正確に言うと、1年前の創価学会員時代までは皆と同じように買っていた。年間何万円も宝くじに費やしていた。結局、末等の100円程度しか当たらない。
日蓮正宗の信徒に生まれ変わり、自然と宝くじの馬鹿らしさに気付いた。全国年間交通事故死者数何千人の、交通事故に遭う確率よりも、確率は当然低く、雲を手で掴むような儚さ、馬鹿々々しさにようやく気付いた私がいた。
宝くじに使うお金があるんならば、その分をお寺の御供養に回した方が、遥かに良い。宝くじなんて壮大な無駄遣いだ。私こそきっと当たるんだ、今度こそは、と、虚しい祈りを創価のニセ本尊に捧げても、何にもなりはしなかった。これは壮大な無駄。そんなのは、夢でも何でもなく、只のギャンブル。そんな当たらぬ確率の方が極めて高い賭けには、私には絶対ムリで、儚すぎた。
宝くじを買って当てた人で、余計に人生が狂い、人生が滅茶滅茶になって、前よりも不幸になったり、命を亡くした人もいると言う。欲張りすぎると、碌なことはない。
今では、宝くじの幟(のぼり)をたとえ街角で見ても、横目で見て、振り返りもせず、通り過ぎるのみ。絶対にそんなものには関わり合いたくもない。免疫が出来てしまった、私なのでした。