以下の長文文章、誠に無礼千万、失礼仕ります。
今朝は、いつも私は朝は早いが、早くに朝食を終えて、時計を見ると、朝六時になるかどうか、という頃合いであった。
これはチャンス、お寺、日蓮正宗無量山寿海寺の、朝六時半の、勤行会に間に合うな、と一人合点して、昨日から、私は、この信心を、この六年間に及ぶ、自身が日蓮正宗に入信、帰伏、帰依してからの、自身の間違っていた事や、至らなかった事共を、これからの信心に於いて、悔い改めして、激変、改革、革命を起こすべく、自身のかつての宗教、創価、キリスト、神道等々の、謗法の害悪、悪弊、罪障を全部殲滅して、打ち滅ぼし、罪を滅せんと思い立った。それが、昨日から、今日に至るまでの、自身の偽らざる、気持ちである。
そして、悠然と、自宅から、愛用のブリヂストンの、婦人用自転車・ママチャリにまたがり、いざ鎌倉、目指すは、我が菩提寺、寿海寺であった。
そうして、お寺に乗り込み、今日は、御住職様お一人だけであったが、私も朝一番に馳せ参じて、朝の五座の勤行唱題行に励み、この一瞬に全てをぶち込み、私の全生命を賭けて、ひたすらに行に打ち込んだ。この気合は、正に鬼気迫るものであった。私の全生涯を賭けた、必死決死の覚悟の生死を賭けた朝の勤行会であった。
ようやく、行が終わり、私は、奥の間お仏壇での、これからもう一度、座・場を代えて勤行を為さり、移動為されようとする御住職様へ、今の率直な気持ちを伝えた。
それは、その時、内心、思っていた事であり、急にふと、自身の心中にくすぶり、この私の人生、半生の中での、疑問点、今では毛嫌いして居る、キリスト教・イスラム教についての、疑義、難点、矛盾点の、御住職様への、自身の自然の発露、であった。
私は、今まさに、奥の間に向かおうとする、御住職様を、一瞬間だけ呼び止めて、非常に失礼だとは思いつつ、今しか、本日、御住職様と対話、会話、私の疑問点を聞き出し、訴える機会は、今日をおいて全くない、との念慮から、私は、キリスト・イスラム両大宗教の矛盾点を、その場で言い始めた。
私、曰く、キリスト教・イスラム教とも、両者ともに、現在も、「偶像崇拝禁止」を固く信ずる、一神教である。
しかし、その実態と言えば、キリスト教会の、東方正教会などは「イコン」と呼ばれる、キリストを模した、絵画、絵を重んじ、それを対象物として、祈っている。他、マリヤ・キリストの聖母子像の絵も拝む。可笑しい。これは、立派な偶像崇拝だ。
ローマ・カトリック教会なども、十字架に磔(はりつけ)になった、キリスト像(ほとんど、邪宗の既成葬式仏教の仏像を拝むのと同じ感覚である)を拝んだり、聖母マリヤ、聖人像まで、その彫刻された物体を拝む。これは、自身の聖書で禁じられた、偶像崇拝ではないのか?
そもそもの話、プロテスタント教会でも、簡素な、十字架のみを、教会堂の屋根や、内部の礼拝堂の正面に掲げて居り、信者は、その対象物に向かって、邪教の祈りを捧げる。あの、十字架そのもの、あれこそが、いわゆる「偶像」「偶像崇拝」に当たるのではないのか、どうなんだ、世界のキリスト教会、指導者の全ての成員、信者共よ!
