私は昨日、gooブログの、毎日、日記のようにブログを綴る、続けてゆくコツ、のような誘いかけの文句があったので、次のように述べた。
gooブロガーの今日のひとことテーマ:ブログを続けるコツは?
Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)
元々文章を綴るのが好きだったので苦にはならない。これが紙の日記なら数年で挫折してる筈。それよりも、好きなのにピアノが全然練習出来ていない。今はこれが深刻な課題だ。
私なりに、お茶目さを出したつもりだったが、その中に、これはどこの誰とは名乗らせたりはしないが、次のような、ブログの書き方のコツを書いた人がいた。以下は趣意である。
大まかに書き、全部、言いたい事を全て吐き出さない。要点をまとめて、形式的に、メモ程度で抑えて、自分を控える。
多少の違いはあるが、こんな感じだったかも知れない。
ここで、私が異を唱えたいのは、短歌や俳句でもないのに、その、文章に対して、余りにストイックに、ミニマリストの如くに、文章にけじめをつける、詰まりは、言いたい事の十の内、二、か、三くらいで抑えて置け、とこういう感じであった。
私も、短歌を習っている関係上、その、短歌の歌と言うものは、主題が何かさえ、そぎ落としにそぎ落として、言いたい事の、十分の三くらい言えれば良い。とにかく、後は、読む人の意見に任せる事だ、とよく教わった。
しかし、散文の、文章体の場合は、ちょっと違うのではないのか。
或る程度、十のうち、八くらいは、説明が要るのではないのか。
私の短歌の先生にも、私がブロガーだと知って、むしろ、私から教えを乞うが如くに、文章には、一定の、説明的なルールが必要なんでしょう?と聞かれたことがある。
それに対する答えは、その通りですね。一応の、説明、簡単でもいいから、読者にどういう意味で自分はこう書いているのか、その状況判断が必要になる、と答えて置いた。
或る意味、説明的な、導入部も必要だし、それを転じて導く、結果結論へとなだれ込む、勢いの様なものも必要だ。
得てして、文全体が、冗長であってもならないが、説明がない文章、勝手に理解しろ、という文は、果たして読者に受け入れられ、読み手にとって、優しく、好ましい文体なのだろうか。
それはくどくないに越したことはない。簡単明瞭を心がける。私のような、話しの良く脱線する者には、言われたくはないであろうとも思う。
しかし、或る線引きで、一定程度の、説明的、読解力を増すための、書き手の一定の努力が必要であり、しかしそれが、ただ想像しろ、との、押しつけが、どこまで功を奏するのか、私は見ものであると、断言してこの文章の十のうち八は言えたものと思うのである。
要するに、緻密に練り上げられた建築物と、プレハブ小屋のような、極めて簡素で、ありふれた、文章群との違いだろう。
以上。よしなに。wainai