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私の歌論。和歌・短歌の路線。私の歌への志向。正岡子規・その後のアララギ派は、正に日本の伝統歌壇をぶっ壊し、新たなる正統派となった、が正しい!長文失礼

2024年08月12日 07時24分32秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
この文章、メールは、元々は、俳諧、俳句をたしなんでおられる、栃木のKさんに書き送ったものです。彼とは俳句と短歌、という違いはありますが、いずれも定型詩であり、その一定の限られた文文句句に一瞬を込める事は共通性があります。
元は、私の記事のみであり、彼の言葉が一切出て来ない事、私に著作権がある、との判断から、ブログのネタ不足解消の一環に、こうしてコピペ、コピーアンドペーストして、書き置く次第で御座います。長文失礼。

NHK短歌 新版 作歌のヒント Kindle版
永田 和宏 (著)  形式: Kindle版
4.5 5つ星のうち4.5
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上位レビュー、対象国: 日本
taiyaki
5つ星のうち5.0
 害悪の正体
2022年9月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
なぜ近現代の短歌がこれほどまでに面白くないのか、なぜ間伸びした俳句のできそこないのようなものばかりなのかずっと疑問でしたが、この本を読んではっきりと理解しました。

正岡子規ならびにアララギの連中がどのような悪意を持って千年余の文芸の歴史を破壊しつくしたのか、その思想がはっきりと語られています。消滅したはずのアララギの亡霊どもが現代にもうごめく様子がたびたび描写されるのですが、歌会の場がまともな感性を残した歌人を取り囲み寄ってたかって思想を矯正する場になっていて、それを誇らしげに語っているのが耐え難いほどにおぞましいです。

和歌が好きなら八代集を楽しむのが一番良く、結社には絶対に近づいてはいけないと確信しました。
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余りに長文の為、御ヒマな時でも、一読頂けると幸いです。
そして、感想なども、出来れば貰えればとても嬉しいです。

ここで(アマゾンレビュー)述べられているのは、真実じゃないかと思います。
私も、今現在所属の短歌結社「アララギ派」の、東北大学扇畑教授の「群山(むらやま)」という、
結社ですが。

そこは、私は問題があり過ぎると考えています。

短歌の、初心者、中級上級者問わず、
五七五七七に必ずしも則らなくとも良い。ここまでは何となく判る。
しかし、ほとんど会では、文語体が採用されている。

今時、文語体?!

会員で、文語体が苦手な、初心者クラス、学校も余り行かなかった人のみが、
先生から、特別に、口語、時には文語交えて作歌している。

それに、私は以前、先生に、この、NHK短歌の歌壇がある事を言うと、
一度見た事がある、とはいうものの、それらを非常に軽蔑、軽視した目で見て、

そんな、NHKなんかでやっている短歌は、我々、「群山」でやっているような、
「高度な」文語体の格調高い、気高い作歌姿勢なんか理解は到底出来ない。

我々の方が格が上で、それら、判りやすく、現代風にまとめてやってるんだろうけれど、
我々の短歌結社、東北大学教授の扇畑忠雄先生の「群山」には、向かう所敵なしなんだ、という。