これらが、キリスト教への、私の疑義、疑問点。しかし、詰まりは、そもそも、神の子キリスト、こうやって一度は人間の肉体を持った、キリスト自身を三位一体の神とした時点で、肉をまとい、肉をもった、人間をかたどった、人間、人を、拝む時点で、それは立派な、人、人物を拝む宗教は、「偶像崇拝」ではないのか?そうと断言し、結論付けられる。これで、キリスト教の、一神教、偶像崇拝ではないと自身の言い訳は、全くもって通用しない事になる。これをまずは、うちのお寺の御住職様に早朝、訴えた。
それから、イスラム教にも言いたい事共があったので、その場で申し上げた。イスラム教は厳格な宗教であり、絶対に、これも、「偶像崇拝」を認めはしない。頑なさでは、キリスト以上である。
しかし、皆、イスラム信徒、ムスリムは、毎日、一日に確か五度、五回、アラビアのメッカに向かって、平伏して礼拝を捧げる。
そのメッカの祈りの対象物、建築が、「カーバ神殿」であり、立派に壁面など装飾されて、御殿が建っている。
しかし、受け取りようによっては、その、建築物に向かって拝んでいるから、「偶像崇拝」には当たらない、と彼らは皆主張するが、建築物は、立派な「モノ」である。モノ以外の、何者でもない。形を現に持った、形ある「モノ」を彼らは、実際にも拝んでいる。
これを、我々は何にも、モノなんかは拝んでいない、心の中に最終預言者「マホメット」が定め教えた、「神・アラー」を思い浮かべ、拝んでいるんだとの、ウソの八百、何百万代言を言い募られても、これは、ハッキリ言って、イスラム教の弱み、自己矛盾点ではないのか?
私は、彼らが、そんな、「偶像崇拝絶体禁止」と言った所で、この、ウソばっかり、ウソっぱちを言い、つくな、このオンツァ(福島方言)めが、と罵るのみである。
だって、自己矛盾の最たる、教えの根幹が、こんなに曲がり狂っている宗教が、良くも今までこの時代現代まで生き延びて来て、その矛盾点を誰にも指摘されず、追及の手が為されなかったものだなと、皮肉の意味で、つくづく、感心する。
そもそも、一神教にせよ何にせよ、最終結論としては、私ども人類、人の目の前の、この御身の前に、「神を立てた」時点で、全ての矛盾点が噴き出す、端緒、基と成ってるんだという、根本原理が、この人たち、一神教創始の、ユダヤ教も含めて、キリスト、イスラム両大宗教(現時のみに於いて)には、矛盾の根本には在るんだという、この事実を鑑み、貴方方には是非、知って頂きたい。
自分らでは、真実の神、真の神だと認識し、それを元に無用な戦争、戦乱状態を、これら一神教共は、この何千年の間の世界史の中で、繰り広げたが、全てはこの、自分という一個の人間の目の前に「神がいる、おわす」との妄念、妄想、幻覚に満ち満ちた、「神様信仰」の限界性が、ここにある。神を立てた瞬間から、一切の矛盾が噴出した。この最初に、こんな思想を初めて考え出した地球最初の人物は、その罪の重さで、堕地獄行の所業で、今頃は、地獄の業火を浴びている真っ最中であろう。
これは、この我が日本国の邪教「神社神道」にも立派に譬えて言えて、皆、一神教もすべて、仏教の内道宗教に対する「外道宗教」の限界性、矛盾性の属する問題点を抱えた宗教共に過ぎないのである。
要するに、これら邪教の淫祀邪教の類が、今日の世界中を、邪師による邪義、邪法、邪道、邪説、邪淫に貪り耽り飛び付き、遊び戯れる、愚かしい、時には、自身の正当性を訴える為に怒りに燃え、愚かにもなり得る宗教、これらが、今日の世界の宗教界を席巻している姿にしか過ぎない。
これらは、内道仏教の高度な御教えにも尚の事、尚更劣り、それらは、今申した、仏教上の大罪、貪瞋痴の三毒、貪り、いかり、おろか、の三つの大罪業を詰む、堕地獄行そのものである。これら宗教からは、早くに即刻、退去、退出、脱会、断絶、破棄、早期に諦めて、詰まりは、明らかに究めて、辞めるべきである。
