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今朝六時半の、我がお寺での、朝の勤行唱題行。「偶像崇拝」一神教の主張についての私見。否、道理からの破折折伏。

2023年03月05日 09時29分29秒 | 邪宗教キリスト教一神教・邪教占い・統一教会・神社神道・新興宗教・神様系・等々邪教
 以下の長文文章、誠に無礼千万、失礼仕ります。

 今朝は、いつも私は朝は早いが、早くに朝食を終えて、時計を見ると、朝六時になるかどうか、という頃合いであった。
 これはチャンス、お寺、日蓮正宗無量山寿海寺の、朝六時半の、勤行会に間に合うな、と一人合点して、昨日から、私は、この信心を、この六年間に及ぶ、自身が日蓮正宗に入信、帰伏、帰依してからの、自身の間違っていた事や、至らなかった事共を、これからの信心に於いて、悔い改めして、激変、改革、革命を起こすべく、自身のかつての宗教、創価、キリスト、神道等々の、謗法の害悪、悪弊、罪障を全部殲滅して、打ち滅ぼし、罪を滅せんと思い立った。それが、昨日から、今日に至るまでの、自身の偽らざる、気持ちである。
 そして、悠然と、自宅から、愛用のブリヂストンの、婦人用自転車・ママチャリにまたがり、いざ鎌倉、目指すは、我が菩提寺、寿海寺であった。
 そうして、お寺に乗り込み、今日は、御住職様お一人だけであったが、私も朝一番に馳せ参じて、朝の五座の勤行唱題行に励み、この一瞬に全てをぶち込み、私の全生命を賭けて、ひたすらに行に打ち込んだ。この気合は、正に鬼気迫るものであった。私の全生涯を賭けた、必死決死の覚悟の生死を賭けた朝の勤行会であった。
 ようやく、行が終わり、私は、奥の間お仏壇での、これからもう一度、座・場を代えて勤行を為さり、移動為されようとする御住職様へ、今の率直な気持ちを伝えた。
 それは、その時、内心、思っていた事であり、急にふと、自身の心中にくすぶり、この私の人生、半生の中での、疑問点、今では毛嫌いして居る、キリスト教・イスラム教についての、疑義、難点、矛盾点の、御住職様への、自身の自然の発露、であった。

 私は、今まさに、奥の間に向かおうとする、御住職様を、一瞬間だけ呼び止めて、非常に失礼だとは思いつつ、今しか、本日、御住職様と対話、会話、私の疑問点を聞き出し、訴える機会は、今日をおいて全くない、との念慮から、私は、キリスト・イスラム両大宗教の矛盾点を、その場で言い始めた。
 私、曰く、キリスト教・イスラム教とも、両者ともに、現在も、「偶像崇拝禁止」を固く信ずる、一神教である。
 しかし、その実態と言えば、キリスト教会の、東方正教会などは「イコン」と呼ばれる、キリストを模した、絵画、絵を重んじ、それを対象物として、祈っている。他、マリヤ・キリストの聖母子像の絵も拝む。可笑しい。これは、立派な偶像崇拝だ。
 ローマ・カトリック教会なども、十字架に磔(はりつけ)になった、キリスト像(ほとんど、邪宗の既成葬式仏教の仏像を拝むのと同じ感覚である)を拝んだり、聖母マリヤ、聖人像まで、その彫刻された物体を拝む。これは、自身の聖書で禁じられた、偶像崇拝ではないのか?

 そもそもの話、プロテスタント教会でも、簡素な、十字架のみを、教会堂の屋根や、内部の礼拝堂の正面に掲げて居り、信者は、その対象物に向かって、邪教の祈りを捧げる。あの、十字架そのもの、あれこそが、いわゆる「偶像」「偶像崇拝」に当たるのではないのか、どうなんだ、世界のキリスト教会、指導者の全ての成員、信者共よ!

 これらが、キリスト教への、私の疑義、疑問点。しかし、詰まりは、そもそも、神の子キリスト、こうやって一度は人間の肉体を持った、キリスト自身を三位一体の神とした時点で、肉をまとい、肉をもった、人間をかたどった、人間、人を、拝む時点で、それは立派な、人、人物を拝む宗教は、「偶像崇拝」ではないのか?そうと断言し、結論付けられる。これで、キリスト教の、一神教、偶像崇拝ではないと自身の言い訳は、全くもって通用しない事になる。これをまずは、うちのお寺の御住職様に早朝、訴えた。

