今年もこれで終わりだなー、と、郡山市無量山寿海寺の御講に行って参りました。
太鼓がボンボン、と凄い。読経唱題の後、御住職様の御説法で、創価の間違いについても触れられて、興味深かった。
以前までいたうちの土曜日のヘルパーさんが、御住職様はどんな説法なさるの?と興味津々に聞いてきたので、「創価学会の批判をする」と言うと、
「そんな、しょうもない」と言ってガッカリしていた。
中には、人生の事や社会の事、一般世間の事も言うんだから、私が単に「創価」に興味があるからって、そういう伝え方はダメ、と言ったお寺の先輩もいた。が、ある別の先輩は、「別に創価学会の批判をするからって、そう十把一絡げに残念がるその人もおかしい。創価の批判は、聴くに値する」と言う人もいた。
考えてみれば、そのヘルパーさんも、公明党の市議会議員と接点があったり、選挙ではフレンド票として必ず公明党に入れていたので、これ以上、創価・公明の批判は聞きたくなかったのだろうと思う。しかし、何故か創価学会にはそのヘルパーさんは入会はしないのだった。
私は出来るだけ、そのヘルパーさんがうちに来た時には、日蓮正宗のお話をしていた方である。かなり感化を与えた、と自負する。
しかし、今一歩の所で、こちらも腰が引け、折伏教化に甘かった所もあったとも思う。
土曜ヘルパーさんが、人は年老いてから、キリスト教に入る人もいるんだってね、とその日は妙にキリストびいきの時があった。
あの調子なら、キリスト教にそのヘルパーさんが入ってしまうんじゃないか、と心配もした。
今は全く疎遠になったそのヘルパーさんとは、それ以来、会ってはいない。
あの快活だったヘルパーさんが、幸せである事を祈ると同時に、今日のお寺での御法話を思い出し、一日の充実を感じた。