私は今日、元副講頭の、栃木のKさんと、電話で話した。
その内容たるや、ほとんどが、私の住む周りの地域の、住む人種の、悪い噂の類、勝手な私の、悪口だらけで、実際、私の周りに住む人間は、悪い感じの人ばかりだ、と訴えるものだった。
それを聞いたKさんは、それでは、おんなじ境涯、同じ土俵であり、何の進歩もない、今日はどうしちゃったの?せめて、不軽菩薩のように、相手の中に住む、仏性を呼び起こすような、相手の良い所も見なくちゃ、という。
しかし、私は、それも、法を下げるのみであり、相手に微塵も、仏性などは見当たらない、ろくでもない、箸にも棒にも掛からぬ程の人間達ばかりなんだ、と言い切り、いい募った。
それでKさんは、そういう人達にも、本当は仏法を語らなければいけないし、そして、そういった、下ばかり見ないで、上の方を、自分の規範・模範となるべき、上を見上げないといけない、というので、私は、ここには、そんな良い、人間的に尊敬出来得る人など、皆無に近い、といった。お寺には、一杯、そういった、信用に足る、立派で徳のある人、見習える人がゴロゴロいるけれども、といった。
そうして、Kさんは、それならば、本を読んで、それも良い本を読み、その本の主人公その他の人物や、その尊敬する作者作家に近づける程に、本でも読んでみたら、といった。
そうですねえ、それも私の考えにはある、と私も言い、確かに、私の今日の、今の自分は、下ばかり、そうした、愚劣な、自分よりも劣った世界ばかりに注目していて、ちっとも、上を目指さず、ただでさえ、境涯が下がりっ放しである事に気付いた。
Kさんは、後は御題目だよ、といい、電話をそこでお互い切った。
後になり、今こうして電話を掛け終わり、こうやって、私の愚痴に付き合ってくれる人の存在の有難さを、相手にはホントに迷惑だろうけれども、そんな判り切った事すら判らない、この分からず屋の私めを、軽くは扱わずに、そうやって、育成に、Kさんなりに、この日蓮正宗法華講に於いて、私というこの世で一番、こんなちっぽけな存在の自分ですら、大事に扱ってくれているのかな、などと、その人の情け、有難さを思わずにはいられない、日曜日の午後のひと時であった。
以上。よしなに。wainai