 それから、イスラム教にも言いたい事共があったので、その場で申し上げた。イスラム教は厳格な宗教であり、絶対に、これも、「偶像崇拝」を認めはしない。頑なさでは、キリスト以上である。
 しかし、皆、イスラム信徒、ムスリムは、毎日、一日に確か五度、五回、アラビアのメッカに向かって、平伏して礼拝を捧げる。
 そのメッカの祈りの対象物、建築が、「カーバ神殿」であり、立派に壁面など装飾されて、御殿が建っている。
 しかし、受け取りようによっては、その、建築物に向かって拝んでいるから、「偶像崇拝」には当たらない、と彼らは皆主張するが、建築物は、立派な「モノ」である。モノ以外の、何者でもない。形を現に持った、形ある「モノ」を彼らは、実際にも拝んでいる。
 これを、我々は何にも、モノなんかは拝んでいない、心の中に最終預言者「マホメット」が定め教えた、「神・アラー」を思い浮かべ、拝んでいるんだとの、ウソの八百、何百万代言を言い募られても、これは、ハッキリ言って、イスラム教の弱み、自己矛盾点ではないのか?
 私は、彼らが、そんな、「偶像崇拝絶体禁止」と言った所で、この、ウソばっかり、ウソっぱちを言い、つくな、このオンツァ(福島方言)めが、と罵るのみである。
 だって、自己矛盾の最たる、教えの根幹が、こんなに曲がり狂っている宗教が、良くも今までこの時代現代まで生き延びて来て、その矛盾点を誰にも指摘されず、追及の手が為されなかったものだなと、皮肉の意味で、つくづく、感心する。

 そもそも、一神教にせよ何にせよ、最終結論としては、私ども人類、人の目の前の、この御身の前に、「神を立てた」時点で、全ての矛盾点が噴き出す、端緒、基と成ってるんだという、根本原理が、この人たち、一神教創始の、ユダヤ教も含めて、キリスト、イスラム両大宗教(現時のみに於いて)には、矛盾の根本には在るんだという、この事実を鑑み、貴方方には是非、知って頂きたい。
 自分らでは、真実の神、真の神だと認識し、それを元に無用な戦争、戦乱状態を、これら一神教共は、この何千年の間の世界史の中で、繰り広げたが、全てはこの、自分という一個の人間の目の前に「神がいる、おわす」との妄念、妄想、幻覚に満ち満ちた、「神様信仰」の限界性が、ここにある。神を立てた瞬間から、一切の矛盾が噴出した。この最初に、こんな思想を初めて考え出した地球最初の人物は、その罪の重さで、堕地獄行の所業で、今頃は、地獄の業火を浴びている真っ最中であろう。
 これは、この我が日本国の邪教「神社神道」にも立派に譬えて言えて、皆、一神教もすべて、仏教の内道宗教に対する「外道宗教」の限界性、矛盾性の属する問題点を抱えた宗教共に過ぎないのである。
 要するに、これら邪教の淫祀邪教の類が、今日の世界中を、邪師による邪義、邪法、邪道、邪説、邪淫に貪り耽り飛び付き、遊び戯れる、愚かしい、時には、自身の正当性を訴える為に怒りに燃え、愚かにもなり得る宗教、これらが、今日の世界の宗教界を席巻している姿にしか過ぎない。
 これらは、内道仏教の高度な御教えにも尚の事、尚更劣り、それらは、今申した、仏教上の大罪、貪瞋痴の三毒、貪り、いかり、おろか、の三つの大罪業を詰む、堕地獄行そのものである。これら宗教からは、早くに即刻、退去、退出、脱会、断絶、破棄、早期に諦めて、詰まりは、明らかに究めて、辞めるべきである。

 「偶像崇拝禁止」という面では、そんな教えは、日蓮正宗では何のこだわりも無く、一切禁止もしては居らぬが、しかし、日蓮正宗では、仏像は一切拝まず、「南無妙法蓮華経」の、御題目の御文字を、ただ一心になってお祈りする。対象物は、板であったり、紙幅ではあるのだが、一切は、そこに書かれた御文字を拝むのであり、正に我らこそ、それら、一神教で説く所の、「偶像崇拝禁止」の教説にもかなう宗教宗派なのではないのか。勿論、そんな拘りは、一切、日蓮正宗では最初から説かないが。
 勿論、日蓮正宗も、イスラム教に負けぬほど、頑なで、厳格である。ハリガネ宗の別名が、我が宗である。
 
 というような事共を朝のお寺での、朝勤行の後に、これ以下に、極、簡素、簡単明瞭に御住職様へ、自身が考える所を短めにこの文章よりも、あっさりとして簡潔に述べると、御住職様は、「だから、それら、キリスト・イスラムなんてのは、最初っから間違っている。誰が考えたって、おかしいものはおかしいんだから、○○君も、良ーく判ったんだから、これから折伏してもいいし、とにかく、最初から間違った教えなんだからそれらの教えは。囚われる必要も、全く無く、我ら日蓮正宗は、もっと大きな気持ち、構えで、臨んだらいい。」と仰られた。