何も、年数だけじゃない、と言われるかもしれませんが。

それに、この男の先生の場合、親が郡山市立小学校校長で、歌の先生を元々やっていた。

そして、その奥さん妻、詰まりは、この先生の母親がそれを引き継ぎ、母親が老年に至るまで、
その歌会を細々と、おそらく、やはり、この町を舞台にやっていたのでしょう。

そして、その母親も、寄る年波に勝てずに、息子である先生が六年前から作歌活動、歌の勉強に乗り出した。

実際は、ここ、町の大槻公民館で、実地に教えだしたのが、去年の五、六月頃。

正に、私が本格的に、作歌活動を始めた時期に、
この先生は教え始まった。

要するに、浅いのです。文法も。余り、学校も、安高など私が言っても、どこ吹く風で。

それに、仕事も、営業を主にやって、郡山とか三春他、各地を回ったという。

それだから、私などに、時々、古文法で、私の方から、
先生の間違いを私が呈して、
直させたこともありました。

この先生には、言いたい事は一杯あります。

それだったら、NHK短歌、などの、短歌のマスコミの歌壇などの方に、
今現在の私は魅力を感ずる。

田舎女性、この大槻町で、農家やりながら、余技で短歌でも作ってみっぺ!
などという、この場合、男性でも全く応用できますが、

私はハッキリ言って御免ですね。そんなの。べつに農家がどうのじゃなくて、
卑しいのが嫌だ。都会的なのが良い、じゃなくて、何となく、辺境くさくて。

それに、私は元々はと言えば、「古今和歌集」「新古今和歌集」などの、

平安文学、鎌倉文学、その後の日本の文学に色濃く影響を遺した、

それら、和歌文化に憧れをいだいたのが短歌の出発点でした。

それらを真っ向から否定し尽くした一分派が、この先生や、正岡子規、斎藤茂吉などの、
いわゆる、アララギ派と言われる、私も今も所属している流派の、
その先生言われる、東北大学教授(今は故人)率いた「群山」だった訳です。

出自が最初から違い過ぎた。

そして、先生は、それら、私が志向した、古今集、新古今集は、
貴族文化のものだ、あれは。庶民のものじゃない。この一点張りです。
万葉集こそが、立派な唯一の、認め得る歌集だと。

しかし、その万葉集も、まともに、全巻、一読した人など一握りに過ぎない。
余りに膨大過ぎて。先生も全部は読まず。おそらく、正岡子規も、
若死にしている関係で、一、二回通読したのが最期だったのではないか?
本当に読み込んでいたのか、それも疑問。

そして、又、NHK短歌歌壇に認められ得るような、

現代歌壇にも対抗しようとする。この田舎一流派。

そんな田舎歌壇結社が、大手、首都東京という、
一大文化中心地の、短歌文化圏にケンカを売っている場合かと。

それにそのカラクリに私は最近は気付いてしまった訳です。

その先生が、尊敬する斎藤茂吉、この人の短歌をモチーフに、
だいぶ、長丁場、話を続けて居られて、茂吉は、先生の大の好みの歌人ですが、

私まで触発されてしまい、電子書籍で斎藤茂吉の全集を、
二千円余りで買ってしまった程、先生に私は絶対服従であった。
これは私の意志で買いました。

私はもういいと思うのです。
この歌会に出るのは。

この歌会に出る、私の作歌活動も、
この所、
鈍くなり、
歌が全く出来上がりません。

不思議と、先々月の、
講習会、総本山富士大石寺へと行って以来、

出来上がらなくなってしまいました。

それに、その流派は、最近の、口語体の、短歌には目も向けずに、
文語一辺倒。

公式には、文語体、古文法、旧仮名遣いに限るのがここの掟だ。

こんなんでは、私はもう、納得は出来なくなって来た。

この結社からは、現代の俵万智は絶対に出ないのは確実だ。

私にとり、確かに地の利は良い。

郡山短歌研究会・教室、としては、
この、我が住む町、大槻にあるからして、

非常に至近距離であり、
便利なので、私は我慢もして通った。
とても作歌への熱意も湧き、勉強もたくさんした。

しかし、いかんせん、その短歌結社の、決まり、というか、
掟は、古臭すぎる。
とても現代短歌を認めようとはしない頭の固さ。


あの、高名な、有名所で、北原白秋やら、若山牧水やら、与謝野晶子、
石川啄木ですら、あれらは、アララギ派の傍流で全く関係ないのだからと貶め、
全く認めようとはせず、


われらアララギが本流なんだ、とこうである。
この団体そのものに欠陥を抱えているのに間違いはない。


そして、この先生は、

扇畑先生、前述の、この結社の創始者が、
間違えて、現在の執行部にも理解されているのじゃないかと、
ただいま、来年の一月に発表、投稿の予定を、

東北宮城仙台の、「群山(むらやま)」本部と掛け合い、今、
原稿を執筆中なのだ。

その先生の文の構想を聞くと、扇畑東北大教授は、
従来の、取り巻き達の思想は間違いで、

先生が一人、考えが及んだ、
独自の?思想こそが、扇畑先生のもっとも言いたかった事なのだ、

との、その時の、先生が言うには、

何か、自分の背中の背後辺りから、
そうだ、その通りだ、頑張って書け、
との言葉さえその時に聞こえたという。(本当かな?!)

