えた。あじさいについて文句など一言も一切言わない母。ただ感動を与える。

(先生)Kさんのお母さんをとても個人的にも知っているので、その実直さが出ていて、良い歌。

(私)私も以前、同じあじさいの題で歌を作ったが、それがこの歌は、レベルが越えたのじゃないか。韻も踏んでいるし。

 (先生)この歌は写実論を述べていて、良い歌、素晴らしい歌。

(最後に先生)若さは力であり、弱さでもある。
 短歌は、数を沢山作れば感覚は磨かれてゆく!
(今日の結論。エピローグ。大団円。)

以上。よしなに。wainai

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