 御住職様を呼び止めて、そんなに長い時では無かったが、一応、奥の間に向かおうとする御住職様の貴重な御時間を私などの為に、勿体なくも、私はひとくさり、自論をぶち上げ、申し上げた結果、五分や十分、御住職様を呼び止め待たせてしまったのは事実なので、その場で自身の非礼を丁重に詫びつつ、改めて御住職様には自身が受けた感謝の意と、帰り際の御挨拶を交わして、その場を後にして、お寺の玄関を出て、駐車場に止めてある、自身のお気に入りの、わざわざお寺の近所の、個人自転車バイク店、林サイクルで購入した、大事な高価なブリヂストンの内転式三段式ギア自転車にまたがり、又もや、今度は我が家へと一気に一直線に帰路に向かう、私なのであった。

 今日は、今日も、良い一日と成りそうな予感に包まれている。今日という日を寿ぎたい。実にいい気分、いい一日だ。

 以上。よしなに。wainai


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3 コメント

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無題 (OKSure)
2023-03-05 16:04:39
御住職が本堂での勤行の後に「奥の間」?で勤行されているということは知りませんでした。もしそれが本当のこととして、これから勤行に行かれる御住職を遮って話しかけるのはあまり良いこととは言えませんね。それでも耳を傾けてご指導までしてくださったのは有難いことです。
ところで、「奥の間」とはどこですか?「控室」のこと?それとも庫裏(プライベートスペース)?それとも2階の部屋でしょうか。興味深い話です。
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Unknown (wainai123753)
2023-03-05 16:31:53
それでもねえ、奥様公認で、以前、やはり御住職様が奥の間に向かわれる途中を、私が、その時、私の家の過去帳の書写、書き加え等々を頼みたいと奥様に申し出ると(私は少し遅れてその日の朝の勤行の時に、奥様と直接掛け合った)、その、奥の間に向かう途中の御住職様に、今、言った方が、お話した方が良い、と言われて、その場で、詰まりは、本堂から階段を降りた、下の、受付前で、御住職様と対面して、直接、打ちから持って来た過去帳をお渡し出来、御住職様に、かなり詳しく、この時は、うちのおばあちゃんと、その息子の、長男坊の末っ子だったうちの叔父さん、この二人の、人生と言いますか、どんな風な人生、生業を営み、生きて死んだかを、事細かに話しましたよ。この時も。それは、今日よりも、たしかに長話を、この時は、私の大事な二人の血のつながった一族の話ですから、大分長い事、やりました。
けれでも、御住職様は、血相一つ変えられる事無く、むしろ笑顔で、この事共を、興味深くお話を聞いて下さり、私としても非常なる満足感をもってして、うちの大事な過去帳を、この時御住職様に、受け取って頂きました。話の要典だけ話せば良かったと、今は思いますが、後の祭りです。
今日だって、御住職様は、嫌な顔一つせずに、私の懇々とする話に逐一頷いて、まるで私の言い分に同意するかの如くに聞いていらして、むしろ、賛意を示して居られるかのようでした。
御住職様は、「だから、そんな、邪教共は構ったってしょうがないから、○○君(私)が折伏しに行ったって、一向に構わないし、頑張りなさい」ってなもんですよ。先生(御住職様)は、私が常々、頭がいいんだから、それ位、○○君ならば、判るでしょう!と仰られて居りますが、御住職様の前では、平気で、
「私は、こう見えても、本当に、基本、基礎が出来ていない、『バカ者』なんです」と、いつもお答え致して居るんですが、いつもそれを打ち消すように、「頭いいんだから」それは、いろんな学校を経験して、悪知恵が付いているのかも知れないし、自分でも判らないけれども、しかし、自分は、決して、御住職様が言うような「賢く、頭がいい」等とは、自身、思った事等一切ありませんよ。何買い被ってんだって話。
私はそんなに、頭がいい訳ではありません。それが証拠に、最近では若年ボケか゚、別の部屋に来て、何しに来たんだか分らなかった事がありました。つい最近です。
これのどこが頭がいいのか、人に占ってもらいたい位です。
ちなみに、奥の間とは、お仏壇がしつらえられてある、仏間、二部屋繋がった、いつも、本堂が法事の時に使う部屋です。そこに、御住職様は参られます。
以上。よしなに。wainai
返信する
しょっちゅう…。 (wainai123753)
2023-03-05 18:09:38
