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初めから世界宗教には向いていなかったユダヤ地方宗教発の表紙を代えただけの無様な外道『キリスト教』について

2024年02月03日 12時36分01秒 | 邪宗教キリスト教一神教・邪教占い・統一教会・神社神道・新興宗教・神様系・等々邪教
 日蓮正宗、宗祖日蓮大聖人様の御金言集『御書』(平成新編日蓮大聖人御書・大石寺)日蓮正宗信徒の各家庭の御本尊様に次ぐ、御宝物(ごほうもつ)の書籍。
 こちらも、法華経(「新編・妙法蓮華経幷開結・大石寺」)。お経と言えば、これ。
 次も、日蓮正宗の歴代猊下様の御言葉集、勿論大聖人様、釈尊の法華経のダイジェスト(抜粋)、等々の文書の書籍。(「日蓮正宗聖典」)これら書籍が、日蓮正宗の三証の内の、文証・理証・現証の体現化をしつつ、文証では確実に、文献上の証拠としての、一番の一般大衆への訴求力、第一歩にも二歩、三歩ともなっている。

 対するこちらは、キリスト教徒の正典、聖書(バイブル)。私のは電子書籍版。口語訳聖書・日本聖書協会編。この書は、邪師による邪義を構えた邪教の産物の書物なので、悪書として扱い、これに毒されぬよう、破折を加えながら読む事と致している。
 我が菩提寺の日蓮正宗無量山寿海寺の御住職様も、一切、一向に、破折をしながら、折伏する気概で読むならば、敵を知らないでは戦えないので、別段、この邪教の書籍、本類を読んで構わない、とのお立場、ご指導も受けた上での私の今日の、折伏活動への一環、一助としての、これら間違った教えを知る上での破折の読書である。