私は、短歌の世界は、それはそれなりに広いとは思うが、
そんな神懸かりのような話があるのかな、と一人、考えていた。

人望も手伝ってくれてその時には、
本当に、短歌結社一派を成し得たのだろうが、

そうやって、分派に分派を重ねて、支流ばかり増えて、
結局、短歌文化の衰退に手を貸す結果となる。

別にアララギ派が日本から消滅しようとも、
日本の現代歌壇にとっては、困りはしないだろう、明白に。

こんな田舎の、郡山市西部の、大槻町の、公民館で開く、
片田舎の、農民相手の、自分で習い始めた先生で、
やっと、私を始め、男の人も、その男性は昭和の頃、出稼ぎで大阪へ出た人が一人、数少ない男性生徒。

しかし、法華経にも詳しかった、東北岩手の、宮沢賢治は、

そこの農学校の生徒には、見るべき、出世した生徒がいたとは
にわかにはいなかった、信じられない程に。
しかし賢治は、一人孤高であり、その秀才ぶりを発揮した。

何を言いたいかというと、ここで私は、
もう、この歌会を続ける必要性が感じられない。
もう、辞め時、潮時であると。

せっかく、栃木のKさんからは、
歌、短歌の手ほどきとして、
歌会に出る事の意義、重要性、
を去年だったか、教わったばかりではあったが、

この辺が打ち止めの時じゃないか。
去り際は美しくあらねば、との念慮が甚だ深く、
最近では思い致しております。

ただ、地の利だけが勿体ない。この近所にこんなに便利で至近距離で。

願わくは、正岡子規筆頭の、アララギ派じゃなくて、古今和歌集でも教える、
中世の和歌文学・文化を習いたかった。

もっと違う結社、NHKあたりが、短歌教室を、
NHK郡山放送局あたりに開けば、
私など、お金を払ってでも…。

否。今は余計なお金などなくて、
ピアノも習えない有様です。緊縮財政です。

おかげで、金欠病で、定額賃貸読書本、
アマゾンkindleアンリミテッド、月額980円も、
退会して、辞めにした位です。

今の時代、どこも世知辛く、
生活を普通にこなすのもたいへんであります。

余りの長文に、お気に触らぬか、怖れております。
以上。よしなに。wainai、長文、非常に失礼。

※編集後記
私は考えを更に一歩進めて、今までの考えを改めます!この際、思想信条など関係ない。「君子豹変す」この、短歌教室の地の利を活かせる場所、教えの庭は、こんな近所で、自分は非常に恵まれた環境にいると思う。それに今まで気付かなかった自分がバカだった。
とにかく今は自身の暗愚な考えを改めて、仕切り直しをしつつ、関係修繕に努めたい。再度、宜しくお願い致します。
よしなに。
※九月七日土曜日、之を記す。
今日、九月の七日に、短歌教室へ行って参りました。そこでは、いつも通り、和気藹々とした、生徒さん、先生の、短歌の批評合戦が展開されていました。
私も打ち興じては、そこで、発言権も許され、何事もなかったかのように、いつもの私がそこにはおりました。
この、意地の悪い、アマゾンのレビューの事も先生の報告しました。先生は、中には、世の中、色々な人がいるから、玉石混交であり、まるっきり、批判に暮れる人もいるでしょう。それでいいんですよ。言論自由の世の中なんですから。
けれども、私共、「群山」の短歌結社では、アララギ派の流れを汲む、正岡子規→伊藤左千夫→斎藤茂吉→土屋文明→扇畑忠雄東北大学教授、その弟子たる、郡山市立大槻小学校の校長を務められた、國分清雄先生、その後を継いだ先生のお母様恵先生。そして、その子たる、國分滿先生と、脈々とその系譜を引いて、正統派の流れが、我が、アララギ派であり、しかも、「群山」。その時代背景を考えると、胸が自然と熱くなって来る。
 とにかく、私は、この短歌結社「群山」を辞める気は毛頭ない事を、ここに宣言するものである。
 敬具。よしなに。


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