「偶像崇拝禁止」という面では、そんな教えは、日蓮正宗では何のこだわりも無く、一切禁止もしては居らぬが、しかし、日蓮正宗では、仏像は一切拝まず、「南無妙法蓮華経」の、御題目の御文字を、ただ一心になってお祈りする。対象物は、板であったり、紙幅ではあるのだが、一切は、そこに書かれた御文字を拝むのであり、正に我らこそ、それら、一神教で説く所の、「偶像崇拝禁止」の教説にもかなう宗教宗派なのではないのか。勿論、そんな拘りは、一切、日蓮正宗では最初から説かないが。
勿論、日蓮正宗も、イスラム教に負けぬほど、頑なで、厳格である。ハリガネ宗の別名が、我が宗である。
というような事共を朝のお寺での、朝勤行の後に、これ以下に、極、簡素、簡単明瞭に御住職様へ、自身が考える所を短めにこの文章よりも、あっさりとして簡潔に述べると、御住職様は、「だから、それら、キリスト・イスラムなんてのは、最初っから間違っている。誰が考えたって、おかしいものはおかしいんだから、○○君も、良ーく判ったんだから、これから折伏してもいいし、とにかく、最初から間違った教えなんだからそれらの教えは。囚われる必要も、全く無く、我ら日蓮正宗は、もっと大きな気持ち、構えで、臨んだらいい。」と仰られた。
御住職様を呼び止めて、そんなに長い時では無かったが、一応、奥の間に向かおうとする御住職様の貴重な御時間を私などの為に、勿体なくも、私はひとくさり、自論をぶち上げ、申し上げた結果、五分や十分、御住職様を呼び止め待たせてしまったのは事実なので、その場で自身の非礼を丁重に詫びつつ、改めて御住職様には自身が受けた感謝の意と、帰り際の御挨拶を交わして、その場を後にして、お寺の玄関を出て、駐車場に止めてある、自身のお気に入りの、わざわざお寺の近所の、個人自転車バイク店、林サイクルで購入した、大事な高価なブリヂストンの内転式三段式ギア自転車にまたがり、又もや、今度は我が家へと一気に一直線に帰路に向かう、私なのであった。
今日は、今日も、良い一日と成りそうな予感に包まれている。今日という日を寿ぎたい。実にいい気分、いい一日だ。
以上。よしなに。wainai
ところで、「奥の間」とはどこですか?「控室」のこと?それとも庫裏(プライベートスペース)?それとも2階の部屋でしょうか。興味深い話です。
けれでも、御住職様は、血相一つ変えられる事無く、むしろ笑顔で、この事共を、興味深くお話を聞いて下さり、私としても非常なる満足感をもってして、うちの大事な過去帳を、この時御住職様に、受け取って頂きました。話の要典だけ話せば良かったと、今は思いますが、後の祭りです。
今日だって、御住職様は、嫌な顔一つせずに、私の懇々とする話に逐一頷いて、まるで私の言い分に同意するかの如くに聞いていらして、むしろ、賛意を示して居られるかのようでした。
御住職様は、「だから、そんな、邪教共は構ったってしょうがないから、○○君(私)が折伏しに行ったって、一向に構わないし、頑張りなさい」ってなもんですよ。先生(御住職様)は、私が常々、頭がいいんだから、それ位、○○君ならば、判るでしょう!と仰られて居りますが、御住職様の前では、平気で、
「私は、こう見えても、本当に、基本、基礎が出来ていない、『バカ者』なんです」と、いつもお答え致して居るんですが、いつもそれを打ち消すように、「頭いいんだから」それは、いろんな学校を経験して、悪知恵が付いているのかも知れないし、自分でも判らないけれども、しかし、自分は、決して、御住職様が言うような「賢く、頭がいい」等とは、自身、思った事等一切ありませんよ。何買い被ってんだって話。
私はそんなに、頭がいい訳ではありません。それが証拠に、最近では若年ボケか゚、別の部屋に来て、何しに来たんだか分らなかった事がありました。つい最近です。
これのどこが頭がいいのか、人に占ってもらいたい位です。
ちなみに、奥の間とは、お仏壇がしつらえられてある、仏間、二部屋繋がった、いつも、本堂が法事の時に使う部屋です。そこに、御住職様は参られます。
以上。よしなに。wainai
Kさんは、遠い栃木県に居て、そこに居るから、知る由もない。しかし、私より、Kさんの方が大先輩であり、福島県にも在住為されていたのだから、当然知っているのを前提に、このコメント記事を書いたのですが、意外でしたね。Kさんともあろう人が、知らない情報だったなんて。
まさか物忘れ、はないでしょうけれどもね。そんなに、お寺の事が、知らない、分からないんですか?何で私が知ってるのかを、疑問にも思う共思いますよ、当然。
私は、お寺は大槻町の中の、「土瓜1-100」にあり、うちも、大槻町にあり、極めて至近距離です。これは、地の利といいますか、遠方の方には、必ず私は羨ましがられます。
これなどは、今の役職は知らないですが、当時「婦人部長」で、私の地区の担当ボス、女性の先輩直属上司の、O合さんなどは、
「お寺の地元の、お寺の近くに近くに自分の家がそばにあるって事は、これは凄い事なんだよ、○○君(私)。それも一つの功徳なんだから、今の幸せをかみしめて、信心を頑張るんだよ!!!」と仰られ、それと類似する事を、お寺の奥様にも有難くもわたくしに仰られた事がありました。
実に私は、恵まれている。以前、私が去年の、八月前に、九月二日に入院するんですが、それ以前の何月かに、
H田講頭が、私に、法華太鼓を叩いてみないか、と打診された事がありました。
今は、勿体なかったなあ、とは思いますが、いろんな、御高齢の、S楽さんなどに相談すると、そんなの辞めちまいな、今更そんな太鼓叩きなんてアンタがやってどうすんの。
私も、H田さんに、自分は音痴で、歌が元々下手であり、音感がないからダメだ、というと、
御住職様も、あまり大きな声では言えないが、音痴な方だけれども、あれだけ立派に、太鼓が叩ける、大丈夫だよ、と仰る。
でも、s楽さんの手前、この話は、丁重にお断りしました。
今の、私がこのお寺では、誰も相手にされない、劣勢の立場に追い込まれていて、敵?はいないんだけれども、何とも人望にも恵まれずに、一匹狼を気取った風の自分には、今から考えると、非常に勿体ない、又とないお話であったと、あの頃のH田さんも、私には控えめにお話になる方、私を一歩持ち上げていました。
曰く、「○○さんは、どこで、この宗のお経を覚えたの?」
私「元々出来たんです。アマゾンの『御書』のレビューでも書いたんですが、当時、見よう見まねで、日蓮正宗の、本物の勤行要典を見て、出来てしまったんですよ。五座も三座も!」と言うと、
H田さん「それは、前世で、絶対に、正宗信徒をしていた証だよ。そうじゃなかったら、そんな芸当、出来ないよ。第一、私だって、先輩に付きっ切りで指導をして頂いて、出来るようになったのが、一、二年は掛かったからね。最初の頃の私の勤行なんて、酷いものだったよ!」
というものでした。
こういった、H田さんとの、楽しい思い出も、今は、電話もメールも、Facebookも、遮断、ブロックされて、講頭さんからは、一切無視、シカトですもんねえ。やってられませんわ。自分のみが不憫で、可哀想でねえ。これが為に、泣いていた事共もありましたよ。
自業自得とはいえ、あまりに冷たい所業。何度仕返ししようかと思ったか。
或る時、齋藤孝著「心が強い人は皆、『支える言葉』を持っている」の電子書籍を購入。その本の中の、藤子F不二雄さんの言葉に、大体において
「悪い事をされたら、それに対しては善で、良い事をして、返してあげよう」(趣意)との言葉を見つけて、ハタと考えた訳です。私がどんなに、人から悪さ、悪事を為されたとしても、善事で、良い事をして返してあげれば、立派な君子、仏様まではいかないだろうが、菩薩様位までは行くんではないのか、こう思い立ち、それを実行致しました。
詰まりは、前日までは、その講頭に対して、自身も対抗措置として、電話もメールもブロックするわー、Facebookも遮断措置。そんなみっともない、おんなじ土俵に乗らないで、こちらが一歩、大人、君子になった風に振舞ったらどうだ、こう、この本一冊で、考えがものの見事、代わった。
これを、私の思考転向と申して、君子豹変す、であり、自身日々更新を続けて居り、アップデートを施して、毎日を吟味、反省を一日の終わりには必ず致して、振り返り、自制、自省して、この人生を生き抜いて居ります。
この文章気に入りました。これも、本文記事に採用させて頂きます。自分のブログだから、権利は自分にあります。問題は有りません、一切合切。
以上。よしなに。wainai