 日蓮正宗が本拠とする、宗祖日蓮大聖人様の、「御書」。それに、「妙法蓮華経(法華経)」。これらは、世界万民に最初から説かれた、一切衆生、人種差別など一切ない、真実の世界宗教に足り得る、世界に向けて書かれた、三証の内の、「文証」に基づいても、当然、この御教えは、「世界宗教」への道を開き説いた、人種差別などは一切ない経典の種類に数えられる。
 大聖人様の、御書なども、「立正安国論」などを取ってみても、一往は、日本人、日本国民、当時の北条幕府の、為政者に説き伏せた御書ではあるが、再往は、全世界の人々へ向けたメッセージと捉えて構わない。大聖人様もその御覚悟で執筆に臨まれている。
 それがしかし、キリスト教はと言えば、その文証となる、「聖書(新約聖書)」によれば、それらがガラッと変わる。その証として、聖書から引用させて頂く。
 マルコによる福音書・第七章二五節からの引用だ。
 『そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる子犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。』(口語訳聖書:日本聖書協会)
 つまり、ここでも登場した「聖書」によると、イエスは当初は、自身が属する「ユダヤ民族・ユダヤ人」にのみ特化して、ユダヤ人にしか、教えを説いてはいなかった事になる。初めから、想定していたのは、世界の数多ある民族集団の中の、ユダヤ人、イスラエル人のみであったのだ。
 私は高校生だか、社会に出てからか、この場面を読んでいて、ある種の違和感を感じた。イエスキリストは、当初は、当初から、この教えを、世界には発表、世界に向けては全然教えを説いてはおらずに、イスラエルの、細々とした伝道にしか、初めから興味はなかった事に。
 イエス自身のイメージダウンもいいとこだ。
 イエスはただの、ユダヤ教の改革者になろうとして、十二人の弟子たちを連れた、弱小教団、イスラエル地方のローカル教団に過ぎなかった訳だ。それを、世界宗教に改組、飛躍させる魔術を使ったのが、この新約聖書の使徒行伝や各種手紙に後半に出て来る、「使徒パウロ」であった。
 このパウロも胡散臭い。一度もイエスになど、会った事も見た事もない。一介の自称ユダヤ教徒が、元はと言えば、キリスト教会を迫害する側だったのが、幻で(この時点で、神懸かり宗教の面目躍如だ。元々の一神教のユダヤ・キリスト教自身・自体が、神懸かり宗教の最たるものだ)キリストの幻想の姿を夢で見て、自身がキリスト教への改宗をして、改心した、というのである。
 それからのパウロは、新約聖書の後半部のほとんどの書籍、文書を担い、世界宗教への飛躍を期して、船に乗り或る時は徒歩で、地中海の、ギリシア、ローマ帝国内にこの教えの布教・伝道の旅へと向かい、おそらく、その成功を目指す途上で、殉教したのか、定かではないが、これが、ローマ帝国内では、初めは地下活動の如くの隠遁生活の、実際ローマの地下のカタコンベ、地下墓地にて、彼らは定期的に住み込み、祈りを隠れるように捧げていた。
 その後の帝国内での大弾圧を乗り越えて、信者数は爆発的に増え、遂に、西暦392年ローマ帝国の国教となる。
 これに果たした国教化前の初期信者のパウロら弟子の活躍は目を見張るものがあるが、詰まりは、前述の通り、イエスは世界宗教などは全く目指してはいなかった事が、聖書を通してみても明らかであり、パウロが全ての教えの発展へのレールを事前に敷いたおかげで、今日のキリスト教がある。「パウロ教」がキリスト教の神髄だ、との説、パウロがいなかったら、キリスト教などとっくに過去の産物だったと言える。
 とにかく、聖書の、新約聖書の後期後半部のパウロ著述部分は、世界宗教然とした風の、如何にもそれらしい体を為すが、それ以前の、四福音書、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ、等を読めば、イエスの教えと=「イエス教」、後に説く、パウロの教えとが=「パウロ教」、如何に、かなりのこう言っては何だが、自語相違・自己矛盾・乖離(かいり)を見せている事共を、ドグマに毒されない、まっさらな純真な心、特に他宗教の人、仏教徒をはじめ、諸般を見通す賢い読者ならば気付かざるを得ないだろう。
 キリスト教の常識は、他宗教信徒達の極めて非常識である事共に、キリスト信者のみが気が付かないようだ。
 この宗教、キリスト教は、ベツレヘム、ナザレ、ガリラヤ生まれ育ちの、イスラエルの一寒村出身者の、ガリラヤ訛りで語る田舎者の、イエスによる、一地方出身者による、イスラエル・ユダヤ教の一改革者であったのは疑いようはなく、今日、キリストと称えられ得るような、十字架上の刑死を、全人類の罪の贖い(あがない)の為の、イエスの「神の子」としての代償を払ったとする、即ち、それらは、神の子が、父なる神の命ずるままに、人類に罪の許しの象徴としたとする、それらの神学、教学は、全て、当時の、イエスとは実際に会った事もない、イエス未体験者による、巧妙な作り話、聖書作家達も、壮大な、これらのパラダイム、規範を提示したに過ぎぬ。
 元はと言えば、本来から、イエスは、ローマ帝国の法を破り、首都エルサレム内の神殿内にて、商売を商う人々の屋台等を暴虐の限りに打ち壊して、その後、反乱罪、帝国の反乱を目指し企てた罪で、死刑が執行された、本来ならば、犬死であった所を、後世のキリスト教信者達が、勝手に集団幻覚幻想にでも捉われ神懸かりにでも遭ったのか、それを、「死んだ後に三日で蘇り」、「処女マリヤからの生誕」話や、「奇跡」などと言う、多くのこれら「聖書」の記述は、ハッキリ言って、質(たち)の悪い、悪宣伝、自分の教えを最上のものに思わせる、余りに陳腐な、絵空事、「フェイク」、「ウソ」の類である。
 これを見抜けないようでは、三歳四歳の子供ならいざ知らず、大の大人が、いまだに、イエスの「奇跡」などに頼り切り、それらを信仰の本拠根拠、素晴らしい教えの証拠だとでも思い信じているようだったら、それは問題であり、間違っている。
 その人は根本から、間違っている。人間的にも、私はその人を、人生上、人格的に、尊敬する事等、決して出来はしない。初めから無理があり過ぎる。
 ちっとも、キリスト教もそうだが、この場合、フェイク、ウソ情報で騙されている、同じく日蓮正宗から見れば異流義の、創価・顕正会等も、信用がならず、信頼など決して出来はしない。
 これは差別でも何でもなく、宗教の教えの正邪に基づく、日蓮正宗の正しい御教えを知ったからには、それら邪教に破折、折伏せずには、この身が同じく、謗法与同罪に与(くみ)してしまうのである。これを正宗信徒は一番に怖れる。
 実際上、他人の謗法行為を見過ごせば、邪教に協調協同したという、謗法与同した私達自身の堕地獄行と成り果てて私自身が無間地獄に堕ちねばならずに、知らぬ振りとは、誠に非常にコワい事なのだ。
 だから、無責任に放って置いて、他人に、邪宗教の本尊、守り、置物、ペンダント、最近で言えば、邪宗邪教の神社仏閣等の御朱印集め、等々にしろ何にしろ、それらを謗法払いさせねば、そうして、最終的には、否、始まりの最初っから、私共の信ずる信仰信心に導いてあげなければ、私たちの義務、義理人情、仏様の使いとしての、心の想いを果たした事等には決してならない。