しょっちゅうですよ。御住職様が、朝の五座の勤行を終えてから、「奥の間」にて、再度、勤行を為さるのは。
Kさんは、遠い栃木県に居て、そこに居るから、知る由もない。しかし、私より、Kさんの方が大先輩であり、福島県にも在住為されていたのだから、当然知っているのを前提に、このコメント記事を書いたのですが、意外でしたね。Kさんともあろう人が、知らない情報だったなんて。
まさか物忘れ、はないでしょうけれどもね。そんなに、お寺の事が、知らない、分からないんですか?何で私が知ってるのかを、疑問にも思う共思いますよ、当然。
私は、お寺は大槻町の中の、「土瓜1-100」にあり、うちも、大槻町にあり、極めて至近距離です。これは、地の利といいますか、遠方の方には、必ず私は羨ましがられます。
これなどは、今の役職は知らないですが、当時「婦人部長」で、私の地区の担当ボス、女性の先輩直属上司の、O合さんなどは、
「お寺の地元の、お寺の近くに近くに自分の家がそばにあるって事は、これは凄い事なんだよ、○○君(私)。それも一つの功徳なんだから、今の幸せをかみしめて、信心を頑張るんだよ!!!」と仰られ、それと類似する事を、お寺の奥様にも有難くもわたくしに仰られた事がありました。
実に私は、恵まれている。以前、私が去年の、八月前に、九月二日に入院するんですが、それ以前の何月かに、
H田講頭が、私に、法華太鼓を叩いてみないか、と打診された事がありました。
今は、勿体なかったなあ、とは思いますが、いろんな、御高齢の、S楽さんなどに相談すると、そんなの辞めちまいな、今更そんな太鼓叩きなんてアンタがやってどうすんの。
私も、H田さんに、自分は音痴で、歌が元々下手であり、音感がないからダメだ、というと、
御住職様も、あまり大きな声では言えないが、音痴な方だけれども、あれだけ立派に、太鼓が叩ける、大丈夫だよ、と仰る。
でも、s楽さんの手前、この話は、丁重にお断りしました。
今の、私がこのお寺では、誰も相手にされない、劣勢の立場に追い込まれていて、敵?はいないんだけれども、何とも人望にも恵まれずに、一匹狼を気取った風の自分には、今から考えると、非常に勿体ない、又とないお話であったと、あの頃のH田さんも、私には控えめにお話になる方、私を一歩持ち上げていました。
曰く、「○○さんは、どこで、この宗のお経を覚えたの?」
私「元々出来たんです。アマゾンの『御書』のレビューでも書いたんですが、当時、見よう見まねで、日蓮正宗の、本物の勤行要典を見て、出来てしまったんですよ。五座も三座も!」と言うと、
H田さん「それは、前世で、絶対に、正宗信徒をしていた証だよ。そうじゃなかったら、そんな芸当、出来ないよ。第一、私だって、先輩に付きっ切りで指導をして頂いて、出来るようになったのが、一、二年は掛かったからね。最初の頃の私の勤行なんて、酷いものだったよ!」
というものでした。
こういった、H田さんとの、楽しい思い出も、今は、電話もメールも、Facebookも、遮断、ブロックされて、講頭さんからは、一切無視、シカトですもんねえ。やってられませんわ。自分のみが不憫で、可哀想でねえ。これが為に、泣いていた事共もありましたよ。
自業自得とはいえ、あまりに冷たい所業。何度仕返ししようかと思ったか。
或る時、齋藤孝著「心が強い人は皆、『支える言葉』を持っている」の電子書籍を購入。その本の中の、藤子F不二雄さんの言葉に、大体において
「悪い事をされたら、それに対しては善で、良い事をして、返してあげよう」(趣意)との言葉を見つけて、ハタと考えた訳です。私がどんなに、人から悪さ、悪事を為されたとしても、善事で、良い事をして返してあげれば、立派な君子、仏様まではいかないだろうが、菩薩様位までは行くんではないのか、こう思い立ち、それを実行致しました。
詰まりは、前日までは、その講頭に対して、自身も対抗措置として、電話もメールもブロックするわー、Facebookも遮断措置。そんなみっともない、おんなじ土俵に乗らないで、こちらが一歩、大人、君子になった風に振舞ったらどうだ、こう、この本一冊で、考えがものの見事、代わった。
これを、私の思考転向と申して、君子豹変す、であり、自身日々更新を続けて居り、アップデートを施して、毎日を吟味、反省を一日の終わりには必ず致して、振り返り、自制、自省して、この人生を生き抜いて居ります。
この文章気に入りました。これも、本文記事に採用させて頂きます。自分のブログだから、権利は自分にあります。問題は有りません、一切合切。
以上。よしなに。wainai
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