 閑話休題。それはさておき。話しを元に戻して、昔からこうした「奇跡譚」偉人が為した、珍しい、それらキセキの類は、枚挙にいとまがなく、仏教では、釈尊の仏典にもそれら、奇跡の話はあるにはあるが、それを、真っ当に信じていたら、原理主義者となり得る。
 キリスト教では、余りに奇跡等で、病気治しやら、問題解決の為に、それら「奇跡」が都合よく宗教に利用され過ぎている。「奇跡」に頼り過ぎの宗教=キリスト教。それしか信ずるものがない、実態は無力な「神の沈黙」した宗教、キリスト教。
 私が或るキリスト信者に聞いた言葉では「キリスト教は奇跡があるから、最高の宗教なのだ」と訴えた者を知っているが、これは宗教の無知、恥も外聞も臆面もない、ずぶの宗教素人の幼稚な人の述べる言葉、言説である。
 とにかく、私はキリスト教と関わって来て、十年近い日々を過ごしていて、キリスト教の魂胆、悪辣(あくらつ)さが手に取るように解るし、それらを日蓮正宗の大仏法哲学によって、見事に粉砕、破折する術(すべ)をとっくに宗内で勉強して研鑽をして身に着けていて、向かう所敵なしである。
 それらキリスト教に「神の沈黙」故、現証・御利益も全くなく、「什一献金」で、夢遊病者の如く、多くの塗炭の苦しみをキリスト教徒は味わい毎週日曜日に金にうるさい汚いキリスト教会にて、収奪剥奪されている事等も私は良く理解している。
 今後は、これら邪教・キリスト教徒を、カトリック・プロテスタント・東方正教会(日本ハリストス正教会・ロシア正教等々)を救いに救い切って、私の全人生のライフワークとして頑張って破折、折伏をしてゆきたいと思う。
 それは、同じ外道宗教の、日本の固有古来からの邪宗教・神社神道にも言えて、同じ神様宗教・外道宗教として、これらも同じく破折、折伏を加えて行って、私の全生涯をそれら邪教の撲滅にこの身を捧げ尽くす事をここに誓う。
 日蓮正宗ほどの、御本仏宗祖日蓮大聖人様の築き上げられた本物の、血脈相承、法水写瓶、法灯連綿の、寸分違わない、大仏法大仏教哲学に基づく、大宗教、高等宗教、大日本において八百年の歴史を誇る伝統宗教、どこの邪宗教諸々共々へも、何度、法論に際しても決して負けない、必ず勝てる正統派宗教は、この末法の御代、時代に、この宗教、日蓮正宗以外に、どこにも存しない事をここに訴えて、キーを叩き終えようとする次第であります。
 以上。よしなに。長文失礼。